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「お兄さま、見てください。殿方がたくさんいますわ」
「そんなに前のめりになるんじゃない、イネス」
十八歳になった春、私はマルセルにエスコートされ、貴族子女たちの通う男子学園と女子学園の卒業生が一堂に会する大規模なパーティーにやってきていた。
貴族令嬢にしてはおおよそ品のない、ギラつくような眼差しをあちこちに向ける私を見て、マルセルがこらこらと小声で窘めてくる。
このパーティーは卒業記念であるのと同時に、女性にとってはデビュタントの晴れ舞台でもある。
十代半ばからあちこちの夜会に顔を出せる男性と異なり、女性が社交界に正式に参加できるのは成人してから。
会場にはグラン国王夫妻をはじめ、名だたる貴族たちが集まっている。
女性たちはみな白いドレスを身にまとい、国王夫妻に挨拶をしてから正式に結婚のできる成人として認められるのだ。
これを機に本格的にグランの社交シーズンが始まる。
かくいう私もパーティーに参加するのはこれが初めての経験だ。
使用人は別にしても、今まで父と兄以外の男性との接触がなかったことを考えると、ようやく夢に一歩近づいたといえよう。
ここまでくるのに本当に長かった。
ボンキュッボンのお色気お姉さんに憧れ、どれだけ自分を磨いてきたことだろうか。
前世とは異なり、友人もたくさん作った。
友人とともに街のブティックに買い物に行ってはお洒落を楽しんだり、お茶会を開いては女子トークに花を咲かせたり、キャッキャッうふふな学園生活を送ったのだ。
私の影響で何人かそっちの方向(受け身じゃダメよ! 貴族だって恋愛結婚がしたいわ!)に目覚めた友人もいるくらいだ。
ここで落ち着け、がっつくな、というほうが無理な話だろう。
小難しいことはさておき、つまり、ここは狩り場。
「お兄さま、さすがの私も手当たり次第に男を漁るつもりはありませんわ。なんとしてでも理想の殿方のハートをゲットしたいだけですから」
私は舌舐めずりするさまを扇子で隠しながら、談笑やダンスに興じる男性陣を観察していた。
マルセルがやれやれと肩をすくめる。
「イネス、いくらなんでも不躾に見つめすぎだぞ」
「ふだんからお兄さまのお顔を見慣れているせいか、イケメンしか目に入ってきませんわね」
「軍人ばかり見つめているあたり、おまえの好みが手に取るようにわかってしまう。同じ転生者としてここは喜ぶべきか、それとも兄としてきちんと……」
男は女よりも自由が利くせいか、同じ転生者であっても兄のほうがこの世界にうまく馴染んでいるかもしれない。
マルセルは私に一定の理解を示しつつも、さりげなく苦言の声を投げかけようとした、そのとき――。
「きゃあっ……!!」
「よくもか弱いケティ嬢の足を踏んだな!」
マルセルの言葉を遮るように悲鳴が上がり、あっという間に会場じゅうが騒ぎに包まれた。
私はすかさず声のした方向に目をやる。
衆目を集めているのは、美しく可憐なご令嬢。彼女がケティなのだろう。瞳に涙を滲ませながら男の腕にしなだれかかっている。
だがその男が誰なのかは知っている。というより、この場にいる誰もが知っているに違いない。
エドヴァルド・グラン。この国の第三王子だ。
貴族であれば、王族の姿絵くらい見たことがある。
ただ見た目は金髪碧眼の美男子にもかかわらず、どういうわけか顔が醜悪に歪んでいる。
この場合、意地悪そうという言葉がぴったり当てはまるかもしれない。いくらルックスがよくても陰険そうな表情ではすべてが台無し。その典型例だ。これでも私と同学年というのだから呆れてしまう。
「いや……ちょっとお腹のせいで足元が見えなくて……そ、その……わざと踏んだわけでは……」
