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 それからはまたしばらく、恋人に会えない日々が続いた。
 「内服薬も含めて抑制剤は当分禁止」と医師に言い渡されてしまったので、流石に今回ばかりは言いつけを守っていたというのもある。
 
 通常業務と退職準備に追われているうちに、圭人のいない空しいクリスマスは過ぎていった。
 あっという間に年末がやってくる。会社も休みに入り、時間ができた途端に寂しさに耐えかねて圭人に連絡をとった。
 
 年明けに会う約束を取り付けてからは、ゆったりと流れていく時間に辟易しながら一日一日を見送った。

 まるで遠足を心待ちにする幼稚園児のような自分の有り様には、もう笑うしかなかった。
 圭人は香倉を傲慢で薄汚いアルファに変貌させることもあれば、幼稚園児にもしてしまう。とんでもない恋人だと思った。
 どうして医師の言いつけを守って年明けまで会うのを我慢しようと考えたのかと、数日前の自分の判断を何回恨めしく思ったかわからない。
 
 
 ようやく迎えた約束の日。
 朝の空気は氷点下まで冷えていた。身を切るような寒さなのに、心は弾むばかりだった。
 よく晴れた空の下、香倉はホライゾンブルーの車を走らせた。

 今日は圭人の自宅近くで待ち合わせていた。
 少し早めに到着したが、香倉がスマートフォンを取り出してメッセージを送ろうとしていたまさにその時、圭人がひょっこりと姿を現して。
 すぐにこちらに気付いて、嬉しそうに駆け寄ってきた。

「史仁さんっ、あけましておめでとうございます」

 内側からドアを開けてやると、鼻の頭を僅かに赤くした圭人が顔を覗かせた。
 
「あけましておめでとう。外は寒いだろう、乗って」

「あ、うん。……あの、今年もよろしくお願いします。あと今日も」
 
 助手席に座り、ドアを閉めた圭人が改めて頭を下げてくる。律儀なところが彼らしい。微笑ましくて頬が緩む。

「こちらこそ。今年も、今日もよろしくね。圭人、体調はどう?」
 
「体調はもういいんだけど……その、この前は史仁さんにめちゃくちゃ迷惑をかけてしまって、ごめんなさい! オメガとして俺、何の準備も覚悟もできてなかった。史仁さんがいてくれなかったらどうなっていたか……」

「もういいよ、圭人。きみが無事だったんだから」
 
 あのヒートの夜からは既に二週間近く経っている。
 気にするなと香倉が言っても、圭人は強く首を振った。

「いや、良くなくてさ……! これ、あの日に立て替えてもらった分です。史仁さん、受け取ってください」

 鞄から取り出し、差し出された白い封筒。
 中身は見なくてもわかった。恐らくホテル代だろう。……律儀すぎて困る。

「圭人はおれのこと、ホテル代も出せない男だと思ってる?」

「そういうわけにはいかないってば……! というか史仁さん、泊まってないし……っ」
 
「ヒート中のきみを不自由な場所に閉じ込めたのはおれだよ? ……受け取れないよ。おれは働いてるし、これでも十分稼いでいるんだ」

 返す、いらない、の攻防戦が何度か続く。
 圭人はたまに頑固だ。香倉にもアルファとして、年上の男として幾重にもプライドがあるので、ここは折れるわけにいかない。

「ねえ、圭人。ホテル代のかわりに、今度はおれのお願いをきいてくれない?」
 
「お願い?」

「そう、お願い。――おれ、圭人からのキスが欲しいな」

「んなっ……!」

 圭人は瞬時に首元まで真っ赤に染まった。

(かーわいい)

 恋人のうぶな反応を楽しみながら、香倉は畳みかけるように、数日前のスマートフォン越しのやりとりを持ち出してみた。

「そういえば、この前のマフラーも使ってくれているのかな?」

 ヒートの夜に彼に渡したままのマフラーを、もう少し貸してくれと言い出したのは圭人のほうだ。
 あのマフラーは圭人にあげることにしたので、てっきり今日は首に巻いてきてくれるかと思ってたのに、圭人の首元には別の黒いマフラーがある。
 どういうことかと疑問に思って訊いてみたら、圭人は絞り出したような声で、予想外の答えを口にした。
 
「う……、つ……かってる。寝るときに……」
 
「寝るとき?」

 不思議に思ったのは一瞬だった。
 すぐに疑問はとけて、圭人の羞恥が感染したみたいに自分の胸にもじわじわとむず痒いものが広がっていく。
 
(寝るときって。いやそれ……オメガの本能か?)

 発情期が近くなると、一部のオメガは巣作りをするのは有名な話だ。
 ただオメガにも個人差はあって、巣作りをする者もいれば、まったくしない者もいるし、発情期に関係なく意中のアルファの所有物を欲しがる者もいるときく。
 いずれのオメガにも共通しているのは、好意を寄せているアルファの匂いだけが特別で、特別に傍に置きたがるということで……。

(これって口説かれてるわけじゃないよな……告白? 誘ってる? いや違うよね?)

