狐の暇乞い

佐武ろく

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白昼

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 ここ最近、家と会社に次いで多く訪れている場所。
 その日も僕はそこへ足を運んでは、まず視界一杯に広がる名画のような景色に立ち止まった。そして見慣れたはずなのに依然と染み渡るそれを感じていると数秒後、物足りなさに辺りを見回す。

「こっち」

 その声にほっと胸を撫で下ろしながら僕は声の聞こえた方へ歩き出す。
 陽咲はあの古い建物の縁側に腰掛けていた。少しだけ隙間を空け僕も隣へと腰を下ろす(申し訳ないけど和尚さんの言葉なんて忘れていた)。軋みが耳を突きながらも僕は自分と彼女との間に出来た隙間にふと視線が落ちた。懐古の情に駆られつつもやっぱり心寂しい隙間。

「どうしたの?」
「ん? いや。なんか……付き合い始めた時みたいだなって思って」

 僕の言葉に陽咲もその隙間へと視線を落とすと、「ふふっ」と笑い声が零れた。

「改めて恋人同士ってなって変にしてた緊張分だね」
「でもすぐに慣れてきたらあっという間に埋まったよね。――だけど、今はそうもいかないか」

 それはどれだけ叫んでも叶わない。手を伸ばせば届くはずなのに、陽咲はとても遠く、今の僕はこんな距離でさえ埋められない。
 そっと伸ばした手は二人の間で力無く落ちていき時代に忘れられ酷く黒ずんだ木目に触れた。陽咲はそんな僕の手を見つめながら遅れて手を動かし始める。静寂の中を泳ぐように僕の手へ近づく彼女の恋しい手。
 でもその手は当然ながら上空で止まってしまった。見えない壁でもあるかのように触れ合う事の出来ない手と手。今すぐにでも持ち上げ握り締めたい気持ちを押し殺し、僕は掌を上へ向ける。
 鴉の鳴声だけが遠くから聞こえる中、僕と陽咲は同時に顔を見合わせた。
 そして互いの温もりを感じる事の無いまま僕らの手を握り合った。一秒……二秒……。狐面越しの陽咲と見つめ合う。その間、心が想い出すこれまで何度も握り合った彼女の手の温もりと感触。それは現実の距離を代わりに埋めるようだった。実際に触れ合っていなくとも不思議と指が絡み合い手に力が入る。
 二人の間に言葉は無い。でもその沈黙でさえ彼女とのなら心地好い。深く交わされた口付けのように絡み合う視線。愛の匂い。宇宙空間へ放り出されたみたいに辺りの音は聞こえず、僕は彼女しか見えてなかった。ただ心臓が足早に鼓動する中で僕らはゆっくりと互いの引力に引き寄せられ始める。もう世界に残されたのは二人だけなんじゃないかってぐらい僕の中には彼女だけ。
 だけど互いの唇が触れ合う事はおろか顔が近づく事も無く、ハッと我に返ったのか陽咲は顔を逸らしながらすぐに僕から離れ、同時に手を引いた。すぐ目の前には心から愛し人生を鮮やかにしてくれていた陽咲が居るのに……僕はその手にすら触れられない。そんな彼女を見ながら心を蝕む寂寥感を色濃く感じはしたが、彼女の言葉が頭を過り遣る瀬無い気持ちがそれらを包み込む。更にこんな現実に対する苛立ちと言うべきか悔しさと言うべきか――僕の心は混沌としていた。

「……ごめんね」

 陽咲は静かにそう一言。その言葉に僕は(彼女が望まぬと分かっていても)自分の不甲斐なさを感じざるを得なかった。「僕の方こそ」そう思ったが言葉を口にすると堪え切れないような気がして。僕は眉根を寄せ唇を噛み締める事しか出来なかかった。
 そしてさっきとは一転、重苦しい沈黙が僕らに圧し掛かる。

「――ここで最初に会った時、言った事覚えてる?」

 すると顔を俯かせ依然と視線は合わぬまま陽咲が沈黙を静かに払い除けた。

「それって――約束ってやつ?」
「ううん」

 少し無理をした声であの時を思い出しながら答えたが陽咲は小さく首を振った。

「私がどうして君に会いに来たか」

 僕は一人記憶を辿る。あの日、この場所で陽咲が言っていた事を思い出そうとした。でもそれよりも先に時間切れだと言うように彼女は続きを口にし始めた。

「心配な事があるんだよね。多分、それがこうして私が君の前に現れる事が出来た理由だと思う。こーゆーのって言い方次第では、未練って言うのかな。だとしたら私って成仏できない浮遊霊だね」

