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 前回の別れ際にちょっとした小細工を弄したお陰で、次の機会はすぐに訪れた。
 
 週末。待ち合わせ場所はいつものコーヒーチェーン店。
 約束の時間ちょうどに店に現れた圭人は、普段通りの飾り気のないカジュアルな白いパーカーにジーンズという恰好だった。
 やはり異性としては意識されていないのだな、と内心苦笑する。

 席につくなり、彼が預かってくれていた香倉の名刺入れをまず差し出されて。
 用事を終えた圭人がさっさと店を出ようと考えていることは手に取るようにわかったけれども、この日を心待ちにしていた香倉がそれを許容できるはずもない。

 グラスを空にして立ち上がりかけた圭人の手首を軽く掴み、引き留めて。
 プライドも過去のこだわりも投げ捨てて、香倉はまっすぐに年下の彼にこいねがった。
 
「待って。これから時間はある?」
 
「えと。……なくもないですが」
 
「きみのことをもっと知りたいんだ。番候補として、互いのことを知り合うチャンスをくれないかな?」
 
 戸惑った様子ながらもおずおずと頷いてくれた圭人を、今度は急かすように店の外へと連れ出した。

 取り留めもない会話を続けるうちに、彼の躊躇も、香倉に対する心の壁もぽろぽろと欠けて崩れていくのがはっきりとわかって。
 こちらを拒絶しきれない圭人の善良さに付け込んで、丸一日、彼を独占してあちこちに連れまわした。
 
 午前中はちらりと覗く程度だった圭人の控えめな笑顔も、時間の経過とともに、年相応の柔らかな笑顔に変わっていって。
 年下の男の子のそんなささやかな変化が香倉の心に何度もくすぐったいものを注ぎ込んで、じんわりと内側から満たされていくようだった。

 サッカー観戦が好きだと言うので、試しに人気サッカーチームの名前を出して観戦に誘ってみれば、次に会う約束も容易く結ぶことができて。
 香倉は確かな手応えを感じていた。

 ――とはいえ、圭人のほうは香倉との付き合いをやはりまだ迷っているようだった。

 帰り際、駅に向かって大通りを歩いているときだった。
 ふと足を止め、香倉の背中を見つめていた圭人は、頼りなげに黒い双眸を揺らしていた。
 
「……俺は不出来なオメガです。見た目もこんなだし。その……貴方に見合うものを、何も持っていないというか」

 傾いてきた陽射しが圭人の姿を薄い橙色に染め上げていた。
 香倉に特別なものを教えるように、夕日は色鮮やかに彼を、圭人だけを照らしている。周囲を行き交う他のものなんて眼中にも入らない。

(自信がないからって身を引かれても、困るのはおれなんだけどなぁ)
 
 周囲に漂う甘やかな香り。圭人のオメガのフェロモンだ。
 しかし不思議なことに誰も――――道行く人の誰も、今日すれ違ったどのアルファも、圭人の匂いに反応をみせることはなかったのだ。
 今日一日、自分たちを掠めていった他人の視線は、周囲をそれとなく警戒していた香倉自身にまず向けられていて。

 ……圭人のフェロモンは、香倉だけをただ一途に誘っているのだと気付いた。

 気付いてしまったら、もうたまらなかった。……本人は無自覚だろうが、番でもないたった一人のアルファに、未成熟なオメガが精一杯の健気な求愛をみせてくれている。
 
 やはり彼が運命なのだ。彼自身が運命に気付かなくとも。
 圭人のオメガ性はしっかりと――香倉こそが運命だと、わかっている。

「他の相手を探せと言われても、おれは頷けないよ?」

 今にも彼方に吹き飛ばされてしまいそうな圭人の指先を、香倉はやんわりと掬い上げた。
 ――肌に触れると同時に芽生えた衝動は理性で押し殺す。

「きみに出逢う前なら、いくらでも他を選べただろう。でも残念だけど、圭人くんのかわりにはもう誰も成り得ない」

 漆黒の瞳の奥を覗き込んで。
 慎重に、下心なんて感じさせないように紳士的に、愛しい人の細い指先を軽く持ち上げて。香倉は笑みをつくった。
 こんな街中だけども、目の前の彼が許してくれるのなら、その指先に誓いのキスを落としてやりたいと思った。
 ……この恋心は、もう簡単には覆せはしないのだと。
 圭人は微かに眉を寄せ、不審そうに瞬いた。

「本当に俺なんかでいいんですか……?」
 
「きみしか選びたくないんだよ。おれときみにとっては互いだけが特別で、それはもう揺るがない」

「それは、あなたがアルファだから?」

「きみがオメガで、おれの運命だから」

 納得できないと、圭人の表情が物語っている。
 香倉は微笑んだ。

(いいよ。今はまだわからなくても)

 ――運命だから、好きになった。
 それは事実だ。アルファの本能が圭人を特別な相手だと認識するから、心までが彼に囚われることになっていって。

 匂いに惚れて、ナンパして、彼に焦がれて。
 香倉のほうはたった二週間のうちに為す術なくこの運命の恋に引きずり込まれ、ぐわんぐわんと感情を揺さぶられ、滑稽なほど彼に翻弄されてきたけれども。

 圭人からしてみれば、香倉に会うのは、今日でまだたったの三回目。
 たったの三回、顔を合わせただけの男に運命なんて言われたって、信用できないのも当然だろう。

 言葉を尽くしたところで、今はまだ、アルファの本能で恋をした香倉の本気を圭人が理解することは難しいだろうとも思うから。

 計算高いアルファの本能が囁くとおりに、今はまだ、生々しい好意は曖昧な言葉のヴェールに覆い隠すことにした。
 彼の前では極力、紳士的なアルファであろうと香倉は自分自身に誓いをたてる。
 
「……時間をくれませんか。その運命とやらを俺が信じることができるまで」

 初夏の風が柔らかく自分たちを包み込んだ。
 何かを決心したように、圭人が凛とした眼差しでそう口にしたので。
 ゆっくりと、深く、香倉は頷いた。
 離れていった彼の指先が名残惜しいが、見えない赤い糸は確かに自分たちを繋いでいる。だから。
 
 拒絶じゃなければ何だっていい。――少なくとも、今はまだ。
 彼の無自覚な求愛を確信できたからこそ、それでもいいと納得できた。
 圭人の声が「香倉さん」と繰り返し自分を呼んでくれるだけで、このときはまだ、十分だった。

 
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