 あのマフラーは今、毎晩圭人と寝ているのか。
 思わず想像してしまい、香倉は目の前のハンドルに突っ伏した。顔が熱い。――やばいくらい、嬉しい。
 間違いなく圭人は無自覚だろうが、これはもう、香倉が自分の特別なアルファだと伝えているのも同然だ。言葉よりもずっと確かな、本能での求愛。
 
「だめだな……決意が端から崩れていきそう……」
  
 気持ちが抑えきれず、本音がこぼれる。嬉しすぎて胸が苦しい。
 今日はまだ絶対に手は出さないと決めてきたはずなのに、既に危うい。今日一日、理性を保てるのか不安しかない。

 ただでさえ、二週間ぶりの圭人はとても甘い、魅惑的なフェロモンを漂わせている。
 もともとの薄荷のような爽やかな圭人の匂いに、成熟したオメガ特有の蜜のような深い香りが仄かに加わって、こうしているあいだにも香倉のアルファ性を強く刺激してくるのだ。
 
 それなのに当の圭人はというと、香倉の隙をついて白い封筒をコートのポケットに突っ込んできて、傍らでにんまりと満足そうにしているわけで。

(天使なのか、悪魔なのか……)
 
 好きだから、愛してるから、今ここで押し倒したりなんてしないけれども。襲われないことを当たり前と思うなよ、と心の中でしっかり毒づいておく。
 香倉は苦笑とともに、仕方なく封筒を受け取ることにした。今回は完全に自分の負けだった。
 
 代わりというわけではないが、後部座席から小振りの紙袋を取り出して圭人に差し出すと、彼は黒曜石の瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「これ……」

「年が明けてしまったけれど、きみにクリスマスプレゼント。受け取ってくれる?」

「嬉しいです」とはにかんで、「ありがとうございます」と圭人はおずおずと両手でそれを受け取ってくれた。

 それから、「俺もあるんですよ」と、鞄の中から今度は細長の平らな箱を取り出して、香倉へと差し出してきた。

「何がいいのか、迷って……ネクタイにしてみたんです。史仁さんの趣味に合うか、ちょっと自信ないけど。良かったら使ってください」

 クリスマスカラーできちんと包装されている化粧箱。圭人はいつ、これを用意してくれていたのだろう。

「ありがとう、すごく嬉しい。大事に使うよ。――ねえ、キスしてもいい?」
 
 気持ちが一方通行でないことが嬉しくて、感激してそんなことを口走ったら、「ここではだめです」とぷいっと顔を背けてお断りされてしまった。圭人の耳がまた赤い。
 ……場所を変えれば、良いということだろうか。
 可愛らしい恋人の姿をずっと眺めていたかったけれど、いつまでもこの場所にいるわけにもいかないので、互いにシートベルトを装着して車を発進させた。

 前回、あんなことがあったというのに圭人には香倉を警戒する様子はない。
 それどころか、圭人の視線や仕草には明らかな好意が滲んでいて。耐え続けた時間がやっと実を結びはじめたことを実感しないわけがなかった。
 半年をかけて、着実に編み上げてきた自分たちの関係性。

(勝算は十分にある)
 
 この関係を一段上に進めるためにも、今日は圭人に伝えておきたいことがあった。
 自分の本当の気持ちだ。
 オメガとしての圭人を欲する自分の欲望や本能を、これ以上は隠さずに、これからは彼にまっすぐに伝えてみようと香倉は考えていた。

 前回のような誘発ヒートはきっとこれからも起こりうる。
 自分たちはもう、互いのバース性を無視して関係を築くことは不可能なのだ。

 あとはいつ、どのタイミングで話を切り出そうかと香倉は考えていたのだが、これからの二人の関係性について先に触れてきたのは、意外にも圭人のほうだった。

「――史仁さん。俺、さ……あの夜は無理だったけど……噛んでもらうなら、史仁さんがいいって思ってるんだ。だから、覚悟を決めるまで、もう少し時間をくれませんか?」

(……!)

 助手席にいる圭人から思いもよらぬ申し出を受けて、香倉は息を呑んだ。
 今日の圭人には驚かされてばかりいる。
 初めてのヒートを経験して、彼も何か思うところがあったのだろうか。

 あんまり浮かれすぎると、前回みたいな手のひら返しが正直怖い。
 だけども嬉しいものはやっぱり嬉しいわけで。
 運転している手前、前方からあまり視線を外せない状況を残念に思いながら、それでも香倉はありのままの気持ちを言葉にのせた。

「もちろん。おれの番になってくれるなら、いくらでも待つよ」
  
 車内には圭人の甘い匂いが満ちている。香倉を誘うオメガのフェロモンだ。
 きっと同じように、自分のアルファフェロモンも圭人を誘っているに違いない。
 運転席側の窓を少し開けて、香倉はそれらを外へ放出した。
 入り込んできた冷たい空気がぐるりと車内を巡って、自分たちを優しく包み込む。

 ――圭人のためなら、今日まではまだ、プラトニックな恋に甘んじる覚悟はできていた。
 
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