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午後6時にもなると歓楽街が鮮やかに彩りはじめる。早いところではサラリーマンがすでにできあがっていて、店の外にまで笑い声が聞こえていた。チェーン系列の飲み屋や、昔ながらの赤提灯のお店、ガールズバーやキャバクラといったネオンが眩しい看板を横目に、ひたすら飲み屋街の奥を目指した。
「今日もちゃんと十分前出勤っと」
携帯で時間を確認し、良く見ないと見逃してしまいそうな扉のドアノブを掴んで中へ入る。
「お疲れさまでーす」
「あ、彩乃ちゃん! 来てくれたのね。助かるわぁ」
小さなバーカウンターの中にいる優しそうな男性に話しかけられ笑顔を浮かべた。見た目は女性的でさらさらの長い髪の毛をまとめていると女性にも見えるが、ニットを着ているとその肩幅かられっきとした男性だということが分かる。話し方からオネェ系に間違われることもあるがそうではない。バーカウンターの他にテーブル席が三席の割と狭い店内だ。テーブル席に一組お客がいるのみで、まだ賑わう時間ではない。
「とんでもないです! マスターのお願いなら当日でもかけつけますから!」
「ごめんねぇ。もう仕事してる彩乃ちゃんにいつまでも頼るのは良くないって分かってるんだけど……」
「それは言わない約束ですよ。私こそお小遣いもらえて助かってますから」
出迎えてくれたのは飲み屋街の奥にある小さなバー『シエスタ』のマスターである小山有紀さんだ。この『シエスタ』は大学生のころバイトしていたバーで、今でも人が足りないときはこうして手伝いに来ている。
「小さいバーだからそんなに人が雇えなくてねぇ。急に休まれると困っちゃうのよね」
ふぅとためいきをついたマスターの他に、いつもはもう一人従業員がいるはずなのにその姿が見当たらない。
「ヒロくん、またですか?」
「まぁ仕方無いわよね。バンドマンってそういうものだから」
「ライブ、ですか……」
「対バンだって」
ヒロくんはこの『シエスタ』のアルバイトで、今はマスターとヒロくんの二人がメインでお店を回している。その他に週三ぐらいで入ってくれる女の子もいるけれど、このヒロくんというのがまた夢を追うバンドマンで急にライブが入って休むことが多々ある。
「応援してあげたいんだけどねぇ、お店も大事だしねぇ。それに今日金曜日よ、金曜!」
「金曜日は混みますもんね」
狭い店内を抜けて奥に荷物をおくと専用のエプロンをつけて手を洗う。このエプロンは私がバイトしていたころからずっと使っているもので、これを着ると少し若返ったような気分になるから不思議だ。
「だからホントに彩乃ちゃん来てくれて助かった。一人だと寂しいしね」
「いつでも呼んでください。っと、おつまみの用意しておきますね」
「ありがとう」
この『シエスタ』は終電が近くなるにつれて混んでくる。まだ客が少ない時間滞に出来ることはしてしまおうと手を動かしていくのだった。
予想通り狭い店内に人が増えていく。そもそもそんなに人数の入るバーではないから、顔見知りの人以外は一、二杯飲んでつまんでさっと出ていく人も多い。大体が2軒目、3軒目として『シエスタ』にくるから店内は人の熱気とアルコールの匂いでいっぱいだ。
「マスター、ちょっと換気してきますね」
一言断ると狭い店内をお客さんにぶつからないように抜けて出入り口へと向かう。肌寒くなってきたから少しだけドアを開けるだけでも違うだとうと、ドアノブに手をかける。
「わっ……」
「っと、悪い。そっちに人がいると思わなく、て……」
押して開けるはずの扉が開いてそのまま前のめりになってしまう。それを誰かに支えられて顔を上げた。
「笹村?」
「え……?」
そこには怪訝そうな顔をしている葉山さんがいて、何が起こったのかまるで理解することが出来なかった。
「お客さんここ初めて? 奥のカウンター空いてるわよ」
客が来ているにもかかわらず案内しない私を怪訝に思ったのかマスターがカウンターの中から声をかけてくれた。その声にはっと意識を戻す。
「あ、い、いらっしゃいませ! 奥、案内しますね」
「あ、あぁ」
バレてないよね、とバクバク音を立てる心臓を抑えながら奥へと進んでいく。オフィスにいるときとは髪型も変えているし、少しだけメイクも派手目にしている。名前を呼ばれた時に思わず葉山さんの名前を口にしてしまいそうになり、慌てて息を飲んだのは幸いだったかもしれない。
「お客さん、何飲みます?」
「……スレッジハンマーで」
「あら、そんな強いの最初でいいの?」
「今日は酔いたい気分なんですよ」
カウンターの中でおつまみのナッツを用意しているとマスターと葉山さんのやりとりが聞こえる。スレッジハンマーは私でもわかるぐらい強いお酒で、葉山さんてそんなにお酒が強かったかなと記憶をたぐり寄せるがこれといって何も出てこない。会社の飲み会ではあまり意識していなかったけど、営業だしそこそこお酒は強いのかなと思い気にしないことにした。
「こんな金曜日に一人で初めてのお店なんてちょっとワケありかしらね」
