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朝食が終わると、アレクシアはさっそく薬草園に向かった。
「まずは雑草と枯れたハーブを抜かないといけないな」
かなりの大仕事になりそうだった。だけど気持ちはワクワクしてとても明るい。
「あれ?」
薬草園に着くと驚いて立ち止まった。
雑草も枯れたハーブもきれいになくなっている。いったいだれがしてくれたのだろうか?
土はきれいに耕されている。あとは種を植えるだけになっている。その種も、きっちりと分類された状態で畑の横に並べてある。
たっぷりと水が入った樽までいくつも用意されていた。
「ルードヴィッヒさまが手配してくださったんだ⋯⋯」
きっと気をつかってくださったのだろう。
お世話になったお礼にどんな力仕事もするつもりだったのに⋯⋯。
「ほんとうになんてお優しいんだろう」
感謝していると、頭の中にルードヴィッヒの姿が浮かんだ。
まぶしいほど輝く金色の髪に、コバルトブルーの高貴な瞳⋯⋯。
あまりに整いすぎているので人間離れして冷たく見える。けれど笑顔になった瞬間に信じられないほど優しく暖かい表情に変わるのだ⋯⋯。
「かっこいいなあ⋯⋯」
自分でもびっくりするぐらい大きくて甘いため息をついてしまった。
「あれ? 僕はどうしたんだろう? ルードヴィッヒさまのことを思うと、胸の奥が変な感じになってしまうけど⋯⋯?」
自分の心がよくわからない。こんなにだれかのことを考えてしまうことは今まで一度もなかった。
「だめだ、だめだ、ぼんやりしていては! 辺境伯さまのお役に立てるように働かないと」
自分に喝を入れて、白いエプロンをキュッと腰に巻く。カールが用意してくれたエプロンだ。
カールは、「仕事が終わったら薬草園にすぐに行きますね!」と言って、このエプロンをくれたのだ。ポケットがたくさんついたとても機能的なエプロンだ。
「雪が降るとしたら、パセリやチャービルを選んだほうがいいかな? そうだ、カモミールも秋から冬にかけて育てるのに適したハーブだったな」
何種類かの種を選んで苗床に蒔いた。水をたっぷり与える。
「もしも雪が降ったら土をおおう藁が必要だな。⋯⋯そういえば、きのう歩いていた途中の小川沿いにローズマリーを見かけたけど⋯⋯」
ローズマリーは、枝を切ってその枝から増やすことができるハーブ。種子から育てるよりずっと速く大きくなる。
ローズマリーを油に入れてエキスを取れば、万病に効くポーションを作ることができるだろう。
「そうだ! 小川まで行って少し切り取ってこよう」
エプロンを外して丁寧にたたみ種の袋の上に置いた。そして城を出た。
「あ、雪だ——」
城を出てしばらく歩くと真っ白な粉雪がハラハラと降ってきた。カールが言ったとおりだ。
「積もるのかな? もしも積もるようだったら、帰ったら種を巻いた苗床の上にすぐに藁を広げて寒くないようにしてあげないと」
冬の季節の種の成長に必要な仕事を、あれこれと考えながら道を歩いていく。
目的地はきのう道を間違って戦場に入り込んでしまったあたりだった。かなり歩かないといけないが、薬草園を立派にしたいという強い思いで、まったく苦にならない。
「急ごう!」
途中で小走りになったぐらい元気いっぱいだった。
「カモミールもはやく大きくなるといいなあ⋯⋯。カモミールを煎じたら風邪に効くポーションができる。あ、そうだ! フェンネルも育てよう。フェンネルは腹痛に効くし、赤ちゃんの夜泣きにも効果があるんだった。⋯⋯そしてすべてのポーションに、聖女の祈りを込めてみよう」
セント・リリィ修道院のポーションにはオメガ聖女たちの祈りが込めてある。
だから効果が大きいのだ。
大聖女が中心になって他の聖女たちの祈りの力をまとめ、それをポーションに込めるという方法だ。
「大聖女さまはいらっしゃらないし、僕一人でできるかわからないけど、やるだけやってみよう。もしかしたら大した効果はないかもしれない。それでも少しでも役に立てるように心から祈ろう」
たくさんの人々を癒せたら、こんなに幸せなことはないではないか——。
「がんばってみよう!」
心の中がどんどん明るくなっていく。
ルードヴィッヒの城に来てから、今まで感じたことのないキラキラと輝くような気持ちが胸に湧き上がるようになっていた。
セント・リリィ修道院では、寂しくて、暗くて、悲しいばかりだったのだ。
だけど今は違う。楽しいし、嬉しいし、元気いっぱいだ。
心の中が変わると体も変わるのだろうか? 赤い唇の端がキュッと上がって笑顔になるし、足取りも軽やかだ。
のろまな亀——と言われた姿はどこにもない。
——もしかしたら、生まれ変わるってこんな感じかな?
