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 圭人に翻弄されながら半日を耐えきって。
 途中、何度か危ないタイミングもあったけれど、ギリギリのところでやりすごした。

 アルファの衝動には耐えきったものの、やはり痛感したのは、圭人との「今までの付き合い方」が限界を迎えているということだった。
 ――自分の身体の不安がなかったとしても、もうとっくに互いのフェロモンを無視できない状況になってきている。

 恐らく抑制剤に頼ってどうにかなるレベルではない。
 今日だって、互いのフェロモンに影響される自分たちを何度自覚したかわからない。
 
 運命の番という特別な足枷。
 一緒にいれば高確率で発情してしまう。誘いあってしまう。
 そのことを圭人にも知ってほしくて、これ以上はもうアルファの本能に抗うつもりのない自分の気持ちを知ってほしくて。

 冷風が吹き荒ぶ公園のベンチで、情けない自分の過去ごと圭人に全部打ち明けた。
 嘘も背伸びもない、ありのままの自分をさらけ出す。
 容易くアルファの本能に踊らされてしまう格好悪い自分だけれど、圭人がそんな男でも許してくれるというのなら、もっと欲深くこの恋に溺れたい。
 
 香倉の話に静かに耳を傾け、視線を落とし、微かに顔を顰めて感情を揺らしていた恋人の左手の先を、ゆっくりとベンチから掬い上げた。
 細い指先が氷のように冷たい。

 こちらへと振り向いた愛しい彼に、祈るような気持ちで提案した。

「ね、圭人。――お試しのデートは今日で最後にしない?」

「え?」
 
 言い方が悪かったらしい。
 軽く目を見開いた圭人が途端に不安そうな顔をしたので、慌ててそれを否定した。

「番になることを前提に、きみと真剣に付き合いたいんだ。……もっと長い時間、きみと過ごしたいし、可能ならば、これからは互いのフェロモンを気にせず触れ合いたいな。きみの匂いにもっと酔わせてほしいし、アルファとオメガらしく、もっと深い仲にもなりたいとおれは思ってる」
 
 自分が望むこれからの関係性をできるだけ素直に、誤魔化さず、包み隠さずに告白する。

 見つめる先で、圭人はみるみるうちに頬をバラ色にした。
 花開いた蕾が芳しい香りを振りまくように、圭人から甘いフェロモンが漂う。
 そこが人の疎らな公園で良かったと心底思った。
 こんなにも愛らしく魅力的な彼の表情は誰にも見せたくない。自分だけのものにしておきたい。

「……え、っと。嬉しいけど、史仁さんは本当に俺で良いの……?」

 色っぽく潤んだ瞳が香倉から逃げだして、自信なげに揺れた。
 まだ言うか、と呆れが半分。もう半分は、圭人が自分を魅力的に思ってくれているからなんだろうと、ポジティブに受け止めておく。
 
「出逢った瞬間から圭人だけがおれの特別なんだって、さっきも言ったはずだよ?」
 
 軽く握っていた指先を引き寄せて、彼の手の甲に、たまらず口付けた。
 逃げようとせずに、尻込みせずに、その瞳に自分だけをまっすぐ映して欲しかった。
 そのためなら、自分はどんな恥ずかしいセリフだって真面目な顔で口にできてしまう。
 
「――今も、これから先の未来もずっと。おれの心も身体も、きみのものだと誓うよ。どうか信じて。いつかおれを、圭人だけのアルファにしてほしい」
 
 こちらへと向けられた圭人の澄んだ瞳に、愛を乞う男が映りこんでいる。
 風に遊ばれる彼の黒髪。寒さのせいだけでなく色づいた頬も、鼻も。
 愛らしい容姿かたちの内側にいる、優しくて不器用な、無防備なくせに小悪魔的な、やわらかで律儀でマイペースな彼自身も。
 ――今や自分は、圭人のすべてを愛しているのだ。
 
「俺も……史仁さんだけが、特別です」

 甘やかな匂いを纏った運命の彼は、囁くようにそう言うと、熱を帯びた眼差しでふわりと可憐な笑みをこぼした。

 寒空の下、ベンチの周囲だけ、春みたいに幸せな香りが漂っていた。
 胸の中に春を抱いて見つめあい、互いに白い吐息をこぼして笑いあう。
 この瞬間を自分は一生忘れないだろうと予感した。
 

 圭人の反応には明らかな手応えがあった。
 関係を深めていくことに前向きな姿勢を感じられたし、香倉を嫌ったり、警戒したりといったものは一切なく。
 「自分でいいのか」と訊ねてきたあの言葉にさえ、彼の自信のなさにじわりと滲む香倉への好意を感じ取ったくらいで。
 
