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恋に恋する更に手前

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ベッドに仰向けになり、昂汰は携帯の画面と手元の硬い紙とを交互に見つめていた。手近なメモ用紙がなかったのか店のコースターに書かれた健斗の連絡先が少し癖のある字で並んでいる。

ずっと昔から変わらない、健斗の字だ。それを眺めているとなんとも言えない気持ちがわき上がってくる。携帯を顔の横に投げ出すと指先で字の上を撫でて溜息を吐いた。本当にこんなものを渡してくるなどとは思っていなかった。あんなの、あの場限りの口約束でも構わなかったのに。律儀で真面目なところも本当に変わっていない。

「なんだよ、悩ましげな溜息なんか吐いちゃって」

からかうような声が降って来たと同時に手の中からコースターが奪われる。

「……俊輝さん」
 
怠そうに持ち上げた視線の先には意地悪そうに笑う男の姿があった。無遠慮にベッドに乗り上げた男は手の中のものをしげしげと眺めて、そこに書かれた携帯番号らしき数字の列と英数字の羅列を目で追うとにやりと笑んだ。

「何、ナンパでもされたのお前。店で?」
 
違いますよ、と憮然とした面持ちで答えながらそれを取り返そうと手を伸ばす。すると俊輝は意地悪くその手を上に持ち上げたものだから、昂汰もムキになって跳ね起きた。突端に掛布が身体の上を滑り落ちて、昂汰の裸身が露わになる。バスローブに身を包んで髪を濡らしたままの俊輝の姿との取り合わせを見ればふたりが先程まで何をしていたのかなど、火を見るより明らかだった。

「ただの昔の知り合いです、たまたま再会しただけで……」
「そのわりには随分と重い溜息だったなあ?」
「うっ、確かにいろいろあったやつではありますけど」
 
俊輝の言葉に昂汰はぎゅっとシーツを握りしめた。俊輝はいつもこうだ。昂汰の心の柔らかい部分に軽々と踏み入って来て、隠しておきたい本音を引きずり出してくる。でもそうでなければ、そんな人でなければこんな関係にだってなっていなかった。心の奥底を暴く代わりに優しくそこに寄り添ってくれるところに惚れ込んだ。
 今のだってそうだ。顔は意地悪そうに笑っていても昂汰の頬を撫でる指先はどこまでも優しい。感情を内に籠らせてはその重さに耐えきれずに自滅する昂汰の悪い癖を見抜いていて、わざとこういう言い方をして傷を開いて膿を出そうとしてくるのだ。はっきり言って俊輝に出会ってからは、感情の重い滓を溜め込みすぎることが無くなったと思う。
兄のような、これを言ったら怒られるかもしれないけれどちょっと包容力がありすぎていっそ親のような。たまに口調には容赦がないけれど、甘やかされている。抜け出さないといけない。いつまでも甘やかされたままではいられないと理解している、だけどもう少しこのままでいさせてほしいと願わずにはいられない。
 
同時にちらつく、今日ばったり再会してしまった彼の顔。彼に対して抱いているのは俊輝への気持ちとは全く別のものだと思う。ぽつり、と言葉を零した。

「……昔、一緒に住んでたんですよ。一年くらいかなあ……ネットで出会ったんです。俺が大学の時あいつ高校生で、家出して今日寝るとこないって言うから泊めて」
「あらまあ、ネットねえ。さすが現代っ子だな。まあ一歩間違ったら事案だけどな。どっちにとってかは知らんけど」
「それは言わないでください。……だって、俺はじめてだったんですよ、あんな風に年下に懐かれることってなくて。だからなんか嬉しかったのかなあ、なんでもしてあげたいっていうか」
 
そう言ったところでふと俊輝の指が止まった。不思議そうに瞬いた昂汰に今度は俊輝の方が重い溜息を吐く番だった。

「それ、お前の悪い癖だぞ」
「え。何がですか」
 
瞼を閉じて呆れたようにまた一つ息を吐く俊輝に昂太は首を傾げるばかりだった。俊輝が昂汰を見る目には憐憫のような、同情のようなとにかくどこかかわいそうなものを見るようなそんな感情が乗っていた。しかしそこに冷たさが一切ないところが、俊輝の悪い所でもあると昂汰も思う。
 