やわらかい雪がゆっくりと降ってくる道を、銀色の長い髪をなびかせて走っていく。紫色の瞳は楽しげに輝いている。
その時——。
「あれ?」
ふと、背中にとっても強い視線を感じた。
だれかに見つめられているような気がする⋯⋯。
「あのお⋯⋯、だれか、いるんですか?」
立ち止まってキョロキョロと見回すが、だれの姿も見えない。
「変だなあ⋯⋯。気のせいかな?」
首をかしげながらまた歩きだし、やっと目的の小川についた。
小川のふちにはたくさんの野生のローズマリーが生えている。
川の流れのすぐそばに生えているので、気をつけて取らないと小川に落ちてしまいそうだ。
「これなら挿し木にぴったりだ」
用心しながらローズマリーの小枝に手を伸ばした——その瞬間に、つるりと滑ってしまったではないか!
「あっ!」
声を上げながら、川の中に落ちてしまった!
——流される!
川の流れはすごく速かった。このままではどんどん下流に流されてしまうだろう。アレクシアは泳げない。もうだめだ——と覚悟した。
が——、
「アレクシア!」
声が聞こえたと同時に、がっしりとした腕が伸びてきて、だれかが川の中から引き上げてくれた。
「怪我はないか?」
「⋯⋯ルードヴィッヒさま?」
助けてくれたのはルードヴィッヒだった。
ルードヴィッヒは怖いぐらい真剣な表情をしている。
「痛いところはないか?」
「は、はい⋯⋯。大丈夫です」
「ほんとうに? 足を折ってはいないか? 動くか?」
「は、はい⋯⋯。動きます⋯⋯」
川に落ちたアレクシアよりも、ルードヴィッヒの方が慌てふためいているようだ。
——ルードヴィッヒさま、どうなさったんだろう?
と、こっちが驚いてしまうほどだ。
「あの⋯⋯、ほんとうに大丈夫です」
「ならばよかった——」
ルードヴィッヒは大きく安堵の息を吐いた。
今やふたりの距離はものすごく近い。ルードヴィッヒが大きな胸の中に強く抱きしめ、ギュッと力を込めたまま離してくれないのだ。
どちらかがほんの少し動けば、ふたりの唇は重なるかもしれない⋯⋯。
「ルードヴィッヒさま⋯⋯」
「アレクシア⋯⋯」
雪が、降る—。
時が止まってしまったような、そんな時間が過ぎていく。
「ルードヴィッヒさま⋯⋯」
「アレクシア⋯⋯」
たがいに名前を呼んだとき、急に風が強く吹き始めた。雪が激しさをまして、あっというまに吹雪になった。
——寒いっ!
頭の先から足の先までぐっしょりと濡れていた。華奢な体に氷のように冷たい雪混じりの風があたり、どんどん体温が低下しているのだ。
体がガタガタと大きく震えだす。
「アレクシア!」
ルードヴィッヒが漆黒のマントをサッと脱いで、震える体をマントでおおってくれた。
マントはしっかりとした生地で分厚い。けれども濡れた体を吹雪から守るにはじゅうぶんではなかった。
「大丈夫か?」
「⋯⋯さ、寒いです」
だんだんと手足の感覚がなくなっていく。頭もぼんやりとしてきた。
「このままでは危ない。濡れた服を脱ぐんだ」
「えっ?」
——服を脱ぐ?
ここで? ルードヴィッヒさまの目の前で?