そのすぐそばでオロオロしている男にも見覚えがあった。
ルキウス・グラン。こちらは第二王子。エドヴァルトの兄でもある。
黒髪碧眼の……かっこいいというにはだいぶかけ離れた、ふわふわまんまるの体型。
身長だけでいえば第三王子よりも高いが、いかんせん横幅の広さが目立つ。
前世地下鉄の駅構内の広告でチラッと見たことがある『マシュマロ◯ン』にも似ているかもしれない。
一つひとつの顔のパーツは綺麗に整っているというのに、もったいないことに脂肪がそれらを隠している。
先ほどマシュマロ◯ンにも例えた通り、ともすれば可愛くも見えてくるから不思議だが。
「ああ、可哀想なケティ嬢! 兄上の婚約者にあてがわれ、どれだけつらかっただろうか! 王子とは名ばかりで、兄上の体型はズボラ、根性無し、怠け者のそれだ! 事実、そのだらしない体からは悪臭が漂い、お付きの者さえ煙たがっている! そればかりか兄上は公務さえまともにこなせない! ただの金食い虫! 税金の無駄遣いだ!」
エドヴァルドは声高にそう叫んだ。
そしてさも当然と言わんばかりにルキウスを突き飛ばす。
対するルキウスも抵抗する気がないようで、エドヴァルドの一撃にフラフラとあとずさり、そのまま床に膝をついてしまった。
見ているこちらまでいたたまれない気持ちになるほどの光景だ。
仮に足を踏むという事故が本当だったとしても、はたして公衆の面前でそこまで相手を貶める必要があるのだろうか。
このとき『私刑だ』とか『行きすぎだ』とか、そういった言葉が私の脳内によぎる。
「陛下! 兄上にケティ嬢はふさわしくありません! どうか……!」
なるほどねぇ。ルキウスの婚約者を自分に譲ってほしい、つまるところ彼はそう言いたいのだ。
ケティが婚約者であるルキウスに向ける視線は、端から見ても愛すべき人に向けるものではない――軽蔑、嫌悪といったたぐいのもの。
その代わり、ケティがエドヴァルトに向ける目は熱っぽい。まさしく恋する乙女のそれといっていい。
恋愛が悪いことだとは思わないが(むしろ私はしたい!)、足を踏むくだりは必要だったのだろうか。単にデブだの臭いだのと言いたいだけだったのでは?
初めての社交界でいきなり痴情のもつれを見せられると思わなかった私は、深く溜息をついてしまった。
なんという三文芝居! どうせ見るなら男女の絡みのほうが見たかった。
とはいえ、エドヴァルドとケティの睦み合いを見ているとイライラするのはなぜだろうか。陛下も仕方ないといった具合にうんうんと頷いているからだろうか。
「も、申し訳……」
ルキウスは俯いたまま謝罪を口にした。顔もずいぶん蒼褪めている。
もしかすると本当に気分が悪いのかもしれない。私ですらこの茶番劇にうんざりしているのだから、当事者である彼は相当参っているだろう。
「ううっ……」
心配したすぐそばから、ルキウスがえずいた。
その瞬間、遠巻きに見ていた人たちが彼からさらに距離を取る。
もう! これ以上見ていられないわ! そう思った私は、マルセルの腕から手を離してルキウスに歩み寄った。
「ルキウス殿下、大丈夫ですか?」
「きみは……?」
不安そうな面持ちでこちらを見上げるルキウスに、私は微笑みを湛えながら声をかけたのだ。
「もしご気分がすぐれないのでしたら、このハンカチーフをお使いくださいませ」
「え……? だが、それではきみのハンカチーフを汚してしまう……」
「構いません。こんな布きれ一枚よりも殿下のお体のほうが大事ではありませんか」
「い、いや……」
ルキウスは言葉を濁した。
「……第一に僕なんかに声をかけたら、きみまでみんなから嫌われてしまいます。その白いドレス……せっかくのデビュタントなのでしょう?」
