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しおりを挟む連れてこられたのは建物の最上部にある、九藤が使う特別な執務スペースだった。
プライベートが絡む話だからと九藤は秘書を退室させると、無駄のない動きで鞄を置き、黒いコートを脱ぎ、自らの手でそれをハンガーにかけていく。
香倉がKUTO不動産に入社してから二週間ほど経つが、今日まで九藤とこうして話をする機会はほとんどなかった。
すれ違いざまに二言三言交わすのがせいぜいで、それだって片手で数えるほどだ。
社内における九藤の立ち位置はかなり特殊で、その上彼は多忙を極めている。
高校時代の繋がりや九藤にスカウトされたという事実がなければ声をかけるのも憚られるくらい、雲の上の存在だった。
「うちには慣れたか?」
部屋の入口に近いところで足を止めた香倉へと振り返り、九藤がからりとした笑顔で訊ねてきた。
朝の日差しが差し込む眩しい室内に、バリトンボイスが響く。
「ええ、それなりには。アルファの社員が多いと聞いてはいましたが、予想以上に多くて最初は驚きました。しかも皆さんとても親切で……アルファにしては穏やかな方が多いのだなと」
「うちのアルファは番持ちが多いからな。最愛をつくると大抵のアルファは丸くなる」
ゆるりと腕を組み、九藤は執務机に浅く腰掛けた。
机の上には書類が積み上げられており、ファイルも数冊重ねられている。
「それにヒート休暇があるだろう。福利厚生の一つなんで申請があればなるべく通すが、仕事に支障だけは出さないようにチームワークを大切にするよう徹底させているんだ。案件を一人で抱え込ませることは基本ないし、ベータや独身社員ともフォローしあう関係をつくることで上手くまわしている」
そう言うと、男は「まあ座れよ」と応接スペースを示したが、香倉はこれを遠慮した。
早めに出社しているため時間はあるが、長居するつもりもない。
KUTOはヒート休暇の取得をオメガの番がいるアルファ社員にも認めていて、それを子会社や孫会社にも徹底させている。
アルファ同士の婚姻を重視しない九藤一族らしいこの独自の取り組みにより、KUTOのグループ企業には多くの優秀な番持ちのアルファ社員が集まり、雇用されている。
とりわけ近年の不動産関連事業からもう一歩踏み出した新たな事業への挑戦と躍進は、異業種から転職してきた経験豊かなアルファ社員らが原動力となっているともいわれている。
九藤は何かに気付いたように香倉を見た。
「ああ、ヒート休暇はきちんと籍を入れてからじゃねえと取得できないぞ。事前に申請しておく決まりで必要書類も多い。まずは番を口説き落とすことだな」
「承知しております。しばらくは有給などで対応する予定ですので問題ありません。理解のある社風で助かります」
「そりゃあ良かったよ」
「それで……朝から私を掴まえて特別な話というのは、一体?」
時間も限られるので手短にしてくれ、と暗に仄めかせると九藤はにんまりと口角を引き上げた。……嫌な予感しかしない。
「実はだな、そのヒート休暇やら育児休暇やらが重なって、来週以降、俺の周囲は人手不足なんだよ。というわけで香倉、お前早速ピンチヒッター。明日から一時的に俺の下についてもらう」
「……生憎ですが、私はまだ研修中の身です。あなたの下で力を発揮できるほど、まだ業務内容も掴めておりませんし、周囲からの信用もまだ得られておりません」
「心配しなくてもお前の能力なら難しいことは何もない。引き継ぎやマニュアル作りはきちんとさせるし、俺の指名といえば異論は出ないさ。それに――――大事な大事な番の秘密、お前も知りたいだろう?」
わざとらしい言い方をする九藤に、香倉は眉根を寄せた。
「……どういう意味でしょうか」
胸騒ぎがした。……九藤は何を知っている?
