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しおりを挟む翌々日、熱が下がり状態も落ち着いたので、午前中には退院となった。
病院のロビーにあった公衆電話から会社には一度だけ連絡をした。鞄の底から出てきたスマートフォンはいつのまにか電源が落ちていた。
皺のついたワイシャツに再び腕を通し、帰路につく。
――仕事は一日も早く辞めると決めた。次の職場が確定するまではと我慢するのも、馬鹿らしくなった。
決心してしまえば、気分は晴れやかだった。
タクシーから降りて、マンションまでの歩道を歩く。足取りは軽い。
冬だというのに、見慣れた景色の眩しさに目を細めてしまう。
ベータの女に足をすくわれそうになった滑稽な自分。
……圭人に言ったら、何と言われるだろう。きっと心配させてしまうはず。
かっこ悪く愚痴をこぼしたら、香倉を憐れんで首を噛ませてくれるだろうか?
香倉は首を振り、エントランスの扉をくぐった。
しばらく抑制剤の服用は控えるようにと医師に言われていた。
あの症状は抑制剤による副反応だった可能性もあるからと。
「オメガ性の相手と番になってしまうのが一番」だと、求めてもない助言までもらったが、そんなことは香倉だって言われなくてもわかっている。
自分だって圭人と早く番になりたいのだ。
番になりたい。圭人と番になりたくて、たまらない。ほかのオメガや女なんて一切いらない。
――だが今回のことで、意に反する発情の恐怖が再び身に沁みてしまったのも事実。
アルファであってもそうなのだ。
……オメガの身であれば、それはいかばかりか。
あんな惨めな思いは圭人にしてほしくない。させられない。
自宅に戻り、崩れるようにソファーに沈んだ。
途端に身体から力が抜けてしまって、香倉は座りこんだまま、立ち上がることができなくなった。
眼鏡を外すと、世界はぼんやりと歪む。
目許を腕で覆い、香倉は瞼の裏に愛おしい存在を呼びだした。
鮮やかな記憶の中で彼は笑っていて。すきだよ、と恋心を噛みしめる。
(運命の相手じゃなければ、また違ったかな……)
§
翌日、出社して香倉は辞意を伝えた。上司は慌てていた。
撤回するつもりはないので、すぐさま同僚にも報告し、周知させ、抱えている案件の引き継ぎ準備に取り掛かる。
職場は騒然となったが、香倉の胸中は凪いでいた。
件の令嬢と香倉にトラブルがあったことは既に上層部にも伝わっていた。
しかし彼らが選んだのは得意先との関係で、香倉ではなかった。予想していたこととはいえ、これには心底呆れた。
呼び出された役員室で、幹部職員の一人から形ばかりの謝罪をされて。「トラブルを大事にはしないでくれ」と懇願された香倉は、渋々頷いた。
――自分はもう辞める人間だから、あの女と縁が切れるのであれば別にどうでもいい。こんな会社を選んだ自分に見る目がなかったのだと考えることにした。
やるせない気持ちを引き摺ったまま迎えた昼休み。
プライベート用のスマートフォンに新着表示があった。
(圭人からメッセージ……?)
何度か連絡をくれていたようなのに、タイミングの悪さも重なり、そういえば返事ができていなかったことを思いだす。
画面に視線を落とし、香倉は眉を寄せた。
――『数分でいいので、会えませんか。無理を言ってすみません』
……何かあったのだろうか。圭人がこんなことを言うなんて珍しい。
圭人が講義を終えるタイミングで連絡を入れてみる。
スマートフォン越しの圭人の声は思い詰めたような響きがあった。
『……史仁さんに会って話がしたいんだ。平日でもいいから、会えませんか? 仕事が終わるまで待ってるから』
「圭人……?」
余裕なく、会いたいと迫られる。
言葉そのものは嬉しいが、違和感があった。不安もある。――医者の言葉が脳裏に蘇る。
『お願い、史仁さん……無理言ってるってわかってるけど、どうしても会いたい』
切実な、圭人の声。
「……いいよ。今日、仕事が終わったら連絡するよ。遅くなってしまうと思うけれど、待っていられる?」
頭の中に点滅する黄色信号をわかっているのに、そう答えてしまう自分を止められなかった。
会いたかったのは自分も同じで。
『うん、いつまでも待ってるから。ありがとう』
声を震わせ、圭人がこたえた。
今すぐに駆けつけて抱きしめてあげたいのに、そうできない自分がもどかしかった。
香倉の職場と、圭人の大学の中間にあたる駅で待ち合わせた。
駅に着いたときには二十一時を過ぎていて、こんな時間にオメガの恋人を出歩かせてしまったことが今更ながら心配だった。
列車を降り、圭人を探す。
姿は見えなくても、甘い匂いが香倉を導くように居場所を教えてくれる。
行き交う乗客たちのあいだを抜けていくと、ひっそりと壁際に佇んでいる恋人の姿を見つけた。
視線が合い、胸が甘く弾んだ。
駆け寄りたいのに、行く手を阻む人の流れが煩わしい。
しかし圭人との距離が縮まるにつれ、異変に気付く。彼の顔色は悪く、目許には深い隈があった。……寝られてないのか?
「――圭人? その顔はどうしたんだ。何があった?」
「何もないよ。……心配かけてごめん」
へにゃりと力のない笑みを浮かべられても、痛々しいだけだった。
圭人の言葉を鵜呑みにはできなくて。居ても立っても居られずに彼の手を引く。
「家まで送るよ。タクシーにしよう」
そう声をかけて改札へ向かおうとするも、泣きそうな顔で眉根を寄せた圭人はその場から動こうとしなかった。
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