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しおりを挟む圭人のオメガ性の成熟に気付いてからは、香倉はそれまで以上に圭人を誘い出すことができなくなってしまった。
仕事を言い訳にして、今週末も会えそうにないと香倉はスマートフォン越しに恋人に伝えた。
「ごめんね、圭人。ここのところ仕事が忙しいんだ」
『いいよ、仕方ないことだし。史仁さん、ちゃんと寝れてる? この前も疲れた顔してたから……俺はいいから、ちゃんと休んでよ』
圭人はそもそも控えめな性格だから、文句なんて返ってくるはずもない。
聞き分けの良さは有り難いけれど、正直寂しかった。
「大丈夫。寝る時間は確保してるよ。……それよりも圭人、体調は? 変化はない? 発情期にはまだ早いだろうけれど、十分注意はしておいて」
「……変化なんてないよ。大丈夫。発情期は来年って言われてるし」
「きみが心配なんだ。もしも困ったことがあったり、発情期が早まったら必ず連絡するんだよ?」
「わかってるよ、史仁さん」
そのあと二言三言やり取りをして、通話を切った。
オフィスのある十五階から、外に視線をやった。街に雪が舞い降りていく。
§
自分だけのオメガに会いたいのに、会えない。心臓が握り潰されるみたいに寂しく、息苦しい日々が続いた。
気に入らない毎日を消化するだけの時間の積み重ねは、ストレスとなって香倉に重くのしかかった。
それでも社会人なのだからと自分を宥めすかして、無理して愛想笑いを貼り付け、なんとか過ごしていた十二月中旬。
――それは起きた。
(くそ、あの女、なんの薬を使いやがったんだっ)
下降していくエレベーターの壁を香倉は力任せに殴りつける。
全身から汗がふき出してきて、呼吸も乱れるばかりだった。身体が沸騰するように熱い。
チン、と音がして豪奢な分厚い扉が開いた。
……とにかく一刻も早くこの場を離れなくては。香倉はただその一心で、重い身体を引き摺ってフロアへと踏み出した。
その日も休日返上での接待を命じられ、香倉は断われなかった。
店の予約や手土産は準備できているからと上司に言われて、仕方なく香倉は指示通りに中華料理の有名店へと出向いたのだ。
貸し切った個室で、得意先の社長や、自社の幹部とともに大きな丸テーブルを囲む。煌びやかで優雅な空間。
会食相手は一人の若い女性を伴っていた。社長の娘だと紹介される。この時点で既に嫌な予感はあった。
大皿料理が半分ほど空になってきた頃だった。
席を外していた令嬢は部屋に戻ってくると、父親の隣には向かわずに、どういうわけが香倉の傍に寄ってきて甘い声で耳打ちした。
「香倉さん。このあと、二人で抜けませんか? お父様たちは行きたいお店があるようですし」
「……大変魅力的なお誘いではあるのですが。お連れした先で、何かあっては責任がとれません。お父上に私が怒られてしまいます」
そう返した香倉に、真っ赤な口紅をひいた令嬢は意味深に微笑すると、そのまま白いワンピースをひらめかせて席に戻っていった。
しかし、合コンじゃあるまいしと思っていたのは香倉だけだったようで、会食が終了するなり「こちらは気にせず若い者同士で二次会を」と、令嬢と二人、さっさと送り出されてしまったのだった。
眉間のしわを伸ばし、溜息を堪え、強ばった愛想笑いを浮かべて令嬢をエスコートしてやった自分が馬鹿だったのだと、今ならわかる。
相手をするのも面倒だったので、とりあえず近くにあった映画館に令嬢を誘導して時間を潰して。
そのあとはもう家に送り届けてしまおうと考えていたのに、令嬢のほうから「景色の良い店で飲み直さないか」と誘われた。
香倉が連れてこられたのは、高級ホテルの最上階にあるバーだった。
夕陽を眺めながらグラスを傾け、二杯目のグラスに口をつけてからしばらくして、異変に眉を寄せた。
――身体が熱い。思考が途切れがちになり、激しい興奮が押し寄せてくる。
まるでオメガのフェロモンを浴びた時のような急激で強引な性欲。誰彼構わず押し倒してしまいそうな強い衝動が、皮膚の下で暴れだす。
(ベータだからと油断していた)
香倉は怒りにまかせて隣の席にいる女を睨みつけた。
自分に触れようとしていた白い手を跳ね除け、荒々しく席を立つ。
女は「ひっ」と悲鳴を上げて青褪め、カタカタと震えだした。
――どいつもこいつもアルファを舐め過ぎている。
そうさせる一因が香倉自身にあるのだとしても、限度というものはあるだろうに。
店員を捕まえ、助けを求めようとして……ふと、彼らが買収されている可能性に思い至る。
自分にも油断はあったが、それでもあの女に小細工を許す隙まではなかったはず。
性欲で膨れ上がった身体をどうにかこうにか引き摺って、香倉は自力で店を出た。
ハァハァと乱れる呼吸を抱え、廊下の隅で膝をつく。
鞄から急いで緊急抑制剤を取り出した。
包装を破り、筒状の薬剤の端から針を出して太腿に突き刺す。――幾分か性欲が引いていく。
圭人のために用意しておいた緊急用を、まさかこんな形で使うことになるとは思わなかった。
とにかく早くその場から離れたくて、力を振り絞ってエレベーターに転がり込んだ。
あの令嬢が店から出てきて香倉を追いかけてこようとしていたが、分厚い扉の向こうに消えていく。
安堵したが、束の間だった。……何度か使用したことのある緊急薬だが、いつもと違って効果が限定的だ。
アルファの衝動はほとんど消えたものの、呼吸は荒くなる一方で、汗も滲み出していた。何かがおかしい。
違和感を覚えた香倉はホテルを出るなり、タクシーに飛び乗って、夜間診療をやっている病院に駆け込んだ。
「検査の結果ですが……やはり発情剤のようなものを使われたんだと思われます。直後に使用された抑制剤との相性も悪かったのかもしれません。発情剤の詳しい成分まではわかりませんが、確実に違法薬物でしょうから、念のため入院して様子を見ましょうか」
眉を寄せ、難しい顔をした当直の若い医師にそう告げられて。
ふらふらと病室に向かい、ベッドに沈むと、ここ最近の疲労が一気に噴き出した。
点滴で入れられている薬剤が早くも効いてきたのか、不快な症状が和らいでいく。
呼吸が、身体が楽になる。吸い込まれるように香倉は眠りに落ちていった。
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