どうやらルキウスは私の評判を気にしているらしい。
自分よりもまわりを気遣うとか、どれだけ優しいのよ!! そこはありがたく受け取ってちょうだい!! などと心の中が荒ぶってしまったが、表に出さないぶんどうか許してほしい。
エドヴァルトとケティ、さらには聴衆から白い目で見られたが今さらである。
そうなることは声をかける前からわかっていた。
それでもルキウスに声をかけたのは――。
「構いませんよ」
私は笑みを絶やさずに小さく首を振る。
「……!!」
するとその反応があまりにも意外だったのか、ルキウスが目を瞠った。
これじゃあまともに前なんて見えないんじゃないかと心配になるくらい長い前髪の隙間から、まんまるになった目がこちらを覗く。
黒髪と鮮やかなコントラストをなす碧い瞳が、シャンデリアの光加減で先ほどよりも碧く見えた。どこか静謐な湖を思わせる不思議な色だ。
ほんのわずか、時間にすると一秒か二秒、綺麗だなぁと惚けてしまったほど。
そんな中いい匂いまで漂ってくる。もしやエドヴァルトの言っていた悪臭とはこのことなのか。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』とは言い得て妙だなとも思う。
「ちょっと待ってください! 僕は綺麗などでは……! それに匂いなんて……!」
ルキウスの声が見事に裏返った。ついでに頬もみるみる薔薇色に染まっていく。
あ……可愛い、と思ってしまった自分は、マシュマロを意識しすぎやしないか。
そうでなくても碧眼が美しいのだ。もともとの顔立ちもあって痩せたら間違いなくハイスペックイケメンになるだろう。これが磨けば光る原石というやつかもしれない。
どうして今まで誰もそのことを指摘しなかったのか。この際誰も手を挙げないなら、私がお嫁さんに立候補しているところなのに。
「お……お嫁さん!? きみが……!?」
ルキウスはハンカチーフを受け取らないまま、しかし食い入るように私を見つめながら言った。
こりゃあいかん。顔がさっきよりも真っ赤。頭の上からプスプスと湯気まで立っている。
というか待って。さっきから心の中で会話が成立しているような……?
小首を傾げれば、ルキウスが声をひそめてこう返してきた。
「『なぁんだ。せっかくの社交界デビューだから精一杯おめかししてやってきたのに、こんなくだらない場面を見せられるなんてガッカリだわ』」
「……え? で、殿下?」
「『しかも、誰も殿下に手を貸さないなんて信じられない。明らかに弱いものイジメじゃないの』」
「いったい何をおっしゃって……?」
「『見た目ばかり美しくても心が不細工すぎる。今日の収穫はゼロよ。ああ、もう早く帰りたい。今年のシーズンは終わったわね。来年に期待しましょう』」
「まさか……殿下は男同士の……その、もしかしてそっち系の方だったのですか!?」
「僕は同性愛者ではありません!!!!」
心外だと言わんばかりに、間髪を入れずにルキウスが否定した。
殿下は男色ではない。が、なにやらオネエ言葉をしゃべっている。どうして……?
まさかのルキウスの言葉に私の脳内はパニック状態に陥る。
え? 全然わからないんですけど。
「イネス! 厄介なことになったぞ。殿下にハンカチーフを渡したらすぐに帰ろう!」
そうこうしているうちにマルセルが息を切らしながらやってきた。
「お兄さま?」
「ルキウス殿下は小説の中の『当て馬』役だ。これ以上我々が関わるのはまずい」
私はハッと混乱から我に返ると、マルセルのほうを振り返る。
え? 当て馬? もしや噛ませ犬のことですか?
小説には関わるまいと思っていたのに、私ったらいきなり何をやってるのよ!
