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第三章 二つの傷

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 部屋の中に入ってのり弁を流し台の上に置いてペットボトルを二本冷蔵庫から取り出し、手洗いうがいを済ませてちゃぶ台の前に座った。クッションは既に夢子が使っている。鞄はベッドの横に置いてある。



 「本当に何もないね、この部屋」



 引っ越したその日に夢子が見に来て以来、何冊か文庫本が増えたのと、フライパンを買ったくらいだ。さすがにその変化には気が付くまい。



 まぁな、と返事をしてペットボトルのお茶を手渡す。水滴がフローリングの上に落ちる。夢子はその行方を目で追った。



 「ちゃんとご飯食べてるの?」



 「毎日弁当買ったり、後はバイト先の賄で食いつないでる」



 「のり弁とカップ麺ばっかり食べてるんでしょ。体に悪いよ」



 その通りだった。ただ、栄養のあるものを毎日食べるには結構コストがかかるし、自炊出来るほど俺は料理が得意ではない。



 「あとお酒、あんなに飲んで」



 昨日中根が飲んだ缶のごみが部屋の隅で眠っている。結構な数だ。



 「あぁ。気をつける」



 俺は一本しか飲んでいないが、別に事情を明かすまでもない。そう思っていた。しかし、その目論見は無駄だということをすぐに思い知らされることとなる。



 「ところでお兄ちゃん。これはなに?」



 そう訊く夢子の顔は、冷たさを伴う笑顔だった。



 夢子がその手に持っているのは、ピンクのハンカチだった。そういえば昨日、中根は自分の飲んでいる缶酎ハイの水滴を拭いていたような気がする。



 僕のハンカチです。……というわけにもいかず、俺は答えあぐねていた。



 その大きな目でじっと俺を見つめる夢子。この二ヶ月でまた大人びた気がするのは、ほんの少しだけ派手になった化粧のせいだろうか。



 別に俺は何も悪いことをしていないのに、何かとんでもないことをやらかしてしまったような気がしてきた。でも前に、俺が悪くないのに謝るのをやめろと言われたしなぁ。



 「女の子が居たでしょ」



 沈黙を破ったのは夢子だった。



 「いや、どうだったかな」



 「このクッション、女の子の香水の匂いがする」



 そういうことらしい。完全敗北だった。



 「……誤解させたなら謝る。でもあいつはただの友達でだな」



 「誤解って何?」



 確かに。一体何が誤解なのかと訊かれれば、俺はその答えを持ち合わせていない。



 再び沈黙。



 「……さーや」



 「あ、あぁ。そう、そいつ」



 いつだったか、俺のスマホを見たんだっけ。相変わらず俺の交友関係が狭いのはお見通しのようで、一瞬で看破されてしまった。



 一瞬黙ると、夢子は俺の隣に寄ってきて、右肩をぴったりとくっつけた。



 「変だね。お兄ちゃんは私のことが好きなんでしょ?」



 おっしゃる通りですが、その正体については自分でも探しているところでして。



 「その人、年下?」



 「いや、同じ年だよ」



 見た目は大分幼いけど。



 「ふぅん」



 そう呟くと、夢子はそれっきり黙ってしまった。



 ただ黙って、それでも俺に体を預けている。少ししてから俺は体を傾けて、胸を貸す形で夢子の体を支えた。すると夢子は額を俺の左肩にくっつけて、そのまま動かなかなくなってしまった。



 髪の毛、よく見ると少し短くしたようだ。毛先が綺麗に整えられている。



 「高校生活、どうだ?」



 春休み以降、俺はサークルやバイトで忙しく、その時からあまり夢子と話をできていなかったから彼女が何をしているのかをよく知らない。



 「……別に。楽しいよ」



 何の別なのだろうか。



 「新しい友達はできたか?」



 言葉はなく、ただ頷くのみ。



 「そうか。よかったな。少し心配してたんだ」



 望月と真琴(未だに苗字を知らない)がいるから一人ぼっちになる事はないとは思っていたが、それでも交友関係が広がるのはいいことだ。俺にはそういうの、ほとんどなかったからな。



 ……。



 「時子さんと喧嘩でもしたのか?」



 うん、と。そう聞こえて、俺は夢子を抱き締めようと手を伸ばす。……不思議と俺の手は以前のように素直に伸びてくれない。違和感があった。しかし、悲しそうな夢子の顔を見たくなくて、そう思うとようやく体が動いた。



 そう訊いた理由は、ほとんど直感だ。ただ、夢子がとても寂しそうで、だからそう思った。



 俺が家を出ていくとき、当然夢子のことを考えた。俺が居場所を失ったように感じたのと同じく、夢子もそう感じたのではないかと思ったからだ。



 あの時、夢子は迷っていた。だから俺は不安定な俺よりも不自由なく暮らせるあの家を勧めたのだ。しかし、今の夢子の様子を見るにそれは間違いだったようだ。



 「なんか、邪魔になっちゃったのかなって思って」



 夢子が言う。



 「邪魔か」



 夢子は日常の微かなすれ違いにその臭いを感じたのだろう。例えば多少の意見の食い違いや、言い合い。そして諍い。



 時子さんは夢子を邪魔などと絶対に思ったりはしない。夢子も新しい妹も、彼女にとってはかけがえのない娘であるはずだ。



 ただ、人は物事に理由を欲しがる。だからきっと夢子はそんな違和感に理由が欲しくて、ついこんなことを言ってしまったのだと思う。



 「お母さんはもう、私なんていらないんでしょ?」



 俺の思考と夢子の言葉がリンクした。



 「そう言ったら叩かれちゃった。痛かったな……」



 きっと、胸が張り裂けるような思いだったと思う。夢子も、時子さんも。



 「家に戻りたくないのか?」



 訊いたのわけではない。これは確認だ。



 「うん。今は嫌だ」



 わかった。そう返事をして頭を撫でる。しばらくの間、夢子は俺を離さなかった。



 ……その夜、父に電話を入れて事情を話すと、こっちは任せろと言われた。それはつまり、夢子を任せたという事だろう。相変わらず言葉の足りない男だ。



 話し終えて部屋の中に戻ると(ベランダで話していた)、夢子はすっかり表情を明るくしてベッドの上でスマホをいじっていた。既にシャワーを浴びて、部屋着に着替えている。



 そんな彼女を見ながら今日から寝床をどうしようかと考えていると。



 「それはさておきお兄ちゃん。どうして部屋に女の子を入れたの?」



 問い詰められて俺は、どんな方法で切り抜けようかと考えていた。
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