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しおりを挟む香倉とて頭ではわかっていたのだ。
……突然見知らぬ相手に声を掛けられたところで、彼が不審に思う気持ちも、警戒する気持ちも理解できる。
そもそも彼がベータだというのなら、アルファの男に口説かれたって困惑しかなかっただろう。
実際、あの日の彼は、香倉の言動に明らかに戸惑っているようだった。
連絡がないことへの落胆と苛立ち、そして彼にもう会えないかもしれないという漠然とした不安が胸に渦巻いて。
気付いたときにはもう、香倉の心はすっかり運命の彼に囚われていた。
オメガフェロモンへの嫌悪感を拭いきれず、オメガ性の相手を長い間敬遠してきたはずなのに……自分でも信じられないような願望が次々と心に芽吹いていく。
――もう一度、彼に会ってみたい。
あの甘やかなフェロモンを……また嗅ぎたい。
彼に触れたい。話したい。彼自身のことを知ってみたい。
特別なオメガとの遭遇が、香倉の中の何かを変えようとしていた。
いつまでも自身のアルファ性から目を背け、殻に閉じ籠もっていては、もう二度とあの特別な彼には会えないだろうと予感があった。
一言でいえば一目惚れだ。――いや、匂い惚れ、といったほうが正しいか。
アルファとオメガは匂いで恋に落ちるものなのだと、香倉はあの日、身をもって思い知った。
そう、自分は恋をしたのだ。オメガに。それも年下の男の子に。
§
休日はもちろんのこと、平日も仕事の合間を見計らっては、運命の彼がいた例のコーヒーチェーン店に香倉は通いつめた。
十日ほど空振りが続いて。
そろそろ別の方法を模索すべきかと焦燥感に駆られつつ店を訪れた、ある雨の日。
扉を開けた瞬間に鼻腔を掠めた甘い匂いに、鼓動が高鳴った。
……やっと、また出逢えた。
甘美な匂いに導かれ、店の奥に迷わず進んでいった。
香倉自身の意思でオメガのフェロモンを追いかけた先に、黒髪のあの男の子の背中を見つけて。
じんわりと胸に広がる甘酸っぱいものを、香倉はしっかりと噛み締めたのだった。
――「きみの名前を教えて欲しいな」
――「圭人くんはそこの大学の学生さん?」
――「何学部? どんなことを勉強しているの?」
――「休日は何をして過ごしてる?」
――「この店にはよく来るの? そう、おれもだよ」
ひとつひとつ、彼を知っていくことが嬉しくて。
香倉はついつい、あれこれと訊ねてしまった。
高槻圭人くん。
ここから程近い私立大学の三年生。年は香倉よりも五つ下の二十一歳。
知り得た情報をすべて心に刻み付けていく。
視線を絡ませ、互いの顔を見て言葉をやり取りできるだけで、こうも舞い上がってしまうなんて。
テーブル越しに向かい合って座る彼を――圭人を、隅々まで眺めていく。
触り心地の良さそうな黒髪、やや白く滑らかな頬、黒目がちな瞳、桃色の薄い唇。
さっぱりとした印象ではあるものの、これといって欠点のない愛らしい顔立ちをしている。
喉仏のある華奢な首筋や、骨張った細い指など、女性とは違う男性らしさを感じさせる部位でさえも、香倉にとってはどれも魅惑的だった。
なによりも、圭人の周囲にはあの甘美なフェロモンが漂っていて。
一緒にいられるだけで、天にも昇る心地がした。頬に浮かんでくる笑みを抑えることができない。
まだこちらを警戒しているのか、やや緊張した面持ちのまま食事をする圭人を、香倉は微笑ましく見守った。
(……ああ、可愛いな。おれはきみを取って食ったりなんかしないのに)
(優しくしてあげたい。警戒なんてしないで笑ってほしい。きみの笑顔をこの目に焼き付けたい)
詳しく話をきいていくと、彼はつい最近、バース検査をやり直したのだという。
きっかけは言わずもがなだろう。
二次性の再検査をした結果、圭人はベータではなく、オメガであったことが判明したそうで。
香倉としては予感していたことではあったものの、圭人はまだ、その事実を受け止めきれていないようだった。
「じゃ、今はまだ親しくしているアルファはいないんだよね?」
一番重要なことを、平静を装って訊ねてみる。
圭人から他のアルファの匂いはしないし、相手がいるのだとしても香倉は譲る気なんてとうにない。
彼は一瞬迷うような気配をみせたが、一つ頷いた。
「今から探すようにと親には言われています、ね」
「――なら。おれもアルファだし、いずれ番になるのだからおれで良いだろう?」
「いや、そう言われても……」
運命のアルファを前にしているはずなのに、圭人の反応は香倉が望むものには程遠い。
香倉が見目の良さをアピールして誘いをかけてみても、「どう?」と迫ってみても、圭人は逃げ腰な態度であることが明らかで。
香倉は内心で首をひねった。
(恋人はいないって言っていたけれどな)
……自分のアルファとしての魅力が乏しいのだろうか。
オメガだと判明したばかりでまだその気になれないとか?