 ふふっ、と狐面越しに聞こえた柔らかな笑い声。
 でも微笑みを浮かべつつも僕は心配な事が何なのか気になっていた。
 彼女が今どういう状態かは忘れ、僕はただ単純に少しでも陽咲の不安やその心配を取り除ければって思ってた。この気持ちは今も昔も変わらない。友達や学校や会社の上司部下もそうだけど、特に一番愛してる彼女には少しでも幸せでいてもらいたいから。心から笑って欲しい。その為に出来る限りの事はしたいんだ。優しいとか彼女の為とかだけじゃなくて――僕の為にも。
 君が幸せなら、そんな君が僕を幸せにしてくれる。

「その、心配な事って?」

 陽咲は狐面の顔を上げ、僕と見つめ合った。もどかしささえ感じる絶妙な間の後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「君だよ」

 たった一言。それだけでは何がどうなのか分からないような言葉だった。

「……僕?」

 思わず訊き返してしまう。

「――私が居なくなって君は大丈夫かなって思って」
「大丈夫だよ。心配しなくても。淋しいけど……大丈夫」

 精一杯強がったつもりだった。正直に言うと大丈夫じゃない。自分でもハッキリと分かる程に僕の心にはぽっかりと穴が開いてしまっていた。仕事に復帰し忙しさでそれを埋めようとしたが、家に帰れば思い出す。どうしても君のいなくなった穴は埋められなかった。

「ううん。そうじゃない」

 でも君はそんな僕を見透かしたように首を振って見せた。

「君の――」

 徐に上がる狐面。

「これからだよ」

 意味は分からなかった。だから黙ったままその狐面を見つめるしかない。
 でも、三秒四秒……と沈黙は続き耐えかねた僕は先に尋ねた。

「どういうこと?」
「私もそうだったけど――君は私を本当に愛してくれてたでしょ」
「愛してるよ。これからもずっと」

 それは別に尋ね口調でも無かったが、僕は思わずそんな反応をしてしまった。だって本当に愛しているのだから。今も、これらもずっと。

「だからだよ」

 すると陽咲は嬉しそうにしながらも首を振った。心とは別に体で否定を見せたのだ。
 そしてこう続けた。

「私はね。君に幸せになって欲しいんだ。本当は私と一緒に。――でも、私抜きでも幸せになって欲しい」

 それは僕も同じだ。プロポーズをした時には既に、君と一緒に幸せになりたかった。

「だけどさ。君は立ち直っても再婚とか考えないかもって思ったんだよね。――自分で言うのは何かあれだけどさ」

 どこか気恥ずかしそうな陽咲だったが、正直に言って、僕はこれまで再婚なんて考えた事も無かった。彼女以外に心の底から愛せる人なんて居ない。それは考えるまでも無い。

「そうだよ。だって僕は君だけを愛してるんだよ?」
「君は優しいし一途だからね」

 分かっていた、そう言うような口調だった。

「でもさ。どれだけ想ってくれても……私はもう――いないんだよ?」

 今にも泣き出しそうな声に釣られ僕も胸を締め付けられてしまう。

「でも……。――僕は君を一番……愛してるんだ」
「――私も。だけど、私はもういなくて。君の気持ちには答えてあげられない」
「分かってるけど……」
「だから心配だったんだよ。――このままだと君は、一人で悲しみを抱えたままになっちゃう。――でもそんなのは嫌」
「じゃあ、こうしていつまでも一緒に――」

 それは僕の我が儘だったのかもしれない。そうであって欲しい。そう心から思っていた。

「――駄目だよ。そんなの」

 でも陽咲は首を振ってそれを否定した。

「だったらどうして――」

 どうして僕の目の前に現れたんだ、そんな気持ちが僅かだが溢れ出した。

「私はね。君に幸せになって欲しいんだ。君と同じでさ」

 僕は意味が分からなかった。だから返事すらままならない。何か聞きたくない事を言われそうで漠然とした不安のようなものが渦巻いているのを感じる。その何かを遠ざけたい一心で表情に構う余裕すらない。

「私は君に……」

 いつの間にか僕に見えていたのは無表情の狐面だった。

「新しい人を見つけて欲しい。その人と一緒になって幸せになって欲しいんだ」

 嫌だよ、声にするより先に心の中で反響する言葉。
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