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Act 1 大事な恋の壊し方(本編)
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しおりを挟むカフェに寄った翌々日の夜。
課題に取り組むオレの傍らで、スマートフォンの画面が点灯した。
メッセージアプリの通知を見ればそれは智実からで、オレの口元は自然と緩む。
『りっちゃん。今週か来週の週末の予定、空いてるかな?』
『一緒に行って欲しい場所があるの』
続いて送られてきたURLをクリックすれば、近くの美術館で催される展覧会の案内ページが表示される。
――某国の有名美術館が所有する西洋絵画コレクションから、厳選した作品を紹介する展覧会らしい。名画を巡りながら、西洋絵画史の流れを辿っていこうというもの。
智実はこういう美術館巡りが好きなのだ。
だから付き合う前から何度も美術館デートには行っているし、比較的アクセスの良い場所にあるこの美術館は今までにも複数回、足を運んだことがある。
絵画なんて、以前は興味のかけらもなかった。しかし智実の熱い解説に耳を傾けるうちにオレの意識も変わっていった。
一枚の紙の上に散りばめられた絵の具の造形の、その向こう側。
筆の辿った跡、色彩や技法、人物の表情や時代背景、作者の立場や年齢、隠されたメッセージなど……その一枚を生み出したあらゆるものを想像しながら、手掛けた制作者の心情にまでアプローチしていく。
意識が向かうようになると、奥深い世界だ。
なによりもあの美術館という空間がオレは好きだった。
場を満たす静寂が心地よくて、作品世界に魅了されて佇む智実もまた神秘的で言い尽くせないほど美しい。胸の中の額縁に永遠に飾っておきたいと願うほど、彼女の日常を切り取った一場面こそがオレにとっては至上の芸術品に違いなかった。
智実の誘いに、オレは二つ返事で了承した。
幸いどちらの週末も日中は空いている。
智実との穏やかなデートを重ねるたびに、オレの中のぐちゃぐちゃに壊されていた部分が修復されていくような感覚があった。
もうしばらくは、こういう純粋無垢な時間を楽しみたかった。
肌を重ねることが……怖いわけでは、決してなくて。
ただ純粋に、智実が心から楽しめる時間をふたりで共有していたいのだ。
……だけど、そう。この胸の内側に邪な願いがあることは否定しない。
恋人らしい穏やかな時の流れにこの身を委ねて、あわよくばもう一度、正しい世界を骨の髄まで染み込ませることができたなら――。
◇
レストラン、おしゃれ、記念日、イタリアン……。
「真野ちゃん、なにしてるのん」
「んー、店を調べてる」
「なんで?」
「彼女と行きたいから。もうすぐ記念日なんだ。どこか雰囲気の良い店知ってる?」
昼食を食べ終えて、スマートフォンと睨めっこをはじめたオレに、横から声がかかった。
しかし声をかけてきた隣の男はそれきり妙な顔をしているし、ほかの友人たちもはっきりとしない顔色のまま途端に黙り込んでしまう。
「……え、なに?」
「いや、うん。真野ちゃんと智実ちゃんが問題ないなら、俺らもいいんだけどさ」
「問題? 何もないと思うけど。なんで?」
「あー、うん。何もないならいい、いい。あやしい噂をちょっと耳にしたからさ、勝手に心配してただけ」
「……噂?」
引っかかったけど、それきり皆が誤魔化そうとするから聞けなくなった。
仲良くなーとか、やっぱ嘘かよとか、まぁ真野だもんな、とか。
気にするなよと苦く笑うその言葉の背景がものすごく気になったけれど、そろそろ移動しようかと誰かが言い出して、話が流されてしまう。
空の食器をのせたトレーを片手に食堂を歩きだすと、すれ違いざまに見知らぬ相手から好奇の視線を向けられて。
心なしか、ここ数日こういった不快な視線を感じることが増えたような気がしていた。
(噂、か。あとで誰かにもう一度聞いてみよ)
嫌なものが背筋に触れた気がしたけれど、オレは素知らぬふりをして友人たちの後を追いかけた。
◇
土曜日。智実との約束の日。
例の美術館前の庭園にある、不可思議なモニュメントの傍で待ち合わせをしていた。
庭園の中央にある池には噴水があり、普段ならば盛大な水しぶきを上げているはずだが、今日は水が止められていた。
冬期になると池の水も抜かれてしまうようで、池の底に敷き詰められている丸い石がむき出しになっており、どこか物寂しい雰囲気がある。
この美術館に来るときはいつもなら最寄り駅で待ち合わせをするのだが、今日は智実のほうに用事があるとかで、珍しく現地集合となっている。
風は冷たいものの、広い庭園に遊びに来ている親子連れも少なくない。きゃっきゃと楽しそうに走り回る元気な幼子たちを遠目に眺めつつ、オレはふるりと身震いをしてコートのポケットに手を突っ込んだ。
日差しはあるが、太陽が雲に隠れると途端に寒さが身に染みるようだった。
十分くらい、そうして立っていただろうか。
待ち合わせ時間の数分前に到着したバスに視線をやれば、愛しの彼女が姿をみせた。ところがバスから降りてきた智実は、何故か隣に千華ちゃんを伴っている。
首を傾げつつも二人のほうへ向かうと、歩み寄るなり、女神に手をあわせて謝られた。
「りっちゃん、ごめんね!」
「え、どうしたの? 今日は千華ちゃんも一緒にまわるの?」
なら先に言ってくれれば良かったのに、とオレが言うと二人の顔が曇る。
「千華が、最近瀬川さんとうまくいってないみたいで……どうしても直接話をする機会をつくりたくて。瀬川さんが、りっちゃんも同席するなら時間をつくっても良いって言ったみたいで、その……」
「え……?」
言葉の咀嚼を脳が拒んだ。
つまり、千華ちゃんと瀬川さんを会わせるために、オレを今日呼び出した……と、いうこと?
ことの次第を理解して、くらりと目眩に襲われた。
オレの顔色は明らかに悪くなっていたんだろう。
智実に続いて、千華ちゃんも勢いよく頭を下げてくる。もしかしたら智実から、オレと瀬川さんの微妙な関係を聞いているのかもしれなかった。
ここ最近憔悴しきっていたらしい千華ちゃんこそ、よくよく観察すれば頬が少し痩せ、可愛らしいアイメイクが施された目元にはうっすらと隈があった。
泣きそうな顔で必死になっている彼女を見れば、相手が瀬川さんじゃなければ、もちろんオレだって力になってあげたかった。
――だけど、あの男はマズい。
瀬川さんとも現地集合らしいが、彼はまだ来ていないようだった。……まだ、間に合うだろうか。
「いや……あの。本当に悪いんだけどさ、」
「あっ、あそこに悠一郎さんが! 本当に来てくれた……!」
オレが絞り出したか細い声は、千華ちゃんの感極まった声に掻き消される。
遠くからでも一目でわかった。オーラ漂う人影がこちらへと向かって歩いてくる。
今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべて彼の姿を一心に見つめる千華ちゃんを前に、オレは逃げるタイミングを失ってしまった。
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