所詮、ふたりは似たものどうしなのだ。一度感情を傾けた相手を決して無碍になどできない。そんな相手だからこそお互いに親しみを感じるし、ほっとけないのだろう。

「相手に尽くしすぎるところ。好きになったらお前本当盲目になるんだもんな」
「だから、あいつとはそんなんじゃ……俺が一方的に……あ、」
「ほら見ろ、好きなんじゃないか」
「好きですけど、でもあいつは普通に女の子と付き合ってましたし。望みゼロですよ」
 
自嘲したように笑った昂汰に、俊輝は苦いものを飲み下すような表情を浮かべる。ここで俊輝が何を言ったところで結局慰めにはならないことを十分すぎるくらいに知っているから。自分では昂汰を救い上げてやることができないことをよく理解しているから。

俊輝には、長年連れ添ったパートナーがいる。それでも、と昂汰に縋られて突き放すことができなかったのだ。それがどんなに残酷な事かを知りながら、自分の服の裾を握った昂汰の手を振り払うことができなかった。拒むことが一番の優しさだと理解しながらもその場で昂汰を深く傷つけてしまうことをおそれたのだ。
なんと身勝手で、臆病な事だろうか。それ以来何年か身体の関係をだらだらと続けている。パートナーの男もそのことを知っていていつも呆れながらも送り出してくれるのだ。あっけからんとした大らかな性格の彼は、それが俊輝のいいところだから仕方がないと言って。改めて思うと自分の不誠実さに頭が痛くなる。
 
昂汰との関係が始まったのは二年前、仕事で出会ったのがきっかけだった。昂汰の職場に出向した時新卒で入ったばかりの昂汰は要領の悪さも手伝ってか失敗してはいつも暗い顔をしていた。細枝のような体格もあっていつか文字通りぽっきりと折れてしまうんじゃないかと気が気でなくて、なんだかほっとけなくて何度か食事に誘ったのが事の始まりだった。
酒が入った昂汰はとにかく性質が悪くて何かの拍子に「好きです」と言われ、うっかり流された。
なんのはずみだっただろう。恋人がいる、と断った時だっただろうか。その時男は趣味ではないと断ってしまえればよかったのだろうが、昂汰は執念深い。何気ない会話の端々からかけがえのない友として会話に登場させていた「彼」が俊輝のパートナーだということに目ざとく気がついて、それで……
昂汰が自身の性的指向を自覚したのは高校生の頃だという。自分は同性しか好きになれない。閉塞感と同調圧力が顕著な田舎ではこの性癖が障害になるのは明らかだった。だから就職を機に上京したのだととつとつと語る言葉には自分にも十分覚えがあって、だからこそ彼を伴ってこちらに出てきたのは俊輝も同じだった。最初から同情から始まっていたのだと思う。

「だから、無理ですってば。あいつはノーマルですもん。ただでさえ顔もいいし、性格だっていいし……俺なんかが釣り合う人間じゃありません。そもそも男と付き合うなんて発想ないですよ、何もしなくても女が寄ってくるようなやつですよ」
「いや、分かんねえだろ。そういうやつほど案外男にハマったり……」
 
俊輝の言葉に昂汰はゆっくりと首を横に振って拒絶の意を示す。自分はこれでいい。一方的に自分だけが好きなままでいいのだと。そもそも俊輝とのこの関係だって、昂汰の一方的な慕情がはじまりだったのだ。俊輝が自分に向けている感情が恋情とは別のものなのだということを承知で始めたものだ。
けれど、昂汰だって分かっている。少なくとも、この俊輝との関係は早く終わらせなければならないということは。
俊輝のパートナーの男とは、昂汰も面識があった。恋人の浮気相手だと知りながら詰ることも糾弾することもせずに弟のようにかわいがってくれる、寛容な人だ。俊輝抜きで一緒に出掛けることすらある。そんな優しい人を悲しませていることへの罪悪感で、そう遠くない将来昂汰は潰れる。
もし、そうなってしまったら俊輝は昂汰を「かわいそう」だと思うのだろう。しかし、それはどこまでも傲慢な感情だ。満たされている者が、潜在的に相手を下に見た時に感じるものだ。突き放すことのできない、中途半端な優しさで傷つけているこの青年が心から幸せに笑う様が見たい。二年は、そう思わせるにはじゅうぶんだった。
この青年はどうしてか自身に向けられる悪意に敏感で、好意には鈍感だ。なにがそうさせたのかは分からない。話すべきことでもないから話したことはない。どこか幸せに対して臆病で、いつだって自分の好意が受け入れられないと思い込んでいる。それがどうしようもなく、もどかしかった。
しかし俊輝も分からないではないのだ。相手が異性愛者であるなら同性愛者の自分の気持ちはきっと受け入れられないだろうと諦念を抱いてしまうのは仕方のない事だと。近年では偏見の目は少しずつではあるけれど薄れつつある。けれど、思った人がそうではなかったら。ずっと想ってきた相手に拒絶されるのは、想像に難くないほど堪える。
それでも、賭けてみる価値はゼロではないと俊輝は思う。運よく成功してしまった自分だから、無責任に言ってしまえるのだと詰られればそれもそうなのだけれど。

