君の脚になるから

夏目くちびる

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第四章 君の脚になるから

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 ……。


 今日、私は横浜のみなとみらいに来ました。馬車道駅で電車を降りて、あり得ない数の人の隙間を慎重にすり抜けていくと、海の向こうに大きな観覧車と高いビルが見えます。あれが、ランドマークタワーですね。


 杖をついて、ゆっくりと歩きます。季節は始まったばかりの秋、潮風は身体に沁みますが、何とも言えない心地よさがありました。どの建物もおしゃれなので、歩いているだけで楽しいです。港町なだけあって、雰囲気は函館に似ています。


 広場を抜けた横断歩道を渡ると、ランドマークタワーに背中を向けて右へ歩きます。日差しが強いので、帽子を被って来てよかったです。風に飛ばされてしまわない様にだけ、気を付けた方がいいでしょう。


 そのまま真っすぐに歩いて海岸通りを沿っていくと、大きな船が泊まっています。あれが有名な、クイーンエリザベス号ですね。色々なお店で、よく世界一周旅行のポスターを見ます。


 コツコツと歩き、たまに置いてあるベンチに座って、また少しずつ歩く。そんな事をしている間に、約束の時間が迫って来ていました。流石に、二つ隣の駅から歩くのは無謀だったでしょうか。今向かっているのは、マリンタワーです。


 時間以内に辿り着く事を諦めてタクシーを捕まえると、タワーの麓にあるジャズバーの名前を告げました。どうやら、ここらでは名前の通っている場所のようです。運転手さんは、「観光ですか?」と言いました。


 数分の世間話の後、目的地の店の前で待つ彼の姿を見つけました。仕事上がりなので、スーツジャケットと鞄を手に持っています。私に気が付くと彼はこっちへ来て、「よくやったね」と言って頭を撫でてくれました。


 エスコートされて、店の中へ。ライブを心待ちにするお客さんたちはみんな口を噤んでいて、時々聞こえるのは照明の点く音と、氷の溶ける音だけです。


 案内されたのは、一番前の席。特等席です。またこんなに近くで聞ける日が来るなんて、本当に思ってもいませんでした。まるで、夢みたい。


 お客さんが拍手をします。後ろを振り返ると、坊主頭に白シャツと、黒いスラックスにピカピカの靴を履いた男の人が入ってきました。言うまでもありません、あの人です。


 は、私たちの隣を通ってステージに上がるようです。なので、その前にこれを渡すことが出来そうです。


 足音が近づいてきます。彼は私を励ますように手を握ってくれました。記憶が思い起こされて、あの三ヶ月が鮮明に蘇ります。そして、覚悟を決すると。


 「……これ、忘れ物です」


 一冊のノート。十年以上も前の物ですから、ページの端はボロボロで、しかしたったの数ページしか使われていないノート。涙に濡れて、文字も霞んでしまったノート。今まで、何度も私を助けてくれたノート。


 「もう、要らねえのか?」


 差し出す私に、は笑いかけます。


 「はい、ここに来ることが出来ましたから」


 言うと、はノートを受け取りました。ステージに立ち、それをグランドピアノの譜面立てに置くと、ゆっくりと椅子に座りました。


 一瞬だけ、目が合いました。その顔は、あの時と同じように優しくて、思い出の中にあるモノと何も変わっていません。素敵です。


 店中に漂う、息を呑む様な緊張。そして目を閉じると、はピアノを……。
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