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なのかスターティングオーバー
あおいとなのか
しおりを挟む「あおいちゃん、おはよーっ!」
「きゃあっ!」
俺の胸にタックルするのは、向日葵のように明るい髪をツインテールに結んだ小さな女の子――菜花ちゃん。通称なのちゃん。
先生も、周りのみんなも笑いながらこの恒例行事を見守る。
なのちゃんも結構力強くなったな……。フローリングを滑りながらそんなことを思って。
「なのちゃん、おはよ」
俺は笑顔で、胸の中に抱き留めた少女に挨拶した。
――日向 あおい。その名前に聞きなじみが出てきて、気が付けば、この体になってから一か月を過ぎようとしていた。
七月に入り、夏の気配が強くなってきた今日この頃。
「あついねー」
「うん。夏だからね」
「なつ?」
「あついきせつ」
「なるほどー!」
親友の菜花ことなのちゃんと世間話。日差しも眩しくなって、幼稚園の制服も夏のそれになった。
半袖バフスリーブで丸襟のブラウスはもう慣れてしまったが、先日まで着ていた冬服のそれよりも薄くてひらひらしたスカートは若干心許なくて、少し恥ずかしくなる。いま穿いてる下着のラインが出てしまいそうで。
それは、なのちゃんとお揃いで、性格も価値観も違う二人が友達になった理由の一つ。
「そろそろおむつさん、替えない?」
先生が俺たちに言う。
ちょっとはしたないけど、股間を少しだけ触って確かめる。……いつの間に『出てた』んだろう。
こくりと首を縦に振った。
――俺となのちゃんはまだおむつが外れていない。
俺はたぶんこの体に慣れてないだけ、だと思うのだが……なのちゃんは何かの病気かってくらいには、尿意も一切感じ取れないらしい。
とはいっても本人はさほど気にしていないらしいが。おむつを外す意思がないわけではないものの、真剣には考えていないようだ。
そんなとき。
「あおいちゃんっておさないよねー」
おむつを替え終わって教室に入ると、誰かがそんなことを話す声が聞こえた。
……誰が幼いって?
確かにおむつはしてるし、背はみんなよりちっちゃいけど……中身はまだ……たぶんまだ普通のロリコン男子高校生なので、自分が幼いって言われる分には普通に傷つくよ?
大人なので傷ついても泣きはしないんだけどね!
「あれ? あおいちゃんなきそうなおめめだよ? どうしたの?」
となりからなのちゃんが覗き込んできた。近い近い!
「にゃ、にゃんでもないってば」
ぼっと真っ赤になった顔を彼女に見せないように目を逸らしながら、俺は告げる。
なのちゃん、観察眼は優れてるんだよな。何気にみんなのことをよく見てる。
……だからこそ、「自分だけ何かが違う」というのも感じ取れているんじゃないか、とはちょっぴり思ったりもするんだけどな。
でもまあ、そこまで深くも思ってないか。思ってたらきっと、おむつを外そうと躍起になってそうだし。
昼の簡単なお勉強――ちょっとだけ難しく感じてしまった漢字のお勉強や、秋にあるというお遊戯会に関しての説明だったりとかを受けて、あっという間に日が落ち始める。
「ばいばーい」
「じゃーね。また明日」
最近二番目くらいに仲のいいあかねちゃんとそのお母さんを見送って、教室は二人きりになった。
「……おそいね」
「そうだね、なのちゃん」
俺となのちゃんは夕日を見ながら黄昏ていた。
時計を見ると午後五時を過ぎようとしているところ。ガラス越しにゆうやけこやけのメロディが聞こえる。
夏も近づいて、蝉がやかましく鳴きだした季節。煌々とオレンジが照らす窓際。沈黙。
……改めてみると、なのちゃんって本当に可愛いな。
幼いその容姿はしかし、一目見ただけでよく整っていることがわかる。幼児にしては細めの身体と真ん丸な明るい瞳が、天真爛漫な彼女の性格を如実に表しているようで、ともすれば輝いているようにすら見える明るい茶髪は真夏に咲くひまわりのごとく。
幼稚園児のいまでさえ惚れてしまいそうなほど可愛らしいのに、それが成長したらと考えれば――ああ、ロリコンの俺ですら、くらくらしてしまいそうだ。
……しゅいいしょろろと、微かにふたつの水音が聞こえた。
「あ、でちゃったみたい?」
にへらっとなのちゃんは照れくさそうに笑った。静かだったから流石に気付いたか。
「ん。そだね。せんせー!」
俺はそんな可愛らしい幼女の姿に微笑み返して――もっとも元々の男の姿なら気持ち悪い笑みになっていたんだろうが――おむつ替えのために先生を呼んだ。
――いつのまにか、俺は暗い部屋にいた。
「ここ、どこ?」
「落ち着きなさい、蒼にぃ。わたしよ」
――そうか。ここは夢。もう一人の俺と対話する――久々に見るあの夢だ。俺は遅れて理解する。
「……久しぶり。『アオイ』でいいんだっけ」
「そうね。正解」
パチパチパチ、と拍手する音が聞こえた。
下を見ると俺の身体は「元の姿」に戻っていた。スラっと伸びた長身、細くとも筋肉質なまさしく「男の身体」に、俺は少したじろぐ。
……改めてみると、元の俺って結構かっこいい……いやいやいや、落ち着け! 思考まで女性化してんじゃねぇ!