「いいじゃん、冗談で誘ってみるくらい」
「……俺に誘われて俊輝さんそそります?」
「あー……うん、まあそれなりには」

言いよどんだ俊輝に昂汰は見るからにあからさまに肩を落とした。ウサギの耳が力なく垂れさがっているのがみえるようだった。こういう関係だからセックスはするものの、はたして昂汰に性的な魅力があるかと問われると答えは口に出しかねる。どこがかわいい、とかだったらまだなんとか返答に難くはないのだが。

「あ、じゃあお前化粧して誘ってみるのはどうよ?普段はブスだけど」
「……それは、詐欺というやつでは?」
 
むしろ引かれかねないのではないだろうかそれは。そういえば当時は夜勤だとか嘘を吐いて出かけていた。厳密に言うと嘘ではないのだけれど。バイトには違いなかったのだしそこは嘘ではない。
俊輝にはバイトのことも知れていた。ああいう場の雰囲気は彼の好むところではないので店に誘ったことはないし、恥ずかしいので見てほしくもないのだが写真だけは見せたことがあった。その時俊輝が珍しく、なんの捻りも嫌味もなく似合う、と言ってくれたことは昂汰の思い出の宝物の中でひときわ輝いている。その分ついでに随分とひどいこともたった今言われたがその辺りは自覚があるので傷つく部分がすり減りすぎてもうなくなっている。ので、悲しくないと誤魔化してみたがやっぱりなんだか少しだけ泣きたくなった。

「あとはまあ、お前のテクニックだよ、テクニック」
「えぇー……何ですかそれ」
 
ドラァグクイーンというものはそもそも、男性の同性愛者や両性愛者の文化から発展したサブカルチャーの一種で、抵抗が薄かったのはその存在を知っていたのも大きかったのかもしれない。田舎では性癖をひた隠しにしてきた、と俊輝は聞いている。小さな街を出て、少し都会の大学に出た時分、寂しさに託けてそういう出会いを求めてはじめて立ち寄った界隈の街。そこでスカウトの声をかけられて今に至るとのことだった。だから店で声をかけられたり、行きずりの男と寝ていたりもした。恋愛ごとに奥手な癖に、経験だけはそれなりにある。それを苦し紛れに揶揄して言ってみるが、それが経験値になっているのかと問われれば自信はないらしい。微妙な表情でうつむいたかはどこまでも沈鬱でなんだか自分まで胸が苦しくなってきた。

「……やっぱ、いくらなんでも俺はダメです。好きになってもらえるようなたいそうな人間でもないですし、遊びに
したって俺じゃ、あの子の汚点にしかなりませんって」
 
汚点、とは。そこまで聞いて俊輝は天を仰ぎたい衝動に駆られた。どうしてこう、この男は自己評価が底辺を這いずりまわっているのか。と同時に匙を投げたくなった。昂汰はともかく頑固なやつで一度自分の中でこう、と決めてしまったらなかなか考えを曲げないきらいがある。
しかもこれは昨日今日の話ではなくて、何年も前から考えていたことなのだろう。そうであるなら俊輝に入り込む余地など欠片もない。

ただ少しでも情を持った相手が幸せになってくれればいいだけなのに。なかなかどうして、うまくいかないものなのだろうか。こんな不誠実な関係を築いてしまった贖罪ではないが、せめて昂汰が好きになった人間が他にできたのならどうにかしてその人と幸せになってほしい。年上としてその後押しをしてやることが俊輝にできる唯一の贖罪であり、責務だと思うのだが……

