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Act 1 大事な恋の壊し方(本編)
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目が覚めたのは、――否、少しの仮眠を経てオレが正気に戻ったのは、もうとっくに朝とも昼とも呼び難い時間帯だった。
身体を起こそうとして、それができないことにまず気付いて。自然光が注ぐ見慣れぬ部屋で悪夢が消えていないことを認識して、絶望に突き落とされたような気持ちになる。
怠く重すぎる下半身と、節々の痛み。泣き散らかした瞼は重いし、尻の奥にはまだ何かを咥え込んでいるかのような感覚が残っていた。気合を入れて起き上がろうとしても力が入らず、なかなかベッドから下りることも難しい。
寝ている間に清潔に整えられていたベッドの上で、オレは途方に暮れた。
オレをベッドに縛りつける枷は、まだ右の手首にだけ残っていて。
ろくに動けもしない身体に苦戦していると、手を差し伸べてくれたのは、他でもない――瀬川さんだった。
警戒するオレに対して、あくまでも自然な態度で、男は意外にも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
瞼を冷やす氷をくれて、ちょっと掠れた声で話しかければすぐに冷えたミネラルウォーターを持ってきてくれたり、腹の虫が鳴けば豪勢な弁当をぽんとデリバリーしてくれて。正直、いまいち食欲はなかったのだが、食べずにいれば食事の手伝いまでされそうな雰囲気だったから、無理矢理食べた。
おまけに、瀬川さんは当然のように、嫌がるオレの尻に薬まで塗り込めて下さって……過剰な親切にはオレのほうが辟易した。
そうしている最中も植え付けられた恐怖心が消えることはなかったのだけれど、今いる部屋は彼が一人暮らしをしているマンションの一室らしく、他に頼れる相手も、助けを求められる方法もなかったのだ。
帰りたい、と恐る恐る告げてみれば、彼はちょっと渋ったけれども引き留めはされなかった。
昨夜とは違い、すんなりと腕の拘束を外してくれる。
――目が覚めてから接する彼は、今まで通りの、ちょっと強引だけど穏やかな瀬川さんに戻っていた。
そのあとは、洗濯が終わっていないからと新品のブランド物の服を出して着させてくれて(何故かサイズがぴったりだった)、横抱きにされて駐車場まで向かい、高級外車に乗せられて。そのまま瀬川さんの運転でオレの最寄り駅まで送られるという謎の大サービスぶりだ。
泊めた相手にいつもこんなことをしているんならモテるはずだと思った。
もともと彼は、女性の扱いやエスコートは上手いのだ。……昨夜のように恐ろしい本性さえ出さなければ、いや、少しくらい本性を出したとしてもコロっといく輩はきっと何人もいるんだろう。
「本当に駅でいいの?」
アパートまで直接送ってくれるという瀬川さんの申し出を必死で固辞するオレに、黒縁の眼鏡を掛けた色男は正面を見つめたまま、ちょっと苦笑する。
左ハンドルの車なんて、生まれて初めての経験だった。こんな状況だが、乗り心地は至極快適で。
マセラティの高級車が嫌味なほど似合う涼やかな横顔をぐったりと見遣りながら、甘い夢に浮かれる女の子たちの気持ちが少しだけ分かるような気がした。……ほんとに、少しだけども。
見慣れた駅のロータリーに車が静かに滑り込む。
降車したらすぐにでもお巡りさんに縋りたいだなんて本音は間違っても言えないが、引き攣りそうになる表情筋を叱咤して笑顔をつくり、一応お礼を口にする。ここまできて、彼を刺激するわけにもいかない。
さっきから平静を保ってみせてはいるけれど、オレもこの身体も、昨日の悪夢を忘れておらず、強張った心身の緊張が解けることは決してない。
――とにかく早く、一秒でも早く、この車から離れたくてたまらなかった。
「身体も辛いのだし、ゆっくりしていってくれれば良かったのに。ああ、名残惜しいな。今度はいつ会ってくれる? ねえ律?」
たぶん、オレと瀬川さんでは共有している現実は同じでも、見えている世界が違うのだ。ハンドルに軽くもたれ掛かり、オレの名を呼ぶ声はやけに甘い。
昨夜自分がオレに何をしたのかまるっとド忘れしているんだろうか。……いや、いっそ別人なのか?
車を降りたら一目散に交番に駆け込んで、紳士の皮を被ったこの悪魔を警察に突き出してやろうと心に決めているのに、こんな砂糖をまぶしたような雰囲気を演出されてもただただ怖い。
それでも今はまだ本心を見抜かれるわけにもいかないくて、オレは頑張って愛想笑いをお返しした。
また予定を確認しますね、と濁して車のドアノブに手をかける。
――正直、もう二度と会いたくない。
そそくさと逃げるように降車しようとしたが、腕を掴まれ、瀬川さんにゆるりと肩を寄せられて。
無視してドアノブを引いてみたものの、ドアはピクリとも動かなかった。
「……ねえ、律。降りる前にこれを見てくれない?」
促されるまま、嫌々だったけれど瀬川さんの手元にある彼のスマートフォンの画面に視線をやって――固まった。
映像と共に音声が流れだす。そこには全裸のオレがあられもない姿で乱れる様が映っていた。
『あっ、あっ、気持ちい……んっ! 瀬川さ、もっと、もっと気持ちよくしてっ、あっ、それ好き…ッ……』
「!? ちょ、な………っ!」
慌ててスマホを奪って停止ボタンを強打した。心臓がバクバクと破裂しそうなほど暴れまわり、動揺が収まらない。
思わず周囲を見回すが、車の中にいるオレたちの手元を注視するような視線は見当たらない。車高がそれなりにある車種で幸いした。
ひとまず安心したが、オレは奪ったスマートフォンを抱きしめたまま瀬川さんを睨みつけた。
「ふざけるなよ、どういうことだ……!? 今すぐ消してくれ! 勝手にこんなものまで撮るなんて……!」
普通に、犯罪だ。だけど余罪がありまくる瀬川さんには悪びれた様子なんて微塵もなかった。
「それは元データだけど、既にパソコンにもUSBにも保存済み。だから消してもいいよ?」
「そういうことじゃ……!」
「違うの? 全部消したいのなら、律がうちに来て自分で消したらいい。これは俺の宝物だから、俺は自分では消さないよ?」
「な……!?」
オレの手からスマートフォンを取り上げると、瀬川さんはこれ見よがしに画面にキスをしてみせる。
あんな目に遭わされて彼を心底憎んでいたはずなのに、ちょっと優しくされたくらいでオレの警戒心はどこかでつい緩んでいたのかもしれなかった。
とんでもない所業に愕然として言葉も出ない。そんなオレに瀬川さんは容赦なく追い打ちをかけてきた。
「ふふ、大事な浮気の証拠だからね? これを米田さんが見たらどんな反応をするんだろうね……? ああ、それかネットで同類たちに見せびらかしてみようかな」
悪魔としか呼びようがない男が、この上なく楽しそうに微笑んだ。
頭の中は混乱してもう真っ白で、何も考えることができなかった。
とにかくもう、悪魔から離れたくて、もうそれだけしか頭になくて、ギギギと軋む音を出しそうな四肢を無理矢理に動かして洗練された車内から転がり落ちるように脱出した。
「律? また会いに来てくれるの待ってるから」
去り際に、悪魔が言い残す。次なんてないはずだったのに、男のせいで未来に容易く暗雲が立ち込める。
黒光りするSUVが颯爽と去っていくのを呆然と見送って。
そこからオレは痛む身体を引き摺ってどうやって帰ったのか、覚えていない。
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