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しおりを挟む「おや、また来たんですか。……もしかして抑制剤、使っちゃいました?」
ふらふらとした足取りで診察室に入った香倉に、青いスクラブ姿の若い医師は開口一番にそう言った。
気まずい思いで頷くと、「ああ、辛いならそこに横になってくださいね」と寝台を示されたので、遠慮なく寝転んだ。気力だけで歩いて来たが、ひどく目が回っていた。
駅前で急なヒートを起こした圭人をホテルの客室まで送り、彼を残して部屋を出て。
ホテルマンの手を借りてフロントまで下りたあと、諸々の手続きと支払いを済ませてから香倉はタクシーに乗り込んだ。
夜間診療をやっている病院はこの辺りではひとつだけ。
先日も世話になったばかりの病院を受診し、医師だけでなく、ほかの医療スタッフにまで「また来たんですか」と言われながら処置をされた。
投与された薬剤はすぐに効いてきた。
呼吸が楽になり、悪寒がなくなり、香倉を苦しめていた身体異常は波が引くように消えていく。
大部屋に並べられたベッドのうちの一台をカーテンで覆っただけの個人空間。
隣の患者が家族とひそひそと話し合う内容もほとんどそのまま聞こえてくる。
天井を見つめながら、今夜起きたことをぼんやりと考えていた。
圭人のあのヒートは自分が誘発したような気がしていた。
久しぶりに会えたことが嬉しくて、今日はちっとも自制なんてできていなかった。
圭人に触れずにはいられなくて、感情を揺さぶられずにはいられなかった。
あの威圧は二重の意味でまずかった。
圭人を怖がらせるだけでなく、彼のオメガ性を本能的に追い詰めたのだとしたら……。
(圭人には悪いことしたな……)
根拠はないが、恐らくそのあと首筋に口付けたのが決定打だろう。
自分の気の緩みが圭人を窮地に追いやったのだ。最悪だ。
悶々と自分の過ちを振り返っていると、医師がクリーム色のカーテンの向こう側から声をかけて入ってくる。
「症状はだいぶ改善されたようですね」
若い男性医師は香倉の顔色を一目見るなり微かに笑んでそう言った。
ちらりと点滴の残りを確認してから、「薬がすべて落ちたら帰宅していいですよ」と告げられる。
「うちはオメガ患者を受け入れていないので、フェロモン事故に遭われたアルファの方が駆け込んでくることもたまにあるんですけどね。香倉さんみたいなアルファはやっぱり珍しいですよ」
「……そうでしょうか」
「前回はまた別の事情がおありのようでしたけれど」と言うと医師は肩をすくめた。
「オメガの発情に巻き込まれてもアルファは罪が軽いでしょう。開き直るアルファも多いじゃないですか。……少なくとも、私の周囲ではそうでしたから」
「でも身体は大事にして下さいよ」と言い置いて、医師はカーテンの向こうに消えていった。あの医師は恐らくベータなのだろう。
発情したオメガに遭遇した際、退避行動を取らずにオメガを喰いにいくアルファがいることは知っている。
高校時代、香倉の周囲にもそういうアルファはいて、武勇伝のように語っているのを何度も耳にしたことがあった。
いろんなアルファがいるものだ、と今までは思ってきた。――圭人に出逢うまでは。
(おれだって、彼らと何も変わらない)
無差別には襲わないというだけで、ギリギリ踏みとどまれたというだけで、自分がずっと圭人の隙を狙ってきたことは間違いない。
オメガの隙を狙うアルファという点で、彼らと自分に何の違いがあるのだろう。
圭人に出逢ってからというもの、香倉は自分の中に眠っていた薄汚いアルファの本性を嫌と言うほど教えられてきた。
運命の恋が香倉に与えたものは、決して甘さだけじゃない。
傲慢で狭量で我儘な自分の本性に、今まで目を背けてきたアルファとしての真実の姿に、強制的に向き合わされる毎日だ。
(……今日は圭人にかっこ悪いところばかり見せてしまったな)
溜息をついて、目を瞑った。
身体を少し動かすたびに、ベッドが小さく軋む音がする。
きっと今頃、圭人はあの部屋で一人苦しんでいるんだろう。
心構えさえできていない、はじめての発情期。
……圭人は大丈夫だろうか。泣いていないだろうか。
本当は傍にいてあげたかった。
性衝動に苦しむ彼を抱きしめてあげたかった。
圭人の熱をわけて欲しかった。
ヒートのせいにして彼と狂うほど抱き合いたかった。彼の身体に自分の痕跡を残したかった。
圭人の身体の隅々まで丹念に愛撫して、あの清らかな身体に快楽を教え込み、胎にたっぷり子種を注ぎ込んで。……あの細い首を噛んでしまいたかった。
さまざまな想いが胸をよぎっては消えていく。
その半分以上は今の圭人にとってはきっと迷惑でしかない、重たいだけの身勝手な願望だ。
――だけど、そうと自覚していても。
(できることなら、本当は今夜、きみと番になってしまいたかった)
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