「だからいいんです、俊輝さんのこともいつかちゃんと上手に諦めますから。ごめんなさい。今だけ思い出、ください」
「昂汰……」
 
せめて、と思って抱き寄せた骨ばった身体は小さく震えている。強がりと我慢ばかり覚えたこの痩せた身体を包み込む相手がちゃんといるはずだ。いなければおかしい。自分以外の、相応しい相手が。そう思いながら、俊輝は昂汰の顔を覗き込む。泣きそうに潤んだ瞳は、二年前と全然変わっていなかった。


覚束ない指先で文字列を打ち込めば、返事はすぐに返ってきた。それに対して昂汰は仕事の合間に遅々としながらも返事を打ち込んでいった。なんとなく気恥ずかしくてにやつく口元を隠しながら携帯を触っている昂汰の姿に、恋人でもできたのではないかと僅かに話題になっていた。けれども先日の飲み会の話をすれば、大体の人間が合点したうえでなんとなく微笑ましいものを見るような目で見てくるものだから、昂汰の社内での扱いが見て取れる。本人は自分をあまりにも過小評価している。けれども不器用で容量は良くないが、真面目に筋を通すところがなかなかに好かれていることに本人は気がついていないのだった。女性社員から冗談で健斗の連絡先を尋ねられてあたふたする様がかわいらしいとからかわれっぱなしである。
そんなやり取りを何回か重ねて二回ほど経った週末に、ふたりは新宿の居酒屋で落ち合った。せっかくなので今日は店でのバイトも休みにした。健斗の方も週末なら本当はシフトを入れたいだろうに昂汰に合わせてくれたのだ。そのくらいはしないと。会話を邪魔しない程度斧程よいボリュームの音楽が耳を撫でるように通り過ぎる。対面に座っているはずなのになんだか遠い気がするのは、ふたりの間を隔てているのが小さな部屋に合わせた小さなローテーブルではなくなっているから。相手は昔馴染みで、一緒に住んでいたはずなのになんだか妙に緊張してどぎまぎしてしまって落ち着かない。お通しにも手をつけないままちびちびと忙しなくグラスを口につけて唇を濡らすばかりだ。
対して健斗の方は呑気に頼んだフライドポテトを頬張りながらメニューを眺めてこれすごいうまそう、とマイペースに呟いている。

「あの、健斗」
「初めてだね、昂汰とお酒飲むの」
 
何か話題がないかと取りあえず呼びかけてみた昂汰の苦し紛れの一手は鷹揚な健斗の声に阻まれた。嬉しそうに笑った顔にどきりと胸が鳴るのをごまかすようにグラスにまた口をつける。
健斗と一緒に住んでいた一年の間、自分の部屋には缶ビールもチューハイの一本も持ち込まなかった。置いておけば好奇心に任せた健斗が飲んでしまうかもしれない。高校生の男なんてそんなもんだ。友達連中には過保護すぎるだの、酒くらい今の内から飲んでおいた方がいいだの散々言われたけれど、頑固な昂汰は預かっている身なのだからそんな素行不良な真似をさせては健斗の両親に申し訳が立たない。と、とにかく酒や煙草の類には手を出さないように見張っていたのだった。けれども今思えばバイト先までは見ていられなかったので、もしかするとそちらで手を出していたのかもしれない。そんなことを思っていると健斗が当たり前のような顔をして煙草を取り出したものだからぎょっとしてしまった。

「え、なに?」
「いや……そっちまで手だしてるとは思わなくて」

昨今、喫煙者に対する風当たりは厳しい。それなのにわざわざ手を出すのはいっそ不自然にすら思えたのだ。学生ならなおさら、酒はともかく煙草は必要のあるものには思えなかった。

「自分は初対面の高校生の前でも家の中でもすぱすぱ吸ってたのに。知ってる?外に出てる副流煙ってやつの方が身体に悪いって教科書にも載ってるよ」
 
言われると、返す言葉が見つからない。けれどもそれでは疑問の答えとは言えず、ぎこちなく言葉を選びながら尋ねた。なんだか奇妙な感覚だ。まるで一緒に住み始めた最初の頃のような。同居生活の最後の方はほとんど口で言わなくても通じるような感覚さえあったのに。