もし女が好きだと言われたら香倉には打つ手がない。
周囲の関心を惹きつけてやまないこの顔もスペックも、まさか圭人の前では意味がないのか?
(……いや、もしかしたら彼は運命だと理解していないのかも)
香倉がそうであったように、運命の番である二人は出逢った瞬間にそれを理解する――と、よくいわれてはいるけれど。
圭人はまだオメガ性にも目覚めていない、いわばオメガの雛鳥だ。
彼の本能が、香倉を特別だと認識できなくても不思議じゃない。
ある可能性に思い至った香倉は、周囲に他に客がいないことをさっと確認して。
…………その上で少しだけ、本当に少しだけ、自分のフェロモンをこっそり圭人に当ててみた。
(え。反応ないの?)
もう一度だけ、試してみる。
香倉自身がやられたら怒り狂うであろう悪質行為なので良心が傷んだが、心の中で圭人に謝って、今度はほんの少々強めの発情香を放ってみた。
だがやはり、運命の彼に異変は見られない。
「きみ、本当に何も感じていないのか……?」
「はぁ。オメガとして未成熟らしいので」
よくわかっていなさそうな様子で圭人が小首を傾げている。
これは本格的に何も感じていなさそうだと思った。運命を感じるどころか、彼には発情の気配さえみられない。
今まで圭人がベータとして生きてこられたというのも、恐らくそのあたりが要因としてあるのだろう。
――運命も、性的魅力も感じてもらえない。圭人の身体が未成熟であるがゆえに、自分はアルファとしての優位性さえ保てない。
由々しき事態だった。
目の前の特別なオメガを諦めるつもりは毛頭ないが、彼をどう落としていけばいいのか、香倉にはまるで方法が思いつかない。
(……いや待て。いっそ都合が良いんじゃないのか? おれは彼に普通に惚れてもらえばいいのだから)
アルファとオメガだから、こうして巡り合えたのだとしても。
彼に好きになってもらう理由は「アルファだから」じゃなくても良い。
時間がかかったとしても……アルファだからこそ、香倉はいつだって圭人に選んでもらえる可能性があるのだから。
導き出した結論に小さく数回頷くと、香倉は気持ちを新たに圭人へと向き直った。
「――じゃ、わかりやすくおれのセールスポイントでも伝えてみようかな」
「は?」
「きみにアピールするチャンスを、おれにも頂戴?」
呆気に取られている圭人を見つめ、香倉は胸の内で決意を込めて呟いた。
……絶対にきみを落とすよ。
一度決めてしまえば、もう迷わなかった。それからはぐいぐいと自分を売り込んでいき、アピールして、なんとか連絡先を聞き出すことに成功した。
ギリギリまで圭人との時間を過ごし、後ろ髪を引かれる思いで香倉のほうが先に店を出て。
会社に戻ってくる頃に、懐に入れてあったプライベート用のスマートフォンが振動した。取り出して、画面を見た瞬間に嬉しさが爆ぜる。
にやけてしまう口元を片手で覆い隠し、歓喜に酔いしれた。
(まずいな、嬉しすぎて挙動不審かも)
どうやっても緩んでしまうだらしない顔面を何度も引き締め、弾む気持ちのまま、香倉は上階に向かうエレベーターへと滑り込んだのだった。
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