私は心の中で自分に悪態をつくと、無礼を承知でルキウスにハンカチーフを押しつけ、すぐさま会場をあとにすることにした。
とうのルキウスに追ってくる様子は見られない。目も口もぽかりと開けてこちらを見ているだけ。
よかった。ビックリしているだけみたい……。いや、王子様を驚かせてよかったのか……。なぜだか嫌な予感がする。
そんな私の不安は、帰りの馬車の中で見事に的中した。
「イネス、まさか小説の主要キャラに話しかけるとは思わなかったぞ。ルキウス殿下はおまえの好みと違うからノーマークだったが……」
「どうして心配そうな顔をするんですの、お兄さま?」
私の言葉にマルセルが渋い顔をする。
「ルキウス殿下は心を読めるんだ。特別な力といえばわかるか?」
「え? ええええええーーーーっ!!!!」
「そんなに前のめりになるんじゃない、イネス」
十八歳になった春、私はマルセルにエスコートされ、貴族子女たちの通う男子学園と女子学園の卒業生が一堂に会する大規模なパーティーにやってきていた。
貴族令嬢にしてはおおよそ品のない、ギラつくような眼差しをあちこちに向ける私を見て、マルセルがこらこらと小声で窘めてくる。
このパーティーは卒業記念であるのと同時に、女性にとってはデビュタントの晴れ舞台でもある。
十代半ばからあちこちの夜会に顔を出せる男性と異なり、女性が社交界に正式に参加できるのは成人してから。
会場にはグラン国王夫妻をはじめ、名だたる貴族たちが集まっている。
女性たちはみな白いドレスを身にまとい、国王夫妻に挨拶をしてから正式に結婚のできる成人として認められるのだ。
これを機に本格的にグランの社交シーズンが始まる。
かくいう私もパーティーに参加するのはこれが初めての経験だ。
使用人は別にしても、今まで父と兄以外の男性との接触がなかったことを考えると、ようやく夢に一歩近づいたといえよう。
ここまでくるのに本当に長かった。
ボンキュッボンのお色気お姉さんに憧れ、どれだけ自分を磨いてきたことだろうか。
前世とは異なり、友人もたくさん作った。
友人とともに街のブティックに買い物に行ってはお洒落を楽しんだり、お茶会を開いては女子トークに花を咲かせたり、キャッキャッうふふな学園生活を送ったのだ。
私の影響で何人かそっちの方向(受け身じゃダメよ! 貴族だって恋愛結婚がしたいわ!)に目覚めた友人もいるくらいだ。
ここで落ち着け、がっつくな、というほうが無理な話だろう。
小難しいことはさておき、つまり、ここは狩り場。
「お兄さま、さすがの私も手当たり次第に男を漁るつもりはありませんわ。なんとしてでも理想の殿方のハートをゲットしたいだけですから」
私は舌舐めずりするさまを扇子で隠しながら、談笑やダンスに興じる男性陣を観察していた。
マルセルがやれやれと肩をすくめる。
「イネス、いくらなんでも不躾に見つめすぎだぞ」
「ふだんからお兄さまのお顔を見慣れているせいか、イケメンしか目に入ってきませんわね」
「軍人ばかり見つめているあたり、おまえの好みが手に取るようにわかってしまう。同じ転生者としてここは喜ぶべきか、それとも兄としてきちんと……」
男は女よりも自由が利くせいか、同じ転生者であっても兄のほうがこの世界にうまく馴染んでいるかもしれない。
マルセルは私に一定の理解を示しつつも、さりげなく苦言の声を投げかけようとした、そのとき――。
「きゃあっ……!!」
「よくもか弱いケティ嬢の足を踏んだな!」
マルセルの言葉を遮るように悲鳴が上がり、あっという間に会場じゅうが騒ぎに包まれた。
私はすかさず声のした方向に目をやる。
衆目を集めているのは、美しく可憐なご令嬢。彼女がケティなのだろう。瞳に涙を滲ませながら男の腕にしなだれかかっている。
だがその男が誰なのかは知っている。というより、この場にいる誰もが知っているに違いない。
エドヴァルド・グラン。この国の第三王子だ。
貴族であれば、王族の姿絵くらい見たことがある。
ただ見た目は金髪碧眼の美男子にもかかわらず、どういうわけか顔が醜悪に歪んでいる。
この場合、意地悪そうという言葉がぴったり当てはまるかもしれない。いくらルックスがよくても陰険そうな表情ではすべてが台無し。その典型例だ。これでも私と同学年というのだから呆れてしまう。