「でも、わざわざ今時吸うメリットなんてないでしょ」
「うーん、そうなんだけど。でも俺にとって大人って言ったらこのイメージなんだよね。昂汰が吸ってるところ、な
んとなく思い出しちゃって吸うようになってた。なんだか恋しかったのかな、昂汰からはいつも煙草とコーヒーのにおいがしてたなあって」
 
なんだか、とても恥ずかしいことを言われている気がする。当時の昂汰だって実際のところ成人はしていてもまだ学生だ。大人とは程遠かっただろうに、健斗にはそう見えていたのだ。

「だって昂汰、お酒だけは絶対俺の前で飲まなかったからさ、こっちの方が印象に残ってるっていうか」
「……酔ったところ、健斗に見せたくなかったから」
「今もカシオレだもんね、弱いの?」
「うん……それに酔うと絶対かっこ悪いところ見せると思って、健斗の前ではしっかりしてなきゃって、ずっと思ってたから……」

酔っているからだろうか。言うつもりもなかったことがぽろぽろと口から出てきてしまう。実際はアルコールなんてほとんど摂取していないのに、酔っているような感覚になるのはなぜだろう。

「じゃあ、今はそういうところも俺に見せられるってこと?」
「そう、そうなのかな……?」
「だったら、俺は嬉しいんだけどな」
 
対面の微笑が、最初の時とは違う色を帯びているような気がする。じんわりとあたたかいというか、ぬるい水のような笑みだと思った。いつもの子犬みたいな溌剌とした笑顔もかわいらしくて愛おしいけれど、これはこれでなんだかほっとする。
年下相手にこんな安心感を覚えてどうするんだ、と思う自分もいるけれど包み込まれているかのような安心感に身を任せてしまいたいと思う自分もいた。いつの間にこんな顔ができるようになったのだろう。

「ねえ、昂汰。そっち行っていい?」
「え?」

疑念の声を上げて、返事を待たない内に健斗の体が隣に滑り込んでくる。戸惑う気持ちとは裏腹に変に落ち着いてしまう。昔はしょっちゅうこうして横に並んで話をしたり、ゲームをしたりしたものだ。

「どうしたの、急に」
「うーん?なんか、遠いなって思って。昂汰の顔が。やっぱり、こっちのほうが落ち着く」
「そ、そう……」

肩口が僅かに触れる程の距離に、心臓の鼓動が忙しない。真横の健斗に聞こえるのでは仲と思う程に耳元でどくどくと血の巡る音がしているだけなのか。自分が気にし過ぎているだけだったらいいのに。
ふと、前に誰かが話していたことを思いだす。同窓会で昔好きだった女の子と隣になってしまってやけに緊張してしまったと。例えるならばそれと同じかもしれない。喉がからからに乾いて目の前のグラスを一気に煽る。ろくに食べ物も胃に入っていない、急激に回ったアルコールに視界がゆらゆらと揺らめき始めた。

「ねえ、昂汰なんか、へん」
 
訝しげにこちらを覗く瞳に、色々と見透かされているような気がする。

「いや、あの……久しぶりすぎて緊張してるっていうか」
「なんで緊張なんかするの」
 
さもおかしそうに笑う。一時はお互いの顔を見ない日なんてなかったくらいだったのにと言いたげな顔。でも仕方ないではないか、二年も離れていたのは確かなのだから。社会人になって分かる。社会人になってからの変化と学生、しかも十代が二十代になってしまったことの変化は昂汰の少々足りない頭では形容しがたいが、とにかくなんだかいきなり成長してしまったように見えるのだ。

それに言えるわけがない。好きな人に久しぶりに会ってああ、やっぱり好きだなあなんてしみじみと思い知らされました。だなんて、とても。
いよいよ体まで火照ってきたところで唐突に健斗の指が手の甲に触れた。肩が大げさに跳ねるのを自覚する。これは、あまりにも大げさすぎた。たかだか手が触れただけでここまで過剰に反応するなんて、中学生でもあるまいし。
これでは不審なこと極まりない、と思うけれど健斗の指がなぞるように手の甲を撫でてやおらに指が絡む。いよいよ混乱が頂点を極めてきた。この子は一体何がしたいんだ。

