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第30話

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 昼を過ぎても、ふわふわとした綿雪が降り続いていた。
 九藤が手配してくれた車両は今回も上質な乗り心地で恐縮するほどだったのだが、住宅街の道路はほとんど除雪が間にあっていないらしく、幹線道路を外れてからはガタガタと悪路に揺られながらの移動となった。

 淡黄色の要塞のような壁面に沿って融雪剤を撒かれた道を歩いていくと、今や通い慣れたサロンは雪に埋もれていた。