「いや……ちょっとお腹のせいで足元が見えなくて……そ、その……わざと踏んだわけでは……」
そのすぐそばでオロオロしている男にも見覚えがあった。
ルキウス・グラン。こちらは第二王子。エドヴァルトの兄でもある。
黒髪碧眼の……かっこいいというにはだいぶかけ離れた、ふわふわまんまるの体型。
身長だけでいえば第三王子よりも高いが、いかんせん横幅の広さが目立つ。
前世地下鉄の駅構内の広告でチラッと見たことがある『マシュマロ◯ン』にも似ているかもしれない。
一つひとつの顔のパーツは綺麗に整っているというのに、もったいないことに脂肪がそれらを隠している。
先ほどマシュマロ◯ンにも例えた通り、ともすれば可愛くも見えてくるから不思議だが。
「ああ、可哀想なケティ嬢! 兄上の婚約者にあてがわれ、どれだけつらかっただろうか! 王子とは名ばかりで、兄上の体型はズボラ、根性無し、怠け者のそれだ! 事実、そのだらしない体からは悪臭が漂い、お付きの者さえ煙たがっている! そればかりか兄上は公務さえまともにこなせない! ただの金食い虫! 税金の無駄遣いだ!」
エドヴァルドは声高にそう叫んだ。
そしてさも当然と言わんばかりにルキウスを突き飛ばす。
対するルキウスも抵抗する気がないようで、エドヴァルドの一撃にフラフラとあとずさり、そのまま床に膝をついてしまった。
見ているこちらまでいたたまれない気持ちになるほどの光景だ。
仮に足を踏むという事故が本当だったとしても、はたして公衆の面前でそこまで相手を貶める必要があるのだろうか。
このとき『私刑だ』とか『行きすぎだ』とか、そういった言葉が私の脳内によぎる。
「陛下! 兄上にケティ嬢はふさわしくありません! どうか……!」
なるほどねぇ。ルキウスの婚約者を自分に譲ってほしい、つまるところ彼はそう言いたいのだ。
ケティが婚約者であるルキウスに向ける視線は、端から見ても愛すべき人に向けるものではない――軽蔑、嫌悪といったたぐいのもの。
その代わり、ケティがエドヴァルトに向ける目は熱っぽい。まさしく恋する乙女のそれといっていい。
恋愛が悪いことだとは思わないが(むしろ私はしたい!)、足を踏むくだりは必要だったのだろうか。単にデブだの臭いだのと言いたいだけだったのでは?
初めての社交界でいきなり痴情のもつれを見せられると思わなかった私は、深く溜息をついてしまった。
なんという三文芝居! どうせ見るなら男女の絡みのほうが見たかった。
とはいえ、エドヴァルドとケティの睦み合いを見ているとイライラするのはなぜだろうか。陛下も仕方ないといった具合にうんうんと頷いているからだろうか。
「も、申し訳……」
ルキウスは俯いたまま謝罪を口にした。顔もずいぶん蒼褪めている。
もしかすると本当に気分が悪いのかもしれない。私ですらこの茶番劇にうんざりしているのだから、当事者である彼は相当参っているだろう。
「ううっ……」
心配したすぐそばから、ルキウスがえずいた。
その瞬間、遠巻きに見ていた人たちが彼からさらに距離を取る。
もう! これ以上見ていられないわ! そう思った私は、マルセルの腕から手を離してルキウスに歩み寄った。
「ルキウス殿下、大丈夫ですか?」
「きみは……?」
不安そうな面持ちでこちらを見上げるルキウスに、私は微笑みを湛えながら声をかけたのだ。
「もしご気分がすぐれないのでしたら、このハンカチーフをお使いくださいませ」
「え……? だが、それではきみのハンカチーフを汚してしまう……」
「構いません。こんな布きれ一枚よりも殿下のお体のほうが大事ではありませんか」
「い、いや……」
ルキウスは言葉を濁した。
「……第一に僕なんかに声をかけたら、きみまでみんなから嫌われてしまいます。その白いドレス……せっかくのデビュタントなのでしょう?」
どうやらルキウスは私の評判を気にしているらしい。
自分よりもまわりを気遣うとか、どれだけ優しいのよ!! そこはありがたく受け取ってちょうだい!! などと心の中が荒ぶってしまったが、表に出さないぶんどうか許してほしい。
エドヴァルトとケティ、さらには聴衆から白い目で見られたが今さらである。
