38 / 38
第四章 君の脚になるから
8
しおりを挟む
……。
今日、私は横浜のみなとみらいに来ました。馬車道駅で電車を降りて、あり得ない数の人の隙間を慎重にすり抜けていくと、海の向こうに大きな観覧車と高いビルが見えます。あれが、ランドマークタワーですね。
杖をついて、ゆっくりと歩きます。季節は始まったばかりの秋、潮風は身体に沁みますが、何とも言えない心地よさがありました。どの建物もおしゃれなので、歩いているだけで楽しいです。港町なだけあって、雰囲気は函館に似ています。
広場を抜けた横断歩道を渡ると、ランドマークタワーに背中を向けて右へ歩きます。日差しが強いので、帽子を被って来てよかったです。風に飛ばされてしまわない様にだけ、気を付けた方がいいでしょう。
そのまま真っすぐに歩いて海岸通りを沿っていくと、大きな船が泊まっています。あれが有名な、クイーンエリザベス号ですね。色々なお店で、よく世界一周旅行のポスターを見ます。
コツコツと歩き、たまに置いてあるベンチに座って、また少しずつ歩く。そんな事をしている間に、約束の時間が迫って来ていました。流石に、二つ隣の駅から歩くのは無謀だったでしょうか。今向かっているのは、マリンタワーです。
時間以内に辿り着く事を諦めてタクシーを捕まえると、タワーの麓にあるジャズバーの名前を告げました。どうやら、ここらでは名前の通っている場所のようです。運転手さんは、「観光ですか?」と言いました。
数分の世間話の後、目的地の店の前で待つ彼の姿を見つけました。仕事上がりなので、スーツジャケットと鞄を手に持っています。私に気が付くと彼はこっちへ来て、「よくやったね」と言って頭を撫でてくれました。
エスコートされて、店の中へ。ライブを心待ちにするお客さんたちはみんな口を噤んでいて、時々聞こえるのは照明の点く音と、氷の溶ける音だけです。
案内されたのは、一番前の席。特等席です。またこんなに近くで聞ける日が来るなんて、本当に思ってもいませんでした。まるで、夢みたい。
お客さんが拍手をします。後ろを振り返ると、坊主頭に白シャツと、黒いスラックスにピカピカの靴を履いた男の人が入ってきました。言うまでもありません、あの人です。
彼は、私たちの隣を通ってステージに上がるようです。なので、その前にこれを渡すことが出来そうです。
足音が近づいてきます。彼は私を励ますように手を握ってくれました。記憶が思い起こされて、あの三ヶ月が鮮明に蘇ります。そして、覚悟を決すると。
「……これ、忘れ物です」
一冊のノート。十年以上も前の物ですから、ページの端はボロボロで、しかしたったの数ページしか使われていないノート。涙に濡れて、文字も霞んでしまったノート。今まで、何度も私を助けてくれたノート。
「もう、要らねえのか?」
差し出す私に、彼は笑いかけます。
「はい、ここに来ることが出来ましたから」
言うと、彼はノートを受け取りました。ステージに立ち、それをグランドピアノの譜面立てに置くと、ゆっくりと椅子に座りました。
一瞬だけ、目が合いました。その顔は、あの時と同じように優しくて、思い出の中にあるモノと何も変わっていません。素敵です。
店中に漂う、息を呑む様な緊張。そして目を閉じると、彼はピアノを……。
今日、私は横浜のみなとみらいに来ました。馬車道駅で電車を降りて、あり得ない数の人の隙間を慎重にすり抜けていくと、海の向こうに大きな観覧車と高いビルが見えます。あれが、ランドマークタワーですね。
杖をついて、ゆっくりと歩きます。季節は始まったばかりの秋、潮風は身体に沁みますが、何とも言えない心地よさがありました。どの建物もおしゃれなので、歩いているだけで楽しいです。港町なだけあって、雰囲気は函館に似ています。
広場を抜けた横断歩道を渡ると、ランドマークタワーに背中を向けて右へ歩きます。日差しが強いので、帽子を被って来てよかったです。風に飛ばされてしまわない様にだけ、気を付けた方がいいでしょう。
そのまま真っすぐに歩いて海岸通りを沿っていくと、大きな船が泊まっています。あれが有名な、クイーンエリザベス号ですね。色々なお店で、よく世界一周旅行のポスターを見ます。
コツコツと歩き、たまに置いてあるベンチに座って、また少しずつ歩く。そんな事をしている間に、約束の時間が迫って来ていました。流石に、二つ隣の駅から歩くのは無謀だったでしょうか。今向かっているのは、マリンタワーです。
時間以内に辿り着く事を諦めてタクシーを捕まえると、タワーの麓にあるジャズバーの名前を告げました。どうやら、ここらでは名前の通っている場所のようです。運転手さんは、「観光ですか?」と言いました。
数分の世間話の後、目的地の店の前で待つ彼の姿を見つけました。仕事上がりなので、スーツジャケットと鞄を手に持っています。私に気が付くと彼はこっちへ来て、「よくやったね」と言って頭を撫でてくれました。