すう、はぁと深呼吸して。
「……というかよく教えてないのにわかったわね」
呆れたような声がした。
「……この前入れ替わったとき意識あったから」
「この前……ああ、あれね」
声の主――仮称『アオイ』は、俺のもう一つの人格、らしい。
以前、妹の瑠璃が目を覚まさなかった日に、俺の身体を「彼女」が少しの間乗っ取ったことがあった。その時に「彼女」は「あおい」と名乗ったのだ。
だがしかし、俺も普段「あおい」と名乗ってるので、もう一人の俺の方をカタカナで呼び分けることにしたのだった。
「ずいぶんと冷静ね、お兄ちゃん」
いたずらっぽく笑う声に、俺は頭を抱えて。
「何度も見てりゃ慣れるさ」
「あっそ」
一気に呆れたような声音。興味がなくてすみませんね、妹サマ。いや、本当に何者なんだこのアオイという自分は。
頭がこんがらがりそうなので深く考えないことにして、俺は先を続ける。
「それで、今日は何の用事だ?」
「ただ声を聴きたかったからってだけじゃ、だめ?」
「だめじゃないけど……君が話したいときは『何かあるとき』と相場が決まっている」
「察しちゃってるかー。でも――」
そのとき、急に眩暈がした。
夢の中だというのに意識が急に遠くなって――。
「いつにもまして短いわね。お昼寝だったからかしら」
「どう、いう」
「時間切れね」
「かっこつけやがって……うっ」
そのまま俺は倒れ伏し――。
――気がつくと、俺はふかふかの椅子に座っていた。
「ん……ねぇ、ね?」
いないはずのお姉ちゃんを呼んだ甲高い声が自分だと気付いたのは、数秒後のこと。
「あ、あおいちゃんおきた!」
無邪気に俺を覗き込んだ少女は、中学生の――ただし中身は幼児退行して幼稚園児並みになってしまった妹の瑠璃である。
「ああ、起きたのか」
がらがらとなにか車輪のついたものを押す音と共に、瑠璃の通う中学校の養護教諭で色々あって俺の保護者代わりをしてくれている九条先生の声。
前方、ゆっくりと進む景色を見てまたうとうととしだして……ん?
……ちょっと待て、俺はいま何に乗っている?
車いすのような何か、なのだろう。しかし、頭までもを覆う大柄な椅子は車いすにしては大きすぎる。これはもっと別の何か――そう。
「もしかして……ベビーカー!?」
「うん。そうだよ?」
何食わぬ顔で瑠璃は答えた。俺は白目をむいた。
「なんで!? 俺歩けるよ!?」
「だってにぃに、ねんねしてたもん」
「そうだ。ゆすっても起きないからどうしたもんかと考えたら幼稚園の人が貸してくれた」
九条先生の補足にそういうことかと少し納得しつつ、しかし。
「背負うって方法はなかったんですかねぇ……」
「結構重いからな。最近腰が痛いんだ」
ああ、そう……。
呆れる俺。なお瑠璃の方は最初から俺を背負う気はなかったらしい。お兄ちゃん思いの優しいあの日の君はいずこに……。
……最近の俺、割と赤ちゃんに片足突っ込んでるのでは。
いやいやいや、ほんとーはわたしろくさいのおねーちゃ……じゃなくて! 十七歳の! 男子高校生っっ!! だったはずだろっっっ!!!
まったく……どうしてこうなった……。
ベビーカーの上、俺は体をよじって……股関節周辺を覆うベルトのせいでほとんど動けずに、軽く頭を抱えた。
そして翌日。九条先生と普通に歩いて、借りたベビーカーを引きずりながらやってきた幼稚園。
「おはよー」
年長組の教室に入って、数秒、違和感。
――なのちゃんが飛び込んでこない。
それどころか、教室は少しざわついていた。
……嫌な予感がしてならない。
「どうした、の……」
人が集まっていた教室の隅。向かうと。
「あおい! なのちゃんが……」
あかねちゃんが指さした、そこには。
「あ、あおい、ちゃん。……にへへ……うあ、うわぁぁぁぁぁぁん!」
笑おうとして笑えずに、鼻をすすって、しまいには泣きながら俺に縋りつこうとする、弱々しいなのちゃんの姿があった。
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