蛙の王女様―醜女が本当の愛を見つけるまで―

深石千尋

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第四章 精霊と呪い

偽りの愛と母の愛(3)

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 どこかの屋敷だろうか、シグルンのいたそこは、今まで過ごしていたブリョン宮殿によく似た豪奢な部屋だった。
 ここが宮殿だと指摘されれば遜色ないくらいだが、いかんせんシグルンにはその判別はし難い。
 部屋の中には女の召使いたちが粛々と、そして忙しなく行き交っていた。
 不思議なことに誰もシグルンの存在を咎めたりしない。まるでいないもののように扱っている。
 いや、本当に見えていないのだろう。
 シグルンはそこでようやく自分は透明人間なのだと確信した。


 だが、シグルンは相変わらず自分がなぜここにいるのか分からずにいた。
 ベーヴェルシュタム公爵は名前を知っている程度の人物だし、当然のことながら、フレイヤという名前の精霊も知らないのだ。
 シグルンは釈然としないまま、まるで誰か他人の夢を見ているような気分になった。
 夢にしては妙に頭が冴えているが。


 そして部屋の中には、先程のフレイヤが寝台ベッドの上でもがくように苦しんでいた。定期的に悲鳴に近い呻き声を漏らしている。
 フレイヤの手は何か掴むものを求めて虚空を彷徨うが、誰も握ってやろうなどとは思わなかったらしい。側にいた召使いも白い長衣を着た治癒魔法士でさえ、皆一様に無表情で寡黙な様子だった。


 シグルンは薬師のさがか、それとも背中のはねをもぎ取られたフレイヤに対する同情心からか、とにかく居ても立っても居られずフレイヤに駆け寄っていた。
 覗き込めばフレイヤの美しい顔は蒼白で、脂汗が全身から噴き出し、寝巻きもぐっしょり濡れていた。
 少しして治癒魔法士らしき年老いた女が骨ばった小さな身体をさらに縮こませ、フレイヤの足元の布団を捲り上げて言う。


『頭が見えてきました。もうすぐです』


 シグルンはようやく合点がいき、そこが出産現場だと悟った。
 フレイヤはまるで地上に打ち上げられた魚のように寝台をのたうつ。小刻みに震え、そして押し殺すことのできない甲高い悲鳴を最後に、フレイヤはぐったりと静かになった。


 産まれたのだ。


 赤ん坊は取り上げられてすぐ身体を清潔に拭かれ、温かな布に包まれると、精根尽き果てて虚ろな瞳をするフレイヤの元にやってきた。


「……まぁ、なんて可愛いらしい!」


 フレイヤは感動に涙を潤ませ、我が子に頬擦りをした。
 赤ん坊は玉のようだった。
 産まれたてのふにゃふにゃした締まりのない感じではあるが、フレイヤによく似た銀色の髪をしており、薄っすら開かれたまなこからは黒曜石が覗いている。小さな尖った耳も母親譲りの可愛らしい赤ん坊だ。
 赤ん坊が薄っすらと笑えば、緊張で張り詰めていた空気も穏やかなものに変わった。
 小さな幸せがその場に充満しつつあった。


『あなたの名前はシグルン・・・・よ、私の愛しき子よ』


 フレイヤは噛み締めるように我が子の名を呟いた。


 ——シグルン。
 それは自分の名前だ。
 シグルンは稲妻のような驚きに上瞼が引き攣った。一瞬呼吸困難に見舞われ、唇が震える。
 シグルンの心臓は早鐘のように鳴っていた。



(フレイヤが私の本当のお母さん……?)



 だが、その幸せは長くは続かなかった。
 シグルンが狼狽えてその場に固まっていると、突然黒い靄のようなものが赤ん坊のシグルンを襲ったのだ。

 
 フレイヤは産後すぐだと言うのに身を起こして、靄を払うように懸命に手を動かす。
 しかし無情にも黒い靄が赤ん坊から離れることはなく、実際にはほんの僅かの時間だったと思うが、黒い靄はまるで永遠にも感じられるくらい長い時間、赤ん坊のシグルンを包んでいた。
 そしてようやく靄が晴れる頃、フレイヤも周囲も驚きと恐怖で震え上がった。
 驚くべきことに、赤ん坊のシグルンは醜い老婆の顔に変わっていたのだから。


『やめて、お父様! この子には何の罪もありません! 私の永遠の命を捧げたではありませんか!』


 フレイヤは天に向かって叫んだ。

 
 そこで回想シーンは途切れた。
 まるで砂絵が風に攫われて輪郭を失うように、フレイヤを含め部屋も何かも崩れ去っていく。
 

 そうして再び場面は変わった。 


 次に現れたのは仄暗い部屋の中。
 冬だろうか、暖炉の炎がちりちりと燃えていたが、シグルンは寒さを感じなかった。
 シグルンは想像や妄想の域を超えたまるで壮大な物語を前にしているようで、感動というよりも呆然とした気持ちで立ち竦んだ。


『おや? どちら様かな?』


 暗闇の向こうから声をかけられ、シグルンの肩がびくりと跳ねる。
 瞑想していた思考が現実に呼び戻された。
 疚しさなどないにもかかわらず、思わず震えて返事をしそうになったが、背後から返事が聞こえる。