そんなこと絶対にできるはずがない。ものすごく戸惑った。だけどこのまま体温を奪われてしまえば、最悪、凍死してしまうだろう⋯⋯。
「さあ、急いで、アレクシア!」
ルードヴィッヒは自分のマントを渡すと、背中をむけてくれた。
「は、はい⋯⋯」
急いで濡れた服を脱いだ。オメガ襟だけはなんとか濡れずにすんでいる。
——よかった。
ガタガタと震えながらオメガ襟が濡れなかったことにホッとした。
もしも今ここでオメガ襟を外したら、首元から出るオメガのフェロモンで、ルードヴィッヒにどんな迷惑をかけてしまうかわからないではないか。
濡れた服を脱ぐと、ルードヴィッヒの漆黒のマントをギュッと体に巻きつけた。
だけどあまりにも体が冷えているせいだろうか、冷たい体は暖かくならない。震えも止まらない。
——さ、寒い⋯⋯。
足がガタガタと震えて立っていられないほどだ。
「アレクシア、大丈夫か?」
ルードヴィッヒの手が力強く支えてくれた。
「⋯⋯す、すいません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑でない。だが、このままではだめだ」
と言うと、ルードヴィッヒがいきなりアレクシアのマントを剥がしたではないか!
下にはなにも着ていないのに! 裸なのに!!
「え? ——ええっ!」
ものすごく驚いた。だけど声を上げる間すらないほど素早く、裸の体はルードヴィッヒの腕の中にすっぽりと抱きしめられた。
「——無礼をはたらいてすまない。だが、これが最善の方法だ」
ルードヴィッヒはひらりとマントを広げると、自分の体と裸のアレクシアの体を一緒に包みこんだ。
がっしりとした胸にぴったりとくっついて、分厚いマントに包まれる⋯⋯。
氷のように冷たかった体が暖かくなっていく⋯⋯。
「この方法しか思いつかなかった——。すまない」
耳元で、心からもうしわけなさそうな声が謝った。
「いいえ、⋯⋯あの、僕のほうこそすみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって⋯⋯」
ルードヴィッヒは服を着ているが、アレクシアは裸だ。その裸の胸に、腰に、下腹に、ルードヴィッヒの鍛えた筋肉のがっしりとした感触を、はっきりと感じる⋯⋯。
——う、うわっ⋯⋯。なんてすごい体をしていらっしゃるんだろう⋯⋯。それになんだか、とてもいい香りがする。
深い森の中にいるような静かな香りだった。ルードヴィッヒの使っているコロンだろうか?
——いい香りだなあ⋯⋯。
雪まじりの風はますます強くなって耳元に風が吹く音がビュービューと聞こえるほどだ。
だけどもう、少しも寒くはなかった。
——とても暖かい⋯⋯。
ルードヴィッヒが抱きしめてくれているからだ。
震えも止まった。すると急に今の状況がものすごく恥ずかしくなってきた。
——どうしよう、僕、裸だ⋯⋯。
ドキドキと鳴る胸の鼓動が聞こえていないだろうか?
——あれ? 僕の乳首が変だ? なんだかチクチクするような⋯⋯。
アレクシアはまだオメガの発情を経験したことはなかった。性愛についての知識もあまりない。それでもオメガの発情については知っていた。
発情とは、アルファと番って妊娠するために、オメガの体が変化していくことだ。
——どうしよう! ルードヴィッヒさまはただ暖めてくださっているだけなのに、僕の体が発情したら大変だ! ルードヴィッヒさまにご迷惑をかけてしまう。
ルードヴィッヒから少し体を離そうと思って後ろに下がった。するとマントがつるりと肩から滑り落ちてしまいそうになったではないか!
「あっ!」
マントが腰まで落ちた。裸の胸が丸見えだ。
慌ててマントを持ち上げようと頑張るがうまくいかない。
「すいません!」
「動くな——」
ルードヴィッヒがすぐにマントを引き上げてくれる。
「ありがとうございます⋯⋯」
ふたりはまた、ひとつマントの中でピッタリと体を寄せ合った。
「寒いか?」
「いいえ、もう大丈夫です」
「では、行こう——」
ルードヴィッヒはするりとマントから出た。アレクシアひとりをしっかりとマントに包み込み、そのあいだも絶対にアレクシアの裸体を見ないようにしてくれる。とても紳士的だ⋯⋯。
「すぐに戻る。待っていてくれ」
木々の奥に消え、戻ってきたときには白馬を連れていた。
ルードヴィッヒの手を借りて白馬に乗る。ルードヴィッヒはひらりとアレクシアの後ろに飛び乗った。
逞しい腕がマントごとしっかりと体を支えてくれた。
「では、帰ろう」
「はい⋯⋯」
白馬に乗り、雪降る白い風景の中を城に向かいながら、アレクシアは思った。
——ルードヴィッヒさまは、どうしてここにいらっしゃったのだろう?