 だから、香倉としては次のデートか、次の次のデートくらいには、圭人との関係はもっと深まるものだとほぼ確信していた。
 ずっと我慢していたけれど、これでやっと自分のマンションに圭人を招いたり、彼の春休みにあわせて泊まりがけの旅行を提案することもできるだろう、なんて密かに心躍らせていたのだが。
 
 ――まさか、その「次回」が一カ月以上もお預けになるとは、予想だにしていなかった。

 
 §


(やっぱりおかしいよな……)

 通勤途中、香倉は何度も首を傾げていた。
 マンションから新たな職場までは、電車を乗り継ぎ三十分弱。
 つり革を掴み、列車の揺れに身を任せながら、頭の中で昨夜の圭人とのやり取りを何度も思い返していた。
 
 正月のあのデートのあと、最初の週末は香倉のほうが都合がつかず、圭人には会えなかった。
 その翌週は圭人の体調が悪く、再び会うのを見合わせていて。
 
 その時は何の疑問もなかったのだが、今週末についても再び「体調不良で会えません」とメッセージがきて、香倉はちょっとした違和感を抱かずにはいられなかった。
 
 メッセージを受け取った昨夜、香倉はすぐに圭人に電話をかけた。
「体調が悪くて」と言うわりには、スマートフォン越しの圭人の声の調子はいつもとほぼ変わらない印象を受けた。
 そういえば先週も、わかりやすい声の不調や咳きこみ等はなかったことをそこで思い出したのだ。

 ……圭人は「会えない」のではなく、「会いたくない」のではないかと疑念が生じた。
 しかし、そうであるならば今は退く以外の選択肢はないだろうと考えて、一応昨夜は納得したふうを装ったのだが。
 
(理由がわからない)

 心当たりがないというわけではない。
 前回のデートで、自分は圭人に「これからは我慢せず、手を出しますよ」と宣言したようなものだ。
 もしかしたら圭人は、香倉と身体の関係を持つことにまだ躊躇いがあるのかもしれなかった。

 だが、心の準備が必要だというのなら、自分だって今更そこを強行突破しようとは思わない。
 半年間、ここまで我慢し続けてきたのだから、圭人が無理だというのなら彼のペースにとことん付き合おうという心積もりが香倉にはあるし、その覚悟は圭人にも伝わっている……と、思っていたのだけれど。

(やっぱり警戒されているのか? まあ、ヒートのときも襲いかけたわけだし……)
(まさか心変わりじゃないよなぁ)

 想像もしたくない可能性が頭をよぎる。そんなはずはない、と何度それを否定してもキリがなかった。
 今はもう、首輪のマスターキーだって圭人に渡してしまっているのだ。
 彼を信じたい。あの日の圭人の言動には嘘があるように思えなかった。……ならば何故?
 
 不安に苛まれているうちに、列車が目的の駅に到着した。
 あの日、圭人が香倉のために購入してくれた紺色のマフラーを首に巻きなおし、駅に降り立つ。
 悶々としながら、人の流れに押し流されるように駅舎を出て、道沿いに歩いていく。

 理由がわからず恋人に避けられる、というのは結構堪えた。
 しかし香倉自身も過去に同じようなことをした手前、圭人の行動を責めることもできないのだ。
 ――何か事情があるのかもしれない、とは思う。
 ならばどうして、恋人である香倉に圭人はその事情を打ち明けてくれないのだろう。
 
 駅から歩いて数分で洒落た外観の高層ビルに辿り着く。
 建物内へと入り、社員証を取り出したところで、エントランスホールに黒塗りの車が横付けされるのが見えた。車から良く知る人物が姿をみせる。

 ――九藤謙吾。香倉を今の職場へと招いた高校の先輩であり、この会社を近い将来背負っていく男。
 秘書を伴い、何事かを話しながらホールへと現れた迫力のある美貌の男に、周辺にいた社員らは道を譲り、軽く頭を下げていく。
 
 香倉が何気なくその光景を観察していると、ホール中の注目を集める九藤とばちりと視線が合ってしまって。
 素早く姿勢を正し、周囲に倣って自分も軽く会釈した。
 すると九藤は、人差し指をちょいちょいと動かし、香倉に向かって「こっちに来い」と指示してくる。
 
 怪訝に思いながらもホールを横切り九藤のもとへと向かうと、挨拶もそこそこに「ついてこい」と言われたので、仕方なく男の後に続いた。

 九藤の近くにいるだけで、上位のアルファ特有の威圧感が肌を撫でてくる。
 格上の気配にはまだ慣れないな、とそわそわとした感覚を持て余していると、九藤がこちらへと視線を寄越し、悪だくみをする少年のような笑みを閃かせた。

「直接話したいことがある。始業時刻まで十分に余裕はあるし、構わんだろう?」

 
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