そうなることは声をかける前からわかっていた。
それでもルキウスに声をかけたのは――。
「構いませんよ」
私は笑みを絶やさずに小さく首を振る。
「……!!」
するとその反応があまりにも意外だったのか、ルキウスが目を瞠った。
これじゃあまともに前なんて見えないんじゃないかと心配になるくらい長い前髪の隙間から、まんまるになった目がこちらを覗く。
黒髪と鮮やかなコントラストをなす碧い瞳が、シャンデリアの光加減で先ほどよりも碧く見えた。どこか静謐な湖を思わせる不思議な色だ。
ほんのわずか、時間にすると一秒か二秒、綺麗だなぁと惚けてしまったほど。
そんな中いい匂いまで漂ってくる。もしやエドヴァルトの言っていた悪臭とはこのことなのか。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』とは言い得て妙だなとも思う。
「ちょっと待ってください! 僕は綺麗などでは……! それに匂いなんて……!」
ルキウスの声が見事に裏返った。ついでに頬もみるみる薔薇色に染まっていく。
あ……可愛い、と思ってしまった自分は、マシュマロを意識しすぎやしないか。
そうでなくても碧眼が美しいのだ。もともとの顔立ちもあって痩せたら間違いなくハイスペックイケメンになるだろう。これが磨けば光る原石というやつかもしれない。
どうして今まで誰もそのことを指摘しなかったのか。この際誰も手を挙げないなら、私がお嫁さんに立候補しているところなのに。
「お……お嫁さん!? きみが……!?」
ルキウスはハンカチーフを受け取らないまま、しかし食い入るように私を見つめながら言った。
こりゃあいかん。顔がさっきよりも真っ赤。頭の上からプスプスと湯気まで立っている。
というか待って。さっきから心の中で会話が成立しているような……?
小首を傾げれば、ルキウスが声をひそめてこう返してきた。
「『なぁんだ。せっかくの社交界デビューだから精一杯おめかししてやってきたのに、こんなくだらない場面を見せられるなんてガッカリだわ』」
「……え? で、殿下?」
「『しかも、誰も殿下に手を貸さないなんて信じられない。明らかに弱いものイジメじゃないの』」
「いったい何をおっしゃって……?」
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「まさか……殿下は男同士の……その、もしかしてそっち系の方だったのですか!?」
「僕は同性愛者ではありません!!!!」
心外だと言わんばかりに、間髪を入れずにルキウスが否定した。
殿下は男色ではない。が、なにやらオネエ言葉をしゃべっている。どうして……?
まさかのルキウスの言葉に私の脳内はパニック状態に陥る。
え? 全然わからないんですけど。
「イネス! 厄介なことになったぞ。殿下にハンカチーフを渡したらすぐに帰ろう!」
そうこうしているうちにマルセルが息を切らしながらやってきた。
「お兄さま?」
「ルキウス殿下は小説の中の『当て馬』役だ。これ以上我々が関わるのはまずい」
私はハッと混乱から我に返ると、マルセルのほうを振り返る。
え? 当て馬? もしや噛ませ犬のことですか?
小説には関わるまいと思っていたのに、私ったらいきなり何をやってるのよ!
私は心の中で自分に悪態をつくと、無礼を承知でルキウスにハンカチーフを押しつけ、すぐさま会場をあとにすることにした。
とうのルキウスに追ってくる様子は見られない。目も口もぽかりと開けてこちらを見ているだけ。
よかった。ビックリしているだけみたい……。いや、王子様を驚かせてよかったのか……。なぜだか嫌な予感がする。
そんな私の不安は、帰りの馬車の中で見事に的中した。
「イネス、まさか小説の主要キャラに話しかけるとは思わなかったぞ。ルキウス殿下はおまえの好みと違うからノーマークだったが……」
「どうして心配そうな顔をするんですの、お兄さま?」
私の言葉にマルセルが渋い顔をする。
「ルキウス殿下は心を読めるんだ。特別な力といえばわかるか?」
「え? ええええええーーーーっ!!!!」
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