と⋯⋯。
「まずは雑草と枯れたハーブを抜かないといけないな」
かなりの大仕事になりそうだった。だけど気持ちはワクワクしてとても明るい。
「あれ?」
薬草園に着くと驚いて立ち止まった。
雑草も枯れたハーブもきれいになくなっている。いったいだれがしてくれたのだろうか?
土はきれいに耕されている。あとは種を植えるだけになっている。その種も、きっちりと分類された状態で畑の横に並べてある。
たっぷりと水が入った樽までいくつも用意されていた。
「ルードヴィッヒさまが手配してくださったんだ⋯⋯」
きっと気をつかってくださったのだろう。
お世話になったお礼にどんな力仕事もするつもりだったのに⋯⋯。
「ほんとうになんてお優しいんだろう」
感謝していると、頭の中にルードヴィッヒの姿が浮かんだ。
まぶしいほど輝く金色の髪に、コバルトブルーの高貴な瞳⋯⋯。
あまりに整いすぎているので人間離れして冷たく見える。けれど笑顔になった瞬間に信じられないほど優しく暖かい表情に変わるのだ⋯⋯。
「かっこいいなあ⋯⋯」
自分でもびっくりするぐらい大きくて甘いため息をついてしまった。
「あれ? 僕はどうしたんだろう? ルードヴィッヒさまのことを思うと、胸の奥が変な感じになってしまうけど⋯⋯?」
自分の心がよくわからない。こんなにだれかのことを考えてしまうことは今まで一度もなかった。
「だめだ、だめだ、ぼんやりしていては! 辺境伯さまのお役に立てるように働かないと」
自分に喝を入れて、白いエプロンをキュッと腰に巻く。カールが用意してくれたエプロンだ。
カールは、「仕事が終わったら薬草園にすぐに行きますね!」と言って、このエプロンをくれたのだ。ポケットがたくさんついたとても機能的なエプロンだ。
「雪が降るとしたら、パセリやチャービルを選んだほうがいいかな? そうだ、カモミールも秋から冬にかけて育てるのに適したハーブだったな」
何種類かの種を選んで苗床に蒔いた。水をたっぷり与える。
「もしも雪が降ったら土をおおう藁が必要だな。⋯⋯そういえば、きのう歩いていた途中の小川沿いにローズマリーを見かけたけど⋯⋯」
ローズマリーは、枝を切ってその枝から増やすことができるハーブ。種子から育てるよりずっと速く大きくなる。
ローズマリーを油に入れてエキスを取れば、万病に効くポーションを作ることができるだろう。
「そうだ! 小川まで行って少し切り取ってこよう」
エプロンを外して丁寧にたたみ種の袋の上に置いた。そして城を出た。
「あ、雪だ——」
城を出てしばらく歩くと真っ白な粉雪がハラハラと降ってきた。カールが言ったとおりだ。
「積もるのかな? もしも積もるようだったら、帰ったら種を巻いた苗床の上にすぐに藁を広げて寒くないようにしてあげないと」
冬の季節の種の成長に必要な仕事を、あれこれと考えながら道を歩いていく。
目的地はきのう道を間違って戦場に入り込んでしまったあたりだった。かなり歩かないといけないが、薬草園を立派にしたいという強い思いで、まったく苦にならない。
「急ごう!」
途中で小走りになったぐらい元気いっぱいだった。
「カモミールもはやく大きくなるといいなあ⋯⋯。カモミールを煎じたら風邪に効くポーションができる。あ、そうだ! フェンネルも育てよう。フェンネルは腹痛に効くし、赤ちゃんの夜泣きにも効果があるんだった。⋯⋯そしてすべてのポーションに、聖女の祈りを込めてみよう」
セント・リリィ修道院のポーションにはオメガ聖女たちの祈りが込めてある。
だから効果が大きいのだ。
大聖女が中心になって他の聖女たちの祈りの力をまとめ、それをポーションに込めるという方法だ。
「大聖女さまはいらっしゃらないし、僕一人でできるかわからないけど、やるだけやってみよう。もしかしたら大した効果はないかもしれない。それでも少しでも役に立てるように心から祈ろう」
たくさんの人々を癒せたら、こんなに幸せなことはないではないか——。
「がんばってみよう!」
心の中がどんどん明るくなっていく。
ルードヴィッヒの城に来てから、今まで感じたことのないキラキラと輝くような気持ちが胸に湧き上がるようになっていた。
セント・リリィ修道院では、寂しくて、暗くて、悲しいばかりだったのだ。
だけど今は違う。楽しいし、嬉しいし、元気いっぱいだ。
心の中が変わると体も変わるのだろうか? 赤い唇の端がキュッと上がって笑顔になるし、足取りも軽やかだ。
のろまな亀——と言われた姿はどこにもない。
——もしかしたら、生まれ変わるってこんな感じかな?