エスコートされて、店の中へ。ライブを心待ちにするお客さんたちはみんな口を噤んでいて、時々聞こえるのは照明の点く音と、氷の溶ける音だけです。
案内されたのは、一番前の席。特等席です。またこんなに近くで聞ける日が来るなんて、本当に思ってもいませんでした。まるで、夢みたい。
お客さんが拍手をします。後ろを振り返ると、坊主頭に白シャツと、黒いスラックスにピカピカの靴を履いた男の人が入ってきました。言うまでもありません、あの人です。
彼は、私たちの隣を通ってステージに上がるようです。なので、その前にこれを渡すことが出来そうです。
足音が近づいてきます。彼は私を励ますように手を握ってくれました。記憶が思い起こされて、あの三ヶ月が鮮明に蘇ります。そして、覚悟を決すると。
「……これ、忘れ物です」
一冊のノート。十年以上も前の物ですから、ページの端はボロボロで、しかしたったの数ページしか使われていないノート。涙に濡れて、文字も霞んでしまったノート。今まで、何度も私を助けてくれたノート。
「もう、要らねえのか?」
差し出す私に、彼は笑いかけます。
「はい、ここに来ることが出来ましたから」
言うと、彼はノートを受け取りました。ステージに立ち、それをグランドピアノの譜面立てに置くと、ゆっくりと椅子に座りました。
一瞬だけ、目が合いました。その顔は、あの時と同じように優しくて、思い出の中にあるモノと何も変わっていません。素敵です。
店中に漂う、息を呑む様な緊張。そして目を閉じると、彼はピアノを……。
0
お気に入りに追加
9
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから
真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」
期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。
※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。
※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。
※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。
※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
【書籍化確定、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
「あなたの好きなひとを盗るつもりなんてなかった。どうか許して」と親友に謝られたけど、その男性は私の好きなひとではありません。まあいっか。
石河 翠
恋愛
真面目が取り柄のハリエットには、同い年の従姉妹エミリーがいる。母親同士の仲が悪く、二人は何かにつけ比較されてきた。
ある日招待されたお茶会にて、ハリエットは突然エミリーから謝られる。なんとエミリーは、ハリエットの好きなひとを盗ってしまったのだという。エミリーの母親は、ハリエットを出し抜けてご機嫌の様子。
ところが、紹介された男性はハリエットの好きなひととは全くの別人。しかもエミリーは勘違いしているわけではないらしい。そこでハリエットは伯母の誤解を解かないまま、エミリーの結婚式への出席を希望し……。
母親の束縛から逃れて初恋を叶えるしたたかなヒロインと恋人を溺愛する腹黒ヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:23852097)をお借りしております。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました
悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。
クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。
婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。
そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。
そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯
王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。
シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる