ベランダの天使

佐武ろく

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 それは翌日のことだった。この日は朝から仕事が捗った。何故かは分からない。ただそういう日。順調に仕事が終わり、一区切りついたところでふと時計を見てみると、

「定時までには余裕で終わりそう」

 思わず零れた笑みを浮かべ俺は残りの仕事にとりかかった。帰ったら何をしようか。それとも何か美味しい物でも食べようか。そうだ、美味しい物を持ち帰って彼女とお酒でも飲みながら話しでもしよう。
 頭の隅でそんな事を考えて既に浮かれ気味になりながらも俺はこの日の仕事をしっかりと終えた。もちろん定時前に。

「よしっ。終わったぁ」

 それが俺には嬉しくて堪らなかった。しかも今日は朝から働いて働いたから(お昼の時間も削って)その頑張りが報われたんだと余計に。
 だけどその時。俺の名前を上司が呼んだ。胸が嫌な予感でざわつきながらも上司の元へ。

「はい。何でしょうか?」
「これ頼む」

 そう言ってそれが当たり前だと言うように差し出された。
 でももしこれを受け取ってしまえば残業は確実。ついさっきまで花畑で駆けるような気分だったのに、今じゃ土砂降りの中で立ち尽くす気分だ。このまま帰って、美味しい物を食べてゆっくりしたい。

「ほら。早く」

 でもそんな自分とは相反して手が上がっていく。まるで自分の体じゃないみたいに、俺の意志なんて無視するみたいに。いや、これも俺の意志の一部なんだ。結局、俺は……。
 だけどその時、僕は仕事を受け取ろうとする自分の左手を見て停止した。そしてそのまま左手を顔の前へ。
 そこにはもうないはずなのにあの温もりが残っていた。目を瞑ればより鮮明に包み込むように広がっていく。心做しか微かにタバコの匂いもした。
 そして、確かに聞こえてくる。

『いつでも傍で応援してる。一緒に闘ってる。アタシが付いてるから』

 そこには――俺の傍には彼女がいた。あの何にも臆する事の無い、俺にないモノを持った天使が――俺には付いている。

「何してるんだ?」

 不審がる上司の言葉で目を開けた俺は、眦を決して上司を見た。真っすぐ、俺の決意は固いと伝えるように。

「いや、です」

 言われていたものより二文字多かったがそれは上司と部下分だ。
 でも俺はそうハッキリと口にすると踵を返しデスクへと戻り、鞄を手に取ってそのまま会社を後にした。
 雨など微塵も心配する必要のない蒼穹のように清々しく、初めて一人で自転車が乗れた子どものように満足が満ち溢れながら俺は帰路に就いていた。想像より何倍も――いや、何十何百倍もいい気分で。同時に早くこの事を彼女に話したいと思っていた。話してお礼を言いたい。一緒に言ってくれてありがとう、と。
 だがその日、結局彼女が現れる事は無かった。彼女は姿を現してから毎日のようにそこにいた。ベランダで座りタバコを吸っていた。だから俺にとってはいつの間にかそれが当たり前になっていたのだ。家に帰ればベランダでは天使である彼女がタバコを片手にサボってるのが。
 でも彼女も仕事があると言っていた。だからもしかしたらサボってるのがバレて叱られでもしたのかもしれない。そう簡単にはサボれなくなったのかもしれない。そう思った。

「まぁ、仕方ないか」

 そう呟いてずっと開けっ放しだったカーテンを閉め俺は眠りについた。
 でも次の日も。そのまた次の日も。三日四日、一週間、一カ月経っても彼女は姿を現さなかった。その状況のまま俺の中の不安や疑問だけを取り残すように時間だけが過ぎていった。
 だけどいつしか俺は思うようになった。しっかりと嫌だと断れるようになった俺は、もしかしたら本当は彼女という天使は存在しなかったんじゃないかって。普通に考えれば天使なんているはずもない。何かの宗教を信仰してれば別だが。俺は生憎、何もない。
 じゃあ、俺が見て言葉を交わした彼女は一体何者だったのか。俺が見てた幻覚かもしれないし、夢かもしれない。それは分からないし答えは出ない。
 でもひとつだけ確かな事はある。今でも俺は目を瞑りあの瞬間を思い出せるという事だ。手に温もりを、タバコの匂いを、彼女の言葉を。全てを思い出せる。思い出し俺に勇気をくれる。
 彼女は俺を応援してくれてる。彼女は俺と一緒に闘ってくれてる。彼女は俺の傍に付いてくれてる。

          * * * * *

 それはある朝。眠気ひとつなく目覚めた俺はスッキリとしたままカーテンを開けた。差し込む朝日は眩しくも温かい。
 するとふと視線を下げた俺はベランダに落ちているそれに気が付いた。鍵を開け窓を開けると肌寒いベランダに下りる。俺は視線を向けたままそれを拾い上げた。
 そこに落ちていたのは、一枚の羽根。純白の穢れ無き羽根だった。とても軽くふわり柔らかい。俺は少しの間、その羽根を指先でクルクルと回しながら眺めていた。
 すると羽搏く音と共に一瞬の翳りが俺を覆った。反射的に顔を横へやったが、その時には朝日が何食わぬ顔でこっちを見ているだけ。そこには誰もいなかった。鳥一匹でさえも。
 気の所為か、手で作った影に双眸を収めながら辺りを見回した俺はそう期待分の落胆を感じていた。きっと諦めつつもまだ心のどこかでは期待し続けてるし、これからも期待し続けるんだろう。

「はぁー」

 自然に零れた溜息の後、手元の羽根へ視線を落とした。

「戻ろう」

 一人呟き朝日へ背を向けた俺を微風ながらも冷たいそよ風が撫でた。
 その時、心做しか微かにタバコの匂いがしたような気がした。
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