マスターは葉山さんに聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟いてシェイカーを振るとグラスに注いでそっと差し出した。
「失礼します。こちらおつまみになります。他に何かご注文は?」
「……サラミの盛り合わせ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
葉山さんはちらりとこちらに視線を向けてきたがすぐに逸らした目の前のお酒をぐいっとあおった。その飲みっぷりを見たマスターは葉山さんのことを少し気に入ったようだ。
「熱っ……」
「どうしたの!? どこか触っちゃった!?」
二人をぼーっと見ていたら手の甲がオーブンに触れてしまった。
「す、すみません、ぼーっとしてたらオーブンのアルミに触っちゃって」
「早く冷やして!」
マスターは水道の水を出して私の手を掴んでそのまま水道水を当ててくれる。
「女の子なんだから後が残ったら大変でしょ」
「すみません、ありがとうございます」
店内は私のことなど気にもしていないようで、お客さんたちはそれぞれの会話を楽しんでいることにほっと胸を撫で下ろす。
「同じの、もう一杯お願いします」
「ありがとうございます。すぐ作りますね」
どこかぶっきらぼうな物言いにマスターは慌てて自分の仕事に戻っていった。確かにこんな金曜日の夜に一人で飲みに来るような人だっただろうかと考える。そもそも今日私が会社を出るころはいつもの葉山さんで、どこかおかしなところもなかったように思えるのに。
十分痛みも引いたところで保冷剤を冷凍庫から取りだしてくると、ふと葉山さんと視線が合う。
「お前……」
「え、私、ですか?」
注文のサラミの盛り合わせを置くと、葉山さんはおしぼりで手を拭いて一枚つまんで口の中へ放り込んだ。ペロリと親指を舐める仕草に思わず色気を感じてドキリとしてしまう。
「いや、やっぱいいや」
「はぁ……」
何か言われるのではないかと二重にドキドキしてしまったが、葉山さんはまたふいと視線を戻して、ためいきを着きながらグラスに口をつけた。定時で会社を上がってから5時間近く。その間に葉山さんに何があったのかわからない。けれどここで私が副業をしているということがバレてしまうのも問題だ。
そもそもうちの会社は副業禁止だ。派遣や契約社員ならまだしも、私はれっきとした正社員。お金に困って働いているわけではないけれど、確かにここでの収入が生活に少し潤いを与えてくれているのも事実だ。やめようと思えばいつでもやめられる。けれどどうしてもここにきてしまうのはマスターに対しての恩返しという気持ちが大きい。
そんな複雑な気持ちを抱えながら、極力葉山さんとは接しないように閉店までの時間を過ごそうと仕事に邁進するのだった。
「今日もちゃんと十分前出勤っと」
携帯で時間を確認し、良く見ないと見逃してしまいそうな扉のドアノブを掴んで中へ入る。
「お疲れさまでーす」
「あ、彩乃ちゃん! 来てくれたのね。助かるわぁ」
小さなバーカウンターの中にいる優しそうな男性に話しかけられ笑顔を浮かべた。見た目は女性的でさらさらの長い髪の毛をまとめていると女性にも見えるが、ニットを着ているとその肩幅かられっきとした男性だということが分かる。話し方からオネェ系に間違われることもあるがそうではない。バーカウンターの他にテーブル席が三席の割と狭い店内だ。テーブル席に一組お客がいるのみで、まだ賑わう時間ではない。
「とんでもないです! マスターのお願いなら当日でもかけつけますから!」
「ごめんねぇ。もう仕事してる彩乃ちゃんにいつまでも頼るのは良くないって分かってるんだけど……」
「それは言わない約束ですよ。私こそお小遣いもらえて助かってますから」
出迎えてくれたのは飲み屋街の奥にある小さなバー『シエスタ』のマスターである小山有紀さんだ。この『シエスタ』は大学生のころバイトしていたバーで、今でも人が足りないときはこうして手伝いに来ている。
「小さいバーだからそんなに人が雇えなくてねぇ。急に休まれると困っちゃうのよね」
ふぅとためいきをついたマスターの他に、いつもはもう一人従業員がいるはずなのにその姿が見当たらない。
「ヒロくん、またですか?」
「まぁ仕方無いわよね。バンドマンってそういうものだから」
「ライブ、ですか……」
「対バンだって」
ヒロくんはこの『シエスタ』のアルバイトで、今はマスターとヒロくんの二人がメインでお店を回している。その他に週三ぐらいで入ってくれる女の子もいるけれど、このヒロくんというのがまた夢を追うバンドマンで急にライブが入って休むことが多々ある。
「応援してあげたいんだけどねぇ、お店も大事だしねぇ。それに今日金曜日よ、金曜!」
「金曜日は混みますもんね」
狭い店内を抜けて奥に荷物をおくと専用のエプロンをつけて手を洗う。このエプロンは私がバイトしていたころからずっと使っているもので、これを着ると少し若返ったような気分になるから不思議だ。
「だからホントに彩乃ちゃん来てくれて助かった。一人だと寂しいしね」
「いつでも呼んでください。っと、おつまみの用意しておきますね」