やわらかい雪がゆっくりと降ってくる道を、銀色の長い髪をなびかせて走っていく。紫色の瞳は楽しげに輝いている。
その時——。
「あれ?」
ふと、背中にとっても強い視線を感じた。
だれかに見つめられているような気がする⋯⋯。
「あのお⋯⋯、だれか、いるんですか?」
立ち止まってキョロキョロと見回すが、だれの姿も見えない。
「変だなあ⋯⋯。気のせいかな?」
首をかしげながらまた歩きだし、やっと目的の小川についた。
小川のふちにはたくさんの野生のローズマリーが生えている。
川の流れのすぐそばに生えているので、気をつけて取らないと小川に落ちてしまいそうだ。
「これなら挿し木にぴったりだ」
用心しながらローズマリーの小枝に手を伸ばした——その瞬間に、つるりと滑ってしまったではないか!
「あっ!」
声を上げながら、川の中に落ちてしまった!
——流される!
川の流れはすごく速かった。このままではどんどん下流に流されてしまうだろう。アレクシアは泳げない。もうだめだ——と覚悟した。
が——、
「アレクシア!」
声が聞こえたと同時に、がっしりとした腕が伸びてきて、だれかが川の中から引き上げてくれた。
「怪我はないか?」
「⋯⋯ルードヴィッヒさま?」
助けてくれたのはルードヴィッヒだった。
ルードヴィッヒは怖いぐらい真剣な表情をしている。
「痛いところはないか?」
「は、はい⋯⋯。大丈夫です」
「ほんとうに? 足を折ってはいないか? 動くか?」
「は、はい⋯⋯。動きます⋯⋯」
川に落ちたアレクシアよりも、ルードヴィッヒの方が慌てふためいているようだ。
——ルードヴィッヒさま、どうなさったんだろう?
と、こっちが驚いてしまうほどだ。
「あの⋯⋯、ほんとうに大丈夫です」
「ならばよかった——」
ルードヴィッヒは大きく安堵の息を吐いた。
今やふたりの距離はものすごく近い。ルードヴィッヒが大きな胸の中に強く抱きしめ、ギュッと力を込めたまま離してくれないのだ。
どちらかがほんの少し動けば、ふたりの唇は重なるかもしれない⋯⋯。
「ルードヴィッヒさま⋯⋯」
「アレクシア⋯⋯」
雪が、降る—。
時が止まってしまったような、そんな時間が過ぎていく。
「ルードヴィッヒさま⋯⋯」
「アレクシア⋯⋯」
たがいに名前を呼んだとき、急に風が強く吹き始めた。雪が激しさをまして、あっというまに吹雪になった。
——寒いっ!
頭の先から足の先までぐっしょりと濡れていた。華奢な体に氷のように冷たい雪混じりの風があたり、どんどん体温が低下しているのだ。
体がガタガタと大きく震えだす。
「アレクシア!」
ルードヴィッヒが漆黒のマントをサッと脱いで、震える体をマントでおおってくれた。
マントはしっかりとした生地で分厚い。けれども濡れた体を吹雪から守るにはじゅうぶんではなかった。
「大丈夫か?」
「⋯⋯さ、寒いです」
だんだんと手足の感覚がなくなっていく。頭もぼんやりとしてきた。
「このままでは危ない。濡れた服を脱ぐんだ」
「えっ?」
——服を脱ぐ?
ここで? ルードヴィッヒさまの目の前で?
そんなこと絶対にできるはずがない。ものすごく戸惑った。だけどこのまま体温を奪われてしまえば、最悪、凍死してしまうだろう⋯⋯。
「さあ、急いで、アレクシア!」
ルードヴィッヒは自分のマントを渡すと、背中をむけてくれた。
「は、はい⋯⋯」
急いで濡れた服を脱いだ。オメガ襟だけはなんとか濡れずにすんでいる。
——よかった。
ガタガタと震えながらオメガ襟が濡れなかったことにホッとした。
もしも今ここでオメガ襟を外したら、首元から出るオメガのフェロモンで、ルードヴィッヒにどんな迷惑をかけてしまうかわからないではないか。
濡れた服を脱ぐと、ルードヴィッヒの漆黒のマントをギュッと体に巻きつけた。
だけどあまりにも体が冷えているせいだろうか、冷たい体は暖かくならない。震えも止まらない。
——さ、寒い⋯⋯。
足がガタガタと震えて立っていられないほどだ。
「アレクシア、大丈夫か?」
ルードヴィッヒの手が力強く支えてくれた。
「⋯⋯す、すいません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑でない。だが、このままではだめだ」
と言うと、ルードヴィッヒがいきなりアレクシアのマントを剥がしたではないか!
下にはなにも着ていないのに! 裸なのに!!
「え? ——ええっ!」
ものすごく驚いた。だけど声を上げる間すらないほど素早く、裸の体はルードヴィッヒの腕の中にすっぽりと抱きしめられた。
「——無礼をはたらいてすまない。だが、これが最善の方法だ」
ルードヴィッヒはひらりとマントを広げると、自分の体と裸のアレクシアの体を一緒に包みこんだ。
がっしりとした胸にぴったりとくっついて、分厚いマントに包まれる⋯⋯。
氷のように冷たかった体が暖かくなっていく⋯⋯。
「この方法しか思いつかなかった——。すまない」
耳元で、心からもうしわけなさそうな声が謝った。
「いいえ、⋯⋯あの、僕のほうこそすみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって⋯⋯」
ルードヴィッヒは服を着ているが、アレクシアは裸だ。その裸の胸に、腰に、下腹に、ルードヴィッヒの鍛えた筋肉のがっしりとした感触を、はっきりと感じる⋯⋯。
——う、うわっ⋯⋯。なんてすごい体をしていらっしゃるんだろう⋯⋯。それになんだか、とてもいい香りがする。
深い森の中にいるような静かな香りだった。ルードヴィッヒの使っているコロンだろうか?
——いい香りだなあ⋯⋯。
雪まじりの風はますます強くなって耳元に風が吹く音がビュービューと聞こえるほどだ。
だけどもう、少しも寒くはなかった。
——とても暖かい⋯⋯。
ルードヴィッヒが抱きしめてくれているからだ。
震えも止まった。すると急に今の状況がものすごく恥ずかしくなってきた。
——どうしよう、僕、裸だ⋯⋯。
ドキドキと鳴る胸の鼓動が聞こえていないだろうか?
——あれ? 僕の乳首が変だ? なんだかチクチクするような⋯⋯。
アレクシアはまだオメガの発情を経験したことはなかった。性愛についての知識もあまりない。それでもオメガの発情については知っていた。
発情とは、アルファと番って妊娠するために、オメガの体が変化していくことだ。
——どうしよう! ルードヴィッヒさまはただ暖めてくださっているだけなのに、僕の体が発情したら大変だ! ルードヴィッヒさまにご迷惑をかけてしまう。
ルードヴィッヒから少し体を離そうと思って後ろに下がった。するとマントがつるりと肩から滑り落ちてしまいそうになったではないか!
「あっ!」
マントが腰まで落ちた。裸の胸が丸見えだ。
慌ててマントを持ち上げようと頑張るがうまくいかない。
「すいません!」
「動くな——」
ルードヴィッヒがすぐにマントを引き上げてくれる。
「ありがとうございます⋯⋯」
ふたりはまた、ひとつマントの中でピッタリと体を寄せ合った。
「寒いか?」
「いいえ、もう大丈夫です」
「では、行こう——」
ルードヴィッヒはするりとマントから出た。アレクシアひとりをしっかりとマントに包み込み、そのあいだも絶対にアレクシアの裸体を見ないようにしてくれる。とても紳士的だ⋯⋯。
「すぐに戻る。待っていてくれ」
木々の奥に消え、戻ってきたときには白馬を連れていた。
ルードヴィッヒの手を借りて白馬に乗る。ルードヴィッヒはひらりとアレクシアの後ろに飛び乗った。
逞しい腕がマントごとしっかりと体を支えてくれた。
「では、帰ろう」
「はい⋯⋯」
白馬に乗り、雪降る白い風景の中を城に向かいながら、アレクシアは思った。
——ルードヴィッヒさまは、どうしてここにいらっしゃったのだろう?
と⋯⋯。
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