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圭人が口にしたことを理解すると同時に、天国から地獄に突き落とされたような気分を味わった。
浮かれていた気持ちがぐしゃりと踏み潰されて、昏い怒りに染まっていく。
大切に大切にしてきた雛鳥に噛みつかれた衝撃が、心臓を抉るような痛みが、彼にわからせてやりたいと怒号を上げはじめる。
――まずい、と思うのに止まれなかった。ブレーキは跡形もなく砕け散る。
「……圭人。どういうこと?」
自分のものとは思えない冷たい声。
怒りにまかせて圭人の肩を強く掴んだ。壁に押し付けて、詰問する。
――どうして。何故? さっきの言葉は嘘だったのか?
身体中で怒りが煮えたぎっている。心が痛い。
――番に裏切られた。
自分のアルファ性がそう叫んでいる。悔しくて、憎たらしい。悲しい。怒りに支配されたまま、冷静になれない。
圭人の弁明も耳に入らなかった。納得できなかった。
どうして、ここへきて香倉から離れようとするのか、自由を欲するのか、何一つ理解できない。理解したくない。
「この首輪は……あなたのためのものだ」
アルファ特有の暴力的な圧に怯えながら、圭人はそれでも訴えようとする。
その口を黙らせてやりたかった。
痛いところをつかれたが、香倉はしらを切る。
「その首輪は間違いなく、きみのためのものだ。自覚がないのか? オメガとしての成熟が近いきみが、今もどれほど甘い匂いを出しているか……!」
「っ、そうかもしれない、けど」
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信用だなんて。馬鹿なことをと思うのに、か細い声に反論するための言葉が出てこない。
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「俺はこの首輪をもらって嬉しかったんだ。だって史仁さんがくれたものだから。……でも、この首輪に縋るしかない自分が嫌だ。時間が欲しいんだ。いつまでも……簡単に不安に負けるような、情けない自分でいたくないんだよ……っ」
ぽつり、ぽつりと、涙を落とすように圭人は言葉を落としていく。
よく見れば、恋人は今にも泣き出しそうだった。
……ずっと、頭の片隅ではわかっていた。
圭人が、オメガとしての日の浅い彼が首輪を贈られたところで、純粋に喜びだけを抱くわけではないことを。
葛藤もあるだろう。しかも、こんな身勝手な首輪だ。嫌悪されても仕方がないと。
それでも嬉しかったのだと伝えられて、香倉の怒りが宥められていく。……理性が戻ってくる。
自分は何をやってるんだろう。首輪ごときで、怒りをぶつけて。彼を怖がらせて。
(本当に、余裕のない……)
冷静な自分が戻ってくると、周囲からの視線も気になった。
自分のことは構わないが、圭人が多くの人の目に晒されている今の状況は好ましくない。
香倉は溜息をつき、身体から滲み出ていた圧を消し去ると、圭人へと声をかけた。
「場所を変えよう、圭人」
「史仁さん……お願い。一度首輪を外してほしい」
「その頼みはききたくない」
「史仁さん」
「…………わかったよ」
受け入れたくはなかったが、ものすごく嫌だったが、圭人の首輪へと香倉はゆっくりと右手を添えた。
未練がましく、指先で一度首輪を撫でて。
それから人差し指を裏に滑らせると、僅かにカチリと音がした。
「……ありがとう」
頷くことも嫌だった。
だから無言のまま、香倉は首輪を恋人の手に差し出した。
嬉しそうにほころぶ圭人の笑顔が今は憎らしくて。
愛しているがゆえの苛立ちだとわかっているから余計に腹立たしくて、だから悔しまぎれに、圭人の首筋に自分の唇を押し付けた。
――お前はおれのものだぞ、と心の中で彼の首筋に呟いておく。
繋いだ手を引っ張って、圭人を引き摺るように駅の構内を歩いていく。
歩いているうちに、荒れ狂う感情も冷却されていく。
階段を上って、改札を出て。
澄みきった夜の空気を頬に感じる頃には、圭人にどう謝罪しようかと、そればかりが頭を占めていた。
かける言葉を見つけられず、無言のままタクシー乗り場に向かっている時、ふわり、と一際甘いオメガのフェロモンに身体ごと包まれたような気がした。
――媚びるような甘い蜜の匂い。
圭人の匂いだとすぐにわかったが、いつもとは違う、アルファの衝動を引き摺りだそうとする濃厚すぎるフェロモン臭に焦りを覚えた。
