その白兎は大海原を跳ねる

ペケさん

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第114話「失った支柱」

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 公都イタリスまで戻ってきたホワイトラビット号は、戦時警戒中の港で監視船の制止も聞かずに港へ強制侵入、及び順番を待たずに入港を強行、その後の入港手続きも全て無視した。

 本来であればどれ一つ取っても投獄される罪だが、シャルルは名誉騎士デイムであり貴族の一員であり多くを不問にできる。シャルルであっても多額の罰則金に、船自体も拿捕されるかもしれないが、今の彼女とっては些細な問題だった。

 上陸したシャルルは名誉騎士デイムの権限をフル活用して、集まって来た兵士たちに命じヴァル爺の治療の手配をした。そのお陰もあってか、ヴァル爺の治療と入院は速やかに行われ、何とか一命を取り留めることができたのである。

 ホワイトラビット号が戻った二日後 ――

 戦いに勝利したローニャ公国艦隊は、公都イタリスに凱旋を果たしていた。敗戦も危惧されていた海戦に勝利しての凱旋に、国民たちは大歓声を持って迎えていた。まだ戦時中だと言うのに、公都はすでに勝ったような雰囲気である。

 現在ローニャ公国軍主力はローニャ大公の指揮のもと、公国の南部国境にあるログリット砦で防衛ラインを構築しており、ロイス王国軍と対峙している。数の上では劣っているがログリット砦という強固な砦での防衛戦な上、ローニャ大公は名将で将兵の士気も高い。

 そのため国民が、すでに祝勝モードになったとしても無理はなかった。しかし海戦から戻ったアナスタジアは、民衆の声に応えながらも気を緩めることなく大公府に入る。娘としては父が心配だったが、彼が不在な状態では彼女が大公家としての役目を果たす必要があるのだ。

 そんな中、シャルルはヴァル爺を見舞うため病院を訪れていた。

 ヴァル爺の病室は高級仕様の個室で、専属の医者と看護師が一人ずつ付いている。もちろんシャルルが寄付と称して、大金を積んだための厚遇である。

「ヴァル爺、体の調子はどう?」
「フォフォフォ、何とか生きておりますわい」

 シャルルが尋ねると、ヴァル爺はベッドから半身だけ起こそうとしながら答えた。一緒に付いて来ていたカイルは、慌ててヴァル爺が起きるのを助ける。

「すまんな、坊主」
「いいえ、枕、背中に回しますね」

 比較的元気そうに見えるヴァル爺だったが、怪我の後遺症で右脚が動かなくなっていた。命に別条が無くとも、不安定な船の上で生活する船乗りとしては致命的だった。

 彼自身もわかっていることだが、もうシャルルたちと一緒に航海に出ることはできないだろう。そのためシャルルの顔は暗いままだった。

 そんな彼女の後ろから、ひょっこりとネムレが顔を覗かせる。

「その娘は……あの時の?」
「えぇ行くところが無いみたいで、うちで雇うことにしたの」

 公都イタリスに着いてヴァル爺の入院の手配が終わったあと、ネムレの処遇が問題になった。彼女の話によると生みの親は知らず、物心つく頃には暗殺を生業にしていた虎獣人の男に育てられていたらしい。

 彼女の戦闘スタイルは彼から教わったものらしく、その話を聞いたシャルルは彼女の強さに納得するのだった。

 しかし、そんな育ての親もとある任務の際に死亡、ネムレは再び一人になった。育ての親はいずれ彼女を普通の生活に戻そうと考えていたようだが、他に生きる手段を知らないネムレは、そのまま一人で暗殺の依頼を受けるようになる。

 そんな彼女のもとに、ゼルス暗殺の依頼が舞い込む。その依頼がどこから来たものなのかは不明だったが、前金を含め通常の依頼では考えられないほどの高報酬だった。

 その依頼を受けたネムレは彼らの本拠地に向かい、暗殺に失敗して捕まってしまったのだ。そこで見せた腕前を見込まれ殺されずに済んだのだが、契約の首輪で自由を奪われることになったのである。

 囚われの身になったネムレだったが、ゼルスは意外と彼女を厚遇していたようだ。逃走禁止やゼルスの命令には逆らえなかったが自衛は許され、彼女を犯そうとした変質者を八つ裂きにしても罪も問うことはなかった。

 しかし兎人族の魅了にやられて、これ以上仲間を殺されては敵わないと、彼女に仮面を付けさせたのも彼だという。

 このネムレが捕まる原因になった依頼に、シャルルは微かに心当たりがあった。

 先のグルゲントルク諸島沖海戦において、もっともゼルスに恨みを持っているのは、裏切られて襲撃されたシーロード家である。シャルルはもちろん彼女の兄たちは、暗殺なんてまどろこしいことは考えない。基本的には父であるハルヴァーに似て、直接殴らなければ気が済まないタイプだ。