「……ずっと言おう、と思ってたんだけど」
「なに?」
「昂汰って、男と付き合ってたでしょ、昔」
 
その言葉に、愕然とした。一気に頭のてっぺんからつま先まで血液が急降下していくような感覚。血の気が引くとはまさしくこういう感じを言うのだろう。
どうして知っている。だって、健斗と住み始めてからは漠然とした寂しさからなんとなく解放されたような気持ちになることができた。だから行きずりの男とベッドを共にすることも無くなっていたのに。
さっきまで火照っていたはずの体から今度は冷や汗がどっと噴き出す。胃の中を氷塊が滑り落ちていくような心地がした。

「なんか、人づてに聞いて……それに一緒に住む前、出会ってすぐのころに一度だけ知らない男の人とホテルに入ってくの見ちゃって……違った?」

沈黙はこの場合、肯定になってしまう。けれど初手ですでにしくじっている。即座に否定しなかった時点でもう遅い。それにそんな現場を見られて否定するだけの材料を昂汰は持っていない。
嫌われるだろうか。今の挙動はもしかすると、カマをかけられていたのか。

「あ、気持ち悪いとかそんなんじゃないよ」
「そう……なの?」

そう言う健斗の方はどこまでも平然としていて、逆になんだかこわかった。口ではそう言っていても、もし拒絶されたら。それならなぜわざわざ会おうとなんてするのか、動揺で思考がうまく働かない。

「うん、むしろその逆。だったら、俺にもチャンスあるかなって」
「……は?」

理解するのにたっぷり一分程かかった。いや、それならば今の一連のこの行動にも何とか説明がつく。要は、意識させようとしている。友人としての距離を飛び越した関係に踏み込むことを。
しかし理解はできても容認はできない。そもそもチャンスってどういうことだ。知られたら拒絶されるとばかり思っていたのに、予想外の出来事の連続に平素から素早いとは言い難い脳の回転が錆びついたようにぎこちないものになっているのが分かる。貧弱な脳のキャパシティを越えてしまっている。誰か助けてほしい。

「チャンスって、え?」
「好きになってもらう、チャンス。分かってるよ、昂汰が俺のこと弟みたいなもんだって思ってることくらい。でも好きになるのは俺の勝手だし」
「いや、それはそうなんだけど。ちょっと、ちょっと待って」
「やだ、待たない」

たじろぐ昂汰に健斗はぐっと顔の距離をさらに詰める。吐息がかかるほどの距離、アルコール混じりのそれに目眩がしそうになる。同時にあざとい、これはあざといと脳で喚く声がする。
だって健斗はおそらく分かってやっている。この自信のなさそうな、捨てられた子犬のような表情で迫れば昂汰が簡単に陥落することを経験上知らないわけがない。うちに転がり込んできた時だってそうだったじゃないか。
そもそも顔が良い時点で反則なのだ。顔が良ければ世の中たいていのことはうまく行ってしまうものだ。日本人離れした彫の深いはっきりとした目鼻だち、きれいなアーモンド形の瞳に蠱惑的な色を湛えてじっと見つめられながら迫られたら大方の人間は抗うことなどできない、と昂汰は思う。たとえそれが惚れた欲目が混じっているとしてもだ。
この容姿に加えて本人の生来の愛嬌も加わればもう向かうところ敵なしである。好きで、かわいくて仕方のないこの年下の男にねだられてしまえば、なんでもしてあげたくなってしまうのは仕方のない事だと思う。

けれど今日ばかりは流されてはいけない。いけないのだ。そう思って必死に口元を引き結ぶ。

「今、付き合ってる人いるの?」
 
一瞬、俊輝の顔が浮かんで慌てて打ち消した。正直言えば他にも何人か身体の関係を持っている人間がいないこともないのだけれどやっぱりすぐに思い浮かんでしまう。でもあの人は、俊輝とはそんなのではない。

「……いないよ」
「じゃあ、」
「でも、ダメ」
 
俊輝の顔は打ち消したけれど、俊輝に言った言葉が代わりにふわふわと浮かび上がっていた。こんなのはきっと一時の気の迷いなのだ。多分、ふたりで過ごした時間への郷愁のようなものが呼び起した恋しさを、恋情のそれと勘違いしているだけ。