(これは、まずい)
好ましいオメガの強烈な発情香にあっという間に捕らえられ、ねっとりと絡みつかれて、激しく理性が揺さぶられる。
「……圭人。きみ、急に匂いが」
コートの袖口で鼻を覆い、衝動を押し殺しつつ振り向けば、自分の後ろで圭人は頬を赤らめていた。
香倉を見上げ、瞳がとろりと動く。
「匂い? ――えっ、まさか」
一拍遅れて、黒曜石が見開かれた。圭人の足が止まる。
圭人が視線を彷徨わせて何事かを思案しているうちにも、彼のフェロモンは香倉へと執拗に牙を剥いてくる。
少しでも気を抜けば、この暴力的なまでの誘惑香に理性なんて簡単に引き剥がされてしまいそうだった。
(これだけ強いフェロモン臭だと恐らく周囲を巻き込んでしまう)
青褪め立ち竦む圭人の背中を強引に押して、人の疎らなスペースへと誘導した。
「はぁっ、はぁ……っう、はあ……っ」
苦しそうに呼吸する圭人の姿は、過去のオメガたちの姿と重なった。
紅潮した頬。香倉の本能を揺さぶる強烈な甘い誘惑。アルファが持つ獣性を刺激し胎に子種を宿そうとする、オメガの生理現象。
――やはりヒートに違いない。
パニックになっている圭人がピルケースを取り落とすのを視界の端に捉えながら、香倉は自分の鞄からあるものを探した。
刻一刻と容赦なく削られていく自分自身を肌で感じる。
特別なオメガが引き起こすヒートに巻き込まれて、自分が耐えられるとは思えない。
鞄から目的のものを見つけ出すと、香倉は数日前と同じ手順で針を出したそれを太腿に突き刺した。
躊躇など微塵もなかった。自分とは相性の悪い非常時用の抑制剤。――それを使う未来と使わぬ未来、どちらがマシかなんて、わかりきっている。
「――――はぁ、圭人っ。……落ち着いて」
スーツの上から突き刺した針を通して、薬剤が身体に流れ込んでくる。何度やっても慣れない感覚だ。
太腿の痛みを誤魔化すために圭人へと意識を向けた。
こちらに気付いた圭人が口をはくはくと動かして何かを訴えている。
香倉は痛みを耐え、太腿から針を引き抜いた。使用済みの薬を鞄に投げ入れて立ち上がる。
数日前とは違って、薬剤は香倉の身体を素早く駆け巡り、効果を発揮しはじめるのがわかった。
強烈な性衝動に陰りがみえて、徐々に鈍くなっていく。緊張していた身体から少し力が抜けた。理性のもとでコントロールしやすくなった自身の身体に安堵する。
(副作用の心配は杞憂だったか? はあ、良かった……)
胸を撫でおろし、立ち上がった。
地面に落ちていた圭人のピルケースを拾い、そこから一粒のオメガ用抑制剤を取り出した。圭人の唇にそっと押しあてる。
「大丈夫だ……おれを信じて。……ちゃんと守るよ、そのためのきみのアルファだろう?」
互いに薬が効けば、少しは時間が稼げるだろう。こんな場所で二人して獣のように盛る気も、愛する恋人の身体を衆人環視の中で晒させる気も毛頭ない。
圭人が僅かに口を開けたので、カプセルを押し込んだ。ミネラルウォーターを渡してしっかりと飲み込ませる。
薬のおかげで、香倉は濃厚なオメガフェロモンに包まれていてもなんとか理性を保つことができている。
「史仁さ……っ、貴方こそ退避しないと……」
「しないよ。きみの傍を離れたりしない。……おれはきみの番になるアルファだよ。誰にも、指一本だってきみに触れさせたりしない――きみに触れていいのはおれだけだよ」
愛おしい運命のつがいは香倉の身を案じながらも、こちらを不安そうに見上げている。
けれどもやっぱり彼はなにもわかっていないのだ。
――異なるバースに生まれた者には決して理解されない、アルファの病的なまでの独占欲。
アルファである香倉は当然それを秘めているし、その欲望を向ける相手をとっくに定めている。
(今夜、首を噛めば)
(圭人は一生おれのオメガになる。……もう誰にも奪われない)
待ち望んでいた好機が手中にある。
高揚する気持ちは紛れもなく本心からのものなのに、水を差すように遠くから香倉自身に問いかけてくる声もあって。あろうことか、心に微かな迷いが生じていた。
冷静さを取り戻した頭の片隅に、さっきの口論が何度もよぎる。
(混乱に乗じて項を噛めばおれは幸せになれるだろう。――だけどそれは、圭人にとっても幸せといえるのか?)
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