「ありがとう」
この『シエスタ』は終電が近くなるにつれて混んでくる。まだ客が少ない時間滞に出来ることはしてしまおうと手を動かしていくのだった。
予想通り狭い店内に人が増えていく。そもそもそんなに人数の入るバーではないから、顔見知りの人以外は一、二杯飲んでつまんでさっと出ていく人も多い。大体が2軒目、3軒目として『シエスタ』にくるから店内は人の熱気とアルコールの匂いでいっぱいだ。
「マスター、ちょっと換気してきますね」
一言断ると狭い店内をお客さんにぶつからないように抜けて出入り口へと向かう。肌寒くなってきたから少しだけドアを開けるだけでも違うだとうと、ドアノブに手をかける。
「わっ……」
「っと、悪い。そっちに人がいると思わなく、て……」
押して開けるはずの扉が開いてそのまま前のめりになってしまう。それを誰かに支えられて顔を上げた。
「笹村?」
「え……?」
そこには怪訝そうな顔をしている葉山さんがいて、何が起こったのかまるで理解することが出来なかった。
「お客さんここ初めて? 奥のカウンター空いてるわよ」
客が来ているにもかかわらず案内しない私を怪訝に思ったのかマスターがカウンターの中から声をかけてくれた。その声にはっと意識を戻す。
「あ、い、いらっしゃいませ! 奥、案内しますね」
「あ、あぁ」
バレてないよね、とバクバク音を立てる心臓を抑えながら奥へと進んでいく。オフィスにいるときとは髪型も変えているし、少しだけメイクも派手目にしている。名前を呼ばれた時に思わず葉山さんの名前を口にしてしまいそうになり、慌てて息を飲んだのは幸いだったかもしれない。
「お客さん、何飲みます?」
「……スレッジハンマーで」
「あら、そんな強いの最初でいいの?」
「今日は酔いたい気分なんですよ」
カウンターの中でおつまみのナッツを用意しているとマスターと葉山さんのやりとりが聞こえる。スレッジハンマーは私でもわかるぐらい強いお酒で、葉山さんてそんなにお酒が強かったかなと記憶をたぐり寄せるがこれといって何も出てこない。会社の飲み会ではあまり意識していなかったけど、営業だしそこそこお酒は強いのかなと思い気にしないことにした。
「こんな金曜日に一人で初めてのお店なんてちょっとワケありかしらね」
マスターは葉山さんに聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟いてシェイカーを振るとグラスに注いでそっと差し出した。
「失礼します。こちらおつまみになります。他に何かご注文は?」
「……サラミの盛り合わせ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
葉山さんはちらりとこちらに視線を向けてきたがすぐに逸らした目の前のお酒をぐいっとあおった。その飲みっぷりを見たマスターは葉山さんのことを少し気に入ったようだ。
「熱っ……」
「どうしたの!? どこか触っちゃった!?」
二人をぼーっと見ていたら手の甲がオーブンに触れてしまった。
「す、すみません、ぼーっとしてたらオーブンのアルミに触っちゃって」
「早く冷やして!」
マスターは水道の水を出して私の手を掴んでそのまま水道水を当ててくれる。
「女の子なんだから後が残ったら大変でしょ」
「すみません、ありがとうございます」
店内は私のことなど気にもしていないようで、お客さんたちはそれぞれの会話を楽しんでいることにほっと胸を撫で下ろす。
「同じの、もう一杯お願いします」
「ありがとうございます。すぐ作りますね」
どこかぶっきらぼうな物言いにマスターは慌てて自分の仕事に戻っていった。確かにこんな金曜日の夜に一人で飲みに来るような人だっただろうかと考える。そもそも今日私が会社を出るころはいつもの葉山さんで、どこかおかしなところもなかったように思えるのに。
十分痛みも引いたところで保冷剤を冷凍庫から取りだしてくると、ふと葉山さんと視線が合う。
「お前……」
「え、私、ですか?」
注文のサラミの盛り合わせを置くと、葉山さんはおしぼりで手を拭いて一枚つまんで口の中へ放り込んだ。ペロリと親指を舐める仕草に思わず色気を感じてドキリとしてしまう。
「いや、やっぱいいや」
「はぁ……」
何か言われるのではないかと二重にドキドキしてしまったが、葉山さんはまたふいと視線を戻して、ためいきを着きながらグラスに口をつけた。定時で会社を上がってから5時間近く。その間に葉山さんに何があったのかわからない。けれどここで私が副業をしているということがバレてしまうのも問題だ。
そもそもうちの会社は副業禁止だ。派遣や契約社員ならまだしも、私はれっきとした正社員。お金に困って働いているわけではないけれど、確かにここでの収入が生活に少し潤いを与えてくれているのも事実だ。やめようと思えばいつでもやめられる。けれどどうしてもここにきてしまうのはマスターに対しての恩返しという気持ちが大きい。
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