「そんなん、絶対気の迷いだって。何かの勘違いに決まってる」
 
健斗は聡い子だから、いつかきっとちゃんとそのことに気がつくことができるだろう。けれども、人一倍優しいこの子はその時昂汰と別れることに痛めなくていい胸を痛めてしまう。それは、良くないことだ。自分なんぞに健斗の貴重な時間も、感情も使わせるべきではない。

「……俺も、最初はそうかと思ったよ。こんなの変だって、でもなんていうか昂汰といたら楽しいだけじゃなくてドキドキだってした。だから恋だって思った」
「だからそれは……」

それは、何だと言いたいのだろう。気のせい?勘違い?否定しなければならない、けれど否定できるだけの材料を昂太は持っていなかった。
だって、それはずっと昔にはじめて自分が同性に惹かれた時とそう変わらない感覚の話をしている。昂汰がそれを自覚したのはもう随分と昔の話だけれど、始まりはやはりそうだった。一緒にいて楽しい、その先によく分からない胸の高鳴りが乗っかった。
高校生の時は気の迷いで自分だって済ませようとした。けれど、異性に対して友人以上の好意を覚えられなくて、それで自分が同性愛者なのだと自覚したのだ。
けれどもやはり、健斗のそれは否定しなければならないものだと思う。バイト先で彼女ができたと嬉々として話す横顔が未だに鮮烈に脳裏に焼き付いているから。健斗は普通に異性を好きになれる。だったらそれはちょっとした錯覚なのだと。

「ねえ昂汰」
「ダメったらダメ」
「……でも、嫌とは言わないじゃん」

痛いところをついてくる。こうしてこちらの言葉の穴をうがってくるというか、屁理屈というかが妙に上手なこどもだった。それは今も健在ということか。口下手な自分はこのよく回る口に何度言い負かされそうになったことか。
けれども言いくるめられていたわけではなくて、どちらかというと言いくるめられてやっていたふりをしてやっていた。というのが正しい。子どもの自尊心を損なわない程度に言うことを聞いてやって、その上でうまいこと自分の狙った方向にそれと気づかれないように誘導する。健斗相手ならきっと通用するはずだ、今でもきっと。そう思っていたけれどそれはやはり相手が子どもだからできたことだった。健斗は聡いからもう既に昂汰の誘導にうまいこと乗ってくれなくなってしまっていた。だからいつの間にか主導権が奪われてしまっている。今も。
後頭部にやんわりと、優しく手が触れた。引き寄せられてより近づいた顔、額同士が触れ合う。触れてしまったらもう逃げられない。この熱が伝わってしまう。
距離を取ろうと腰を引いてみたけれどあえなく壁にぶつかった。これもまた計算の内かと思うといっそ忌々しい。

「健斗、」
「ダメって言われると、余計やりたくなっちゃうの、分かってるでしょ?」
 
言うが早いか、唇が触れ合った。さっきから一瞬も気を抜いていたつもりは無かったのに、口を開いた一瞬の隙を突かれた。声を発するために微かに開いた唇を割って舌先がぬるりと入り込んでくる。喉奥で悲鳴を上げても飲み込まれる。

「んっ、んんっ……!」
 
どこでこんなもの覚えてきたんだろう。見えるはずもないどこかの女の子の影がいくつも昂汰の周囲を囲んで笑っている。だって、俺はこんなキスができる健斗なんか知らない。
 
途端になんだか苛立ちが勝ってきた。年下相手にいいようにされてたまるか、というちっぽけなプライド。入り込んできた舌を逆に絡め取ると目の前の瞳が、おもちゃを与えられた子どものように輝く。
 
ああ、またやってしまった。本当ならこんなこともするつもりは無かったのに。

舌先を擦り合わせて絡め合う。昂汰が手練手管を駆使してなんとか主導権を握ってこの行為を終わらせる術を模索しているというのに、健斗の方は新しい遊びを与えられた子どものように無邪気にそれを甘受しながら昂汰の予想以上に慣れた仕種で深いキスを継続させる。 
どんどん深くなる口の交合は昂汰の方が押され気味だった不意に舌先が奥に侵入してきたところからもうダメだった。口蓋を舐められ、舌の根を撫でられるうちに頭がぼうっとしてきてしまう。深いところまで侵入を許してしまえばそうなることは分かっていた、分かっていてそうならないように躱していたつもりだったのに、人の弱点を見つけるのがうまいのだ。