 しかし彼らの母は違う。特に元貴族であるヘレンや合理主義のカティスなどは、目的のために手段を選んだりはしないタイプの人間だ。愛する夫を傷つけられて、黙っていられるほど寛大でもない。

 もちろん確証はなかったが、彼女たちが裏で手を回して依頼したのかもしれないのだ。そう考えると、このままネムレを放り出すのも偲ばれるのだった。

 ネムレはシャルルの横に立つと、ヴァル爺に軽く会釈をする。

「ネムレ・ブラックラビットだよ」
「ヴァルトールじゃ、ワシのことはヴァル爺と呼んでくれ。お嬢をよろしく頼むぞ」

 ヴァル爺が微笑みながら頼むと、ネムレは胸を張りながら頷いた。シャルルと互角以上の戦いを見ていたので、彼が抜けた後のキラーラビットの戦力補強として期待しているのだ。

「それで、この国の状況はどうですかな?」
「まだ報告は来ていないけど、おそらくローニャ公国側の勝ちだと思うわ」
「まぁそうでしょうな、補給線が確保できている上に、あの砦は強固ですからのぉ。ロイス王国軍では、万が一も抜けませんでしょう」

 ヴァル爺もシャルルと共に相手の情報を集め精査したので、相手の戦力はよくわかっていた。艦隊での公都強襲が失敗した以上、ロイス王国側が勝利する見込みは限りなく薄かった。

 今回の戦いに全てを賭けていたロイス王国は、かなりの大軍を送り込んでいる。しかし、数が多ければそれだけ糧食が大量に必要になる。大量の食糧を運搬するには陸路では限界があるため、基本的には海運になるが、ロイス王国は先の海戦で制海権を失っていた。

 ロイス王国の領海には残ったアクセル船団と、アルニオス帝国の傭兵船団が居座っており、海上封鎖を行っている。このままでは、ロイス王国軍は放っておいても干上がる運命である。

 さらに、その気になれば逆に制海権を失ったロイス王国に、ローニャ公国側が強襲することも可能だ。そうなればロイス王国滅亡の可能性もある。少し頭の廻る指揮官であれば、いつまでも敵の後背に現れない味方に作戦失敗を考え、そろそろ退却が頭に過っている頃である。

「お嬢は、これからどうするつもりで?」
「とりあえず、ひと月ぐらいは仲間集めかな。それぐらいあればゼフィ兄たちの作戦も終わるだろうし、次の作戦も始めなくちゃならないしね」

 ゼフィールたちの作戦とは、同時進行しているビクス大海賊団の討伐のことである。ゼフィール、ビアードの両船団と、グレートスカル大海賊団、リッターリック大海賊団、ビーティス大海賊団の共同作戦だ。いくらグラン王国から技術提供を受けていると言っても、戦力差は圧倒的でビクス大海賊団側に勝ち目などなかった。

 しかし、その後に続くグラン王国との戦いに関しては、半減した大海賊連合では戦力不足である。今回雇い入れたアルニオス帝国の傭兵船団などは、本来はそれを補うための戦力なのだ。

「残念ですな、ワシも参加したかったが……」
「それなら一緒に来る? ヴァル爺ぐらいなら、わたしが支えてあげるよ?」
「フォフォフォ、いいや、ここらが腰の下ろしどころでしょうや。お嬢に乞われて海に戻る機会を得ましたが、一度は隠居した身ですからのぉ」

 やや諦観の籠った笑いに、シャルルの胸は苦しくなった。ヴァル爺が彼女の船に乗った時、「死ぬなら海の上で」と言っていたことを今でも思い出すことができる。そんな彼女の心境を察したのか、彼はニカッと歯を見せて笑う。

「なぁに、海都に戻ったら老後の手慰みとして、若いのを鍛えてやりますわい」
「あはっ、みんな大変そうだね」
「笑いごとじゃありませんぞ、お嬢。お嬢が結婚して子を設けることがあれば、特に厳しくしごいてやりますともっ!」

 ヴァル爺の予想外の発言にシャルルは目を丸くしたが、すぐに噴き出すと大笑いを始めた。

「あはははは、それならヴァル爺は長生きして貰わないとね。わたしに結婚の予定なんてまったく無いんだからねっ!」
「かっはははは、なるべく早く頼みますぞ? それを老後の楽しみとしますので」
「気長に待っててね、色々と片付いたら考えるわ。そもそも、どんな人連れてってもパパが納得する気がしないし」
「そうでしょうなぁ」

 シャルルとヴァル爺は、お互いの顔を見合わせると再び笑いあうのだった。

 この日ヴァル爺が正式に降船することが決まり、ホワイトラビット号は大きな支柱を失うことになったのである。
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