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しおりを挟む黒塗りの高級車を料亭の前で見送ってから、香倉は駅へと足を向けた。
タクシーを呼ぶほどの距離でもない。酔いを覚ますためにも歩きたい気分だった。
雲の切れ間から覗く暗黒の空には、今にも闇に飲み込まれてしまいそうな儚い光が瞬いている。
……今年のクリスマスはできれば彼と過ごしたいと思っていたのに、現実は甘くない。
明日も仕事が詰まっているし、残業しなければならないことも確定している。
スマートフォンを取り出してみるも、画面には期待した表示はなく。落胆する自分を笑うしかなかった。
もう、夜の十時半を過ぎている。
――連絡を入れるのは迷惑になるかもしれない。彼は学生だし、病み上がりだ。
(圭人……会いたいなぁ)
発情期が終わり、帰宅したと連絡があったのが二日前だった。
電話越しに彼に「会いに行ってもいい?」と尋ねられたときは飛び上がりたいほど嬉しくて。
……しかし、あの夜と同じことを繰り返すわけにもいかず、香倉は泣く泣く彼の申し出を断ったのだ。
あの夜、圭人を襲った突然のヒートは、恐らく香倉のせいだった。――誘発ヒート。
抑制剤は飲んでいたが、運命に結ばれた自分たちの関係が、彼の体調に大きく影響を及ぼしたのだろうことは想像に難くない。
この半年、最愛のオメガが一日でも早く性的成熟を迎えることを香倉は願ってきたし、そうなるようにと、事あるごとに自分のフェロモンを圭人に纏わせてきた。
……だというのに、いざその好機を手にした瞬間、アルファの本能のまま突き進むことを躊躇することになるなんて。
(――馬鹿だよな、おれ)
革靴が路端の小石を掠めたようで、からからと小さなものが転がる音がした。
歩道の先にある信号機の青色が点滅を繰り返す。少しだけ歩調を緩めて、香倉はコート越しに染みてくる寒さに身を震わせた。
……ヒートに乗じてあの細い首を噛めば、すぐにでも彼を自分だけのものにできたのに。
ずっとそれを望んできたというのに、二の足を踏んでしまったのは。
――最愛の番に、後悔してほしくないと思ってしまったからだ。
彼に出逢えた奇跡を、香倉だけの幸福にしたくなかった。
幸運という名の檻に彼を閉じ込めるのは、違うだろうという気がして。結局、あの日は噛むことを諦めるしかなく。
(でもやっぱり……噛みたかったなぁ)
――たぶん人生で今が一番、アルファの本能に振り回されている。
香倉は足を止め、冬空を仰いで溜息をついた。
§
香倉の父親はアルファで、母親はベータだった。
育ってきた環境は、どちらかといえば一般的なベータの家庭に近かった。贅沢な暮らしぶりではなかったものの、苦労させられた記憶があるわけでもない。
父親はサラリーマンとして働いていて、優しいけれど病弱な母親は専業主婦としてほとんど家にいた。
両親は駆け落ち同然の恋をしたのだと聞いている。
母親は香倉が大学生の頃に既に亡くなっているが、その葬儀にさえ、親戚らしき人間は一人も来なかった。唯一の親族となった父親も今は海外にいる。
自分の家庭環境がアルファとしては少々珍しいものであると香倉が知ったのは、中学に入学してからだった。
アルファ性の人間というのは両親ともアルファ性であるか、母親がオメガ性である場合が圧倒的に多いらしい。
社会を牽引していくのがアルファの使命なのだと聞かされていても、それはテレビや新聞やネットの世界でのことで、どこか自分からは遠い話のように感じていた。
――香倉にとって身近なアルファというのは父親だけであったし、その父親は穏やかな性格ではあったものの、母親以外は眼中にないような人だったので。
自分のアルファ性を強く意識する事件が起きたのは、中学二年の冬のことだった。
オメガ性の女生徒が、授業中に突然ヒートを起こしてしまい、同じ教室にいた香倉も巻き込まれかけたのだ。
脳みそを直接揺さぶってくるような甘ったるいオメガのフェロモンを、その時初めて感知して。
理性で抵抗しようにも、アルファの本能に太刀打ちできない非力な自分を思い知った。――ひどい衝撃だった。
それまではあまり意識することのなかった自分のアルファ性をまざまざと突き付けられて。
……卑しい獣のような己の本性を、他者に強引に暴かれたような絶望的な気分に陥った。
アルファ性の負の側面というものを嫌というほど痛感して。
――自分を自分ではない卑しいものに変容させてしまうオメガのフェロモンを、それから香倉は恐れるようになったのだった。
オメガ性の相手には慎重に接するようになった香倉は、高校は家から通える範囲にあったアルファの名門校を選んだ。
年頃のアルファの男たちはオメガに興味を持つ者も多くいて、一貫してアルファやベータの女としか交際しない香倉は「オメガ嫌い」と揶揄されたこともある。
オメガのフェロモンを回避することに躍起になっていた部分はあれど、香倉がオメガを嫌悪し憎悪していたのかというと、そうではなくて。
「オメガが嫌いなのか」と訊かれるたびに、香倉ははっきり否と口にしてきた。
拭いきれないトラウマが自分をいつまでも臆病にさせているのだと、香倉自身も自覚はしていて。
それをオメガや、かつてのクラスメイトのせいにするつもりは毛頭なかった。
たまに見知らぬオメガにフェロモンを当てられても、その時は怒りこそすれ、彼らを哀れむ気持ちのほうが次第に勝ってくる。
ただ、互いが人間らしくあるために、アルファとオメガは一定の距離を保つべきだと本気で考えていた。
自分のアルファの本能から目を背けたまま、香倉は大学を卒業し、とある上場企業に就職して。
社会人として忙しくも充実した日々を送っていた。
――しかし香倉の人生は、あるオメガとの出逢いによって、再び大きく根底を揺るがされることになるのである。
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