「ん、は、あ……」
「気持ち良かった?」
「おま、なんで」
「だって、するでしょ普通。好きな人の顔が目の前にあったらキスくらい」
 
こんな子に育てた覚えはない。そんな言葉が口をついて出そうになった。育てたわけでもないのだけれど。

「ねえ、昂汰。俺が何も考えないでこういうとこ選んだと思うの?」
「え?」
「学校の先輩とか、バイト先の先輩とかいろんな人に聞きまくったもん。好きな子連れてくならどこがいいって。昂汰、ロマンチックなの好きでしょ、だからがんばって探したんだよ?」
 
ロマンチストなのは健斗も同じだろう、という言葉が喉まで出かかったが飲み込んだ。ロマンチストのええかっこしいだというのはいやというほど知っている。たしかに学生が選ぶにしてはずいぶんと洒落た店だとは思ったが、まさかそんな奮闘が裏にあったとは。
健斗にこの店を教えた人間はそれはもう快く教えてあげたことだろう。素直でかわいらしい後輩が真剣な顔でデートにはどんな店が良いですか、と尋ねてきたら応援したくなるに決まっている。まさか相手が四つ年上のしょうもない男だとは夢にも思わずに。
そんなことを考えてみたらなんだかちょっと笑えてきた。こんなに必死になって、本当にかわいいやつだ。

「それに、さ。立地とかもちゃんと考えたし……」
「立地?」
 
なんだか話がおかしい方向に向かっているような気がしないでもない。おうむがえしにそう返したところでもう一度唇が触れ合って、口の中にとろりと液体が滑り込んできた。
なにも考えずにそれを嚥下した途端、咽喉が焼けるように熱くなって頭の芯がぼうっとする。それに任せて健斗は何度も口づけて来るし、その度に熱い液体が喉を滑り落ちていく。

「けんと、なに、したの……?」
「なにも?ちょーっと強いお酒飲ませただけ」
 
瞼がくっつきそうに重い。昂汰の様子などお構いなく健斗は何度も口づけてきた。その度に酒を流し込まれ、拒むことなく飲み下し続ける。本当なら、拒むべきなのだろう。大人しく飲み込んでしまう自分が愚かなのは分かっている。
けれど、拒めるはずがなかった。健斗の望みを受け入れること、望みを叶えてやることに喜びを覚えるようになったその日から昂汰の中で健斗の行為を拒むという選択肢は消えてしまっていた。
しかしキスとアルコールで蕩けた脳にはしっかりとずっと警鐘が鳴り響いている。このまま流されてはいけない、目の前の大切な人間の一生を台無しにする気か、と。でもそう警告する理性に抗うように甘い誘惑が脊髄を這い上がって耳元で囁くのだ。一回の過ちぐらい、しかも酒に飲まれての行為だ。無かったことにするのは容易だと。正常な判断のつかなくなりそうな脳の囁きは悪魔にも似ている。

「昂汰、大丈夫?歩ける?」

口ぶりでは心配しているように見えるが、実際は違う。やっていることは獲物が罠にかかるのを待っている狩人、網を張って餌がかかるのを待っている蜘蛛の行為だ。これは確認のための問いである。 
無邪気なようでいて、なかなかに用意周到な部分をこの少しの時間で充分に思い知らされた。最初は慎重に事を進めていたのに昂汰が拒めないのを分かっていて、最後には少々強引な手段で何とかしようとするところが昔から変わらない。そしてそんなところがかわいい、と思ってしまっている自分も大概だ。

「だいじょうぶ、歩ける。帰る」
「またそんな強がり言って、ほらちょっと立ってみて」
 
アルコールの熱さで焼き切れそうな理性をぎりぎりのところで総動員して突き放そうとした。でもその言葉が虚勢でしかないことなんて簡単に見抜かれてしまう。現に少し体を椅子から浮かせただけで視界が一回転して再び座り込んでしまったほどだ。そんなに量を飲んだような感じはしなかったのだが、酒が本当に強かったのかそれとも雰囲気にのまれたのか。どちらなのかは分からない。

健斗の腕が、背中に回る。耳元に唇を寄せられて、ぞくりと肌が粟立ったような、気がした。

「……ちょっと休憩、しよっか」

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無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

大学生はバックヤードで

リリーブルー
BL
大学生がクラブのバックヤードにつれこまれ初体験にあえぐ。

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