『私はフレイヤ』


 シグルンの後ろで答えたのはフレイヤだった。
 暗闇の中から徐々に人影が露わになる。


 『フレイヤ? 王宮では聞かない名だね』


 姿を見せたのは、装飾のない青絹の魔法衣に身を包み、片手には自身の背丈を超えるほどの杖を持った若い女だった。
 赤褐色の髪に赤煉瓦あかれんが色の瞳。目尻はやや吊り上がった切れ長で眼光が鋭く、若い女性だがとても強そうな風貌だ。
 シグルンは既視感に目を瞬かせ、あっと驚いた。


『ゾーイ様、ご迷惑を承知でお頼みすることをお許しください。私はこの王宮で囚われの身の精霊です。ここでは王宮魔法使いの、同じ女性のあなた様にしかお頼みできません。どうか私の娘を……シグルンをお願いします』


 フレイヤは淀みなくゾーイに言うと、抱いていていた赤ん坊のシグルンを差し出した。
 ゾーイは目を見開いてフレイヤを凝視する。はい、そうですかと易々受け取らない。疑うような眼差しでフレイヤを見つめた。


『何を言うのです……それはあなたの子どもでしょう?』
『この子は呪いのせいで醜い顔にさせられました。これをあの方・・・が知ったら、きっとこの子は殺されてしまう。私がいくら呪いだと弁明しても、嫉妬深く独占欲の強いあの方は不義姦通だと疑うでしょう。おかげで私の翅はもうありません……』


 フレイヤは目を伏せて言った。最後の方は消え入りそうに小さな声で震えていた。
 ゾーイの耳にしっかり届いたかは分からない。


『フレイヤ、私は精霊を見たことがないのです』
『ええ、精霊は普段は人目につかぬところで暮らしていますから……』
『それがなぜ人前に現れることになったのですか?』
『……それは私が……ラップラントの森で狩りをしていたあの方に恋をしたから』


 フレイヤはゾーイの問いかけに恥じ入るように顔を青くさせ俯いた。
 ゾーイは頭を掻いた後、暖炉の前に椅子を用意してフレイヤと赤ん坊に座るよう促す。それから深く長い溜め息をついて言った。


『私は精霊を信仰する魔法使いですから、あなたの話が紛うことなき真実ならば、力になりましょう』


 ゾーイはフレイヤの肩に手を置き、目を閉じて静かに言った。
  ゾーイの優しい微笑みは、昔も今も変わらないようだ。
 シグルンはゾーイの笑顔に冷えていた心が温かくなっていくのを感じた。
 


 すると再び場面が切り替わった。
 今度は先程の部屋とよく似た部屋だ。
 ベーヴェルシュタム公爵と思しき男が別の男と言い争っていたところだった。


『なぜ貴様が……抜け駆けして王太子の座を奪ったというのか!』
『違います、兄上!』


 ヘンリクは弟に食いついているようだった。
 弟は大人の男らしいヘンリクに対し、少し幼さを残した青年だ。
 ふわふわの茶色の髪に茶色の瞳は、兄弟でありながら少しも似ていないが、知性的な雰囲気はそっくりだと言えよう。弟もまた兄と同じ軍服を凛々しく着こなし、恰幅の良い兄に引けもとらずに対峙している。
 そして何より注目すべきことは、兄弟ということは、あの弟は現国王だということだ。


『何が違うというのか、妾腹の分際で!』
『……私とて王太子になりたくはなかった! 他に愛する者がいるのです! 婚約の儀など御免被りたいのに……あなたは精霊を犯し、森を焼いた! そんなあなたに次期王が務まると言うのですか!?』
『何を……生意気な!!』


 ヘンリクは弟の胸倉を掴んでぎろりと睨んだ。


『精霊王は私からフレイヤを奪った。だから森を焼いたまでだ!』
『精霊の住む森を焼くことが許されるとお思いか!? 幸いにも雨で火の手が山に広がることは免れたものの、あのまま全て焼かれていたらと思うと恐怖しかないです!』
『黙れ!』
『赤ん坊が死んでしまい・・・・・・、愛する者も失ったからと言い、八つ当たりは止めていただきたい! 私の方こそとばっちりを食らっているのですから!』
『……黙れっ!!!!』


 ヘンリクが弟を力一杯突き飛ばすと、ヘンリクよりも体格の小さな弟はいとも簡単に床にへたり込んだ。
 弟も負けじと兄を睨み返すが、ヘンリクはもう気付かない。部屋を出て行ったのだ。


 精緻で荘厳な装飾が施された両開きの扉が乱暴に閉じられた。
 思わず目を瞑ってしまうほどの剣幕で。


 ——と同時に、シグルンは浮遊感を感じた。
 爪先が軽くなったようで、急に宙に浮いたのだ。
 シグルンははっとして目を開け、支えを失った手足をばたばたと動かしたが、まるで溺れてしまったかのようだ。


 いつの間にか辺りは真っ白な空間に戻っていた。


 シグルンはもがくのを諦めてじっとしていると、やがてシグルンの身体は波に浮かんだように白い空間にぷかぷかと浮き始めた。



(さっきのは……夢だったのかしら)


 シグルンは声にならない疑問を口にした。
 夢にしてはやけにリアルな夢だ。
 本当の母親がフレイヤで、信じ難いことに本当の父親がベーヴェルシュタム公爵という、奇々怪々な夢を見ているのだろうか。
 それにしたってシグルンの心臓は耳の奥でドキドキと鳴っていた。
 まるでそれが真実だとでも言うように。
 確かに衝撃を感じていた。

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