平静を保つつもりでいたのに、「番の秘密」なんていう予想外の単語を出されて、香倉は無意識のうちに威圧フェロモンを出していたらしい。
とはいえ九藤はまったく意に介さない様子で首を振り、「止せよ、無駄だ」と余裕の笑みを浮かべている。格上のアルファに香倉の威圧の効果はない。
「まさか彼に何か……」
「何もしてねえよ。今までもこれからも、お前の番に手を出すつもりは毛頭ない。だが、気になることを耳にしたんで、お前にも伝えておいてやろうかと思ってな。ただの親切さ」
「……?」
「俺とお前を繋いだのは、俺の弟だ。その話は以前してやっただろう?」
九藤の弟…………圭人に「ノゾム」という名前のオメガの友人がいることは知っていたが、そのオメガがこの男の弟だと打ち明けられた時、香倉はひどく驚かされた。
証拠とばかりに兄弟の写真を何枚も見せられて、その「ノゾム」という弟にはどこか見覚えがあることに気が付いて……九藤に詳しく話を聞いてみれば、圭人と出逢ったあの日、圭人と一緒にいたオメガがその「ノゾム」なのだという。
香倉は絶句したし、しばらく頭を抱えた。
居たたまれず、俯いたまま顔を上げられなくなった自分を九藤に散々からかわれた記憶はまだ新しい。
香倉が転職先を探し始めたのと同時期に、旧友経由でタイミングよくコンタクトをとってきた九藤を勘の良い男だと思っていたが、何のことはない。
そもそも最初から九藤は香倉の運命の出逢いを把握していて、香倉が転職に向けて動き出すのを待っていたというだけのことだったのだ。
一癖も二癖もある厄介な美貌の男は、顎に手をあてると、芝居じみた動作で言葉を続けた。
「お前の番がどんな子か気になるんで、昨日も可愛い弟に話を聞いてたんだよ。そしたら弟から思わぬことを聞いたんだ。――知りたいだろう?」
香倉は踵を返した。九藤の掌の上で、これ以上踊らされるつもりはない。
「ご心配をどうも。本人に直接訊いてみますよ」
「訊いたところで正直に答えてもらえるのか? どうせ今週も会えないとか言われたんじゃないのか。……番がお前を避けてる理由、知りたくないか? 俺の口から話すのが一番早いし、何より安全だ。考えなしに恋人に直接会いに行ってみろよ、お前は衝動に負けて彼を襲ってしまうだろう? それで本当にいいのか?」
ぐ、と鞄を持つ手を強く握る。悔しいが、九藤の言うとおりだった。間違っていないぶん、余計に腹立たしい。
ドアノブに手をかけたまま廊下に飛び出すことができない香倉へと、九藤はさらに畳みかけてくる。
「別に俺は難しいことを求めちゃいない。これはただの親切だし、恩を感じてくれるなら仕事で返してくれれば十分だ。ただ……いつまでもベータの巣窟でやってたような感覚では困るんだ。俺はお前の使い方を間違えない。アルファらしい、相応の働きを期待してるんだ」
胡散臭い極上の微笑を浮かべた男はスーツの内ポケットから白い紙きれを取り出すと、応接用のテーブルの上におもむろにそれを置いた。
どうやらそれは名刺らしい。腰を折ったまま視線だけを上げた九藤が笑みを深める。
「これは明日からのお前の働きに対する対価だ。今のお前に最も必要な、信頼できる取引相手を紹介しよう。うちの弟も長いこと世話になっているんで、そこは信用してくれていい」
じりじりと視線をぶつけ合う。
しばらく無言のままやり合ってから、香倉はハァと大きな溜息をついた。
自分は今やこの会社の一社員だ。この男に命令されれば拒否権はない。
無駄に抗うのも馬鹿馬鹿しくなって、腹を括ってテーブルまで歩み寄った。テーブルにあった名刺を手に取り、内容に目を通していく。
……自分の知らない警備会社の名前があった。それもオメガ専門と書かれた連絡先が記載されている。
怒りにも似た衝動が沸きあがり、突き動かされ、香倉は目の前の男に詰め寄った。
「――圭人に何があった? あんたは何を知っているんだ!?」
立場も忘れ、相手に食ってかかった。唯一を定めたアルファの血が騒ぐ。
ほどなくして九藤の口から伝えられた恋人の「秘密」は想定外のもので、香倉は気が狂いそうなほどの激情に飲み込まれ、煩悶した。
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