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本編

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 その日の夜に外を歩いたのは、大した意図があるわけではなかった。普通以上の生活の中で滲み出てくる孤独感を、いつも通りまき散らしに行った。ただそれだけだった。

 しばらく、家の周りの道を無言で歩いた。スマホも、財布も、夜道だというのに懐中電灯も持っていない。他者から見れば異様だろうが、僕にとってはある意味日常だった。

 毎日ちゃんとしたものを食べられて、ちゃんとした教育を受けられて。そんな日常が幸せだと教えられてきた。その教えを素直に受け取る周りの人間が、僕にはとても眩しく、そして羨む存在だった。そして、そんな羨望が醜く思えて、その意識が僕の胸を押しつぶしていた。

 チクリと痛みが走ったような気がして、胸を押さえた。

 結局僕は自身が求める幸福がどんなものか、どんな形をして、何が必要なのか、わからないままでいる。あるはずがないとわかっていても、僕は夜道を探し歩いていた。

 そろそろ、夏になる、中途半端な季節。日中の日差しは熱く、羽虫が増え始め、学生は浮かれ始める。一応、僕も高校生という肩書を持ってはいた。けれど、正直僕はそれが鬱陶しかった。肩書きでほとんどが決まる。個人の意思は目立たなければ見てもらえない。そんな世界が僕は嫌いだった。

 昼時まで弱い雨が降っていたせいか、ゆるく吹く風が少々冷たい。とはいえど、天気雨だったので、夏を気取った日差しは白昼堂々と僕の皮膚を突き刺していた。それによる火照りの残滓が未だ残っていたため、冷たい風はむしろ心地が良かった。

 それによって気を緩めて歩いていた僕の視界に、なんの変哲もない道端のブロック塀に腰かけている人影が写りこむ。思わず僕は表情を硬くして、その人影を凝視した。

 今夜はうっすらと曇っているため、月明かりは頼りにならず、その人はほとんど暗闇と見分けがつかなかった。けれど、髪の長さから見て、女性であることだけはわかる。

 ブロック塀に腰かけ、空を見上げる彼女は、一言でいうと綺麗だった。けれども僕は、その感想に少しの違和感を抱いた。そしてしばらくして、その違和感の正体に気が付いた。

 彼女は、綺麗だ。そんな感想を抱いたというのに、彼女がどんな顔立ちをして、どんな表情をして、どんな感情を表しているのか、まったくわからない。

 その日の月は、うっすらと雲がかかっていた。これを朧月と呼ぶのかもしれないが、僕には朧気に見えるというよりかは、濁って見えた。

 そんな光に照らされている彼女を、僕は素直に綺麗だと思った。けれども、その光は彼女を照らしても、灯りにはなりはしない。

 僕がしばらくぼうっと立って彼女を見つめていると、彼女のほうが僕のことに気が付いた。彼女は驚いたように僕を凝視し、しばらくしてから僕に話しかけた。

「……少年、君の見た目からして今は出歩いていい時間ではないはずだが?」

 彼女の口調は、どこか仰々しく、わずかに傲慢さを滲ませて、そしてなんとなく、作り物めいたように僕は感じた。彼女は軽く息を吐いて続ける。

「まあ、いいさ。君のような年頃だと、こんな夜に意味もなく歩いてでも、悩みたいことがあるのだろうな」

 彼女は、やはり傲慢だった。けれど、理解を示されることは、僕は全く予想していなかった。僕の中での大人というものは、傲慢で、利己的で、排他的な存在だ。そんな偏見を裏切って肯定を示した彼女に、僕は少し興味がわいて話しかけた。

「あなたこそ、ここで何を?」

「私がここで何をしていようと、私の勝手だろう。だが、別段隠し通す必要のあることではない。ただ月を眺めていただけさ」

「月、ですか……」

 僕がなんとも言えないふうに感想を返すと、彼女は空を見上げ、言葉をつづけた。

「今日は、雲が薄いだろう? 今日のような月が、私は好きなんだ」

 なんの感情も込めないままに、彼女はそう語った。

「太陽の光を反射して輝いている月が、今夜ばかりは地上を照らせないほどまでに弱々しくなる。まるで私のようで、なんとなく好きなんだよ」

 そういうと、彼女はふはっと少しの自嘲を混ぜて笑う。僕には、彼女の自嘲にどこか諦めの感情が含まれているように感じた。

「どうだい、少年。君は、とにかく輝く太陽が好きかい。いいねぇ、若いうちはそれもいい。徐々に歳をとって光を失っても、十分に輝けるだろうさ」

 しかし僕は軽く頭を横に振る。彼女は、見えない世界の中、そんな僕の仕草が見えたように続ける。

「そうかい。まぁ、君のその雰囲気を感じれば察しはついた……君は、寂しいのか?」

 僕の心の痛みを見透かしたように、彼女の問いは一つだけだった。

 僕を押しつぶしているこの胸の痛みを、重みを簡単に『寂しい』の一言で表現した彼女に軽く苛立ち、けれども結局うまい言葉は浮かんでこなかった。

「僕、は……」

 しばらく声を出していなかったせいか、声がかすれた。けれども、それがなくてもちゃんとした答えは返せなかっただろう。

「別にいいだろうさ。寂しくて、誰かに愛されたい、そんな願いは誰だって持っている。再度言うが、私は月、とりわけ今日のような月が好きだ。誰かの輝きを利用しないと存在を観測すらされない。そして、そこまでして必死に輝いているのに、存在を示す相手であるはずの地球の雲によってほとんど光を遮られるんだ。こんな不憫な存在を見ると、私の不運など小さく見えてしまうんだよ。少年。君はこの月のように、この私のように、濁ったままがいいのかい」

 僕は静かに否定する。なんとなく、だけど必ず、否定しなければいけない気がした。

「曇りを通して見る世界も案外いいものだよ、それでもかい」

「……はい」

「では、こんな場所で迷っているんじゃないよ。今、君は月なんだ。君が求める太陽は、君を見てくれるかもしれない地球よりも、遥かに遠いよ。こんな場所にいては、間に合わないだろう?」

 なんとも壮大な喩えに、この人らしいと思った。この人のことは、何も知らない。けれども、僕はその考えを撤回しなかった。

 その日から僕は、同じような月を見て彼女を思い出すと、たまにあのブロック塀の近くを歩くようになった。けれども、それから二度と、彼女と出会うことはできなかった。



『君が太陽として輝く時を、私はここで待つことにするよ』

 彼女が別れ際に僕に向かって言った言葉を思い出す。彼女と出会うことは恐らくもうないだろう。

 でも。だからこそ、だろうか。

 彼女が太陽として輝いて、笑って、幸せだよと言葉を紡げる世界を、今日の僕は心のどこかで望んでしまっている。顔もわからない彼女の、あの笑いに混ぜられた自嘲を、何処か未だに僕は許せないでいるのだ。

 結局僕は、月を眺めている。

 心の中でそう唱え、皺の混じった笑みを浮かべ、空に向かってシャッターを切る。

 今日の月は、どこかあの日の月に似ていて、そして全く違って。

 月に、薄い雲がかかっている。けれども、濁ったようには見えず、温かく、美しい。



『ただ、太陽というものは残虐だ。焼け落ちてしまうのが怖ければ、今ここで、月を眺めるのがいい。月は冷たく、尚且つ温かい太陽の存在を示す。少し冷えた世界で、少し冷えた月光を浴びるのは、中々の幸せではないかな?』



 彼女は、今も未だ月だろうか。彼女の存在がどれだけ僕に温もりを与えてきたか。そのことに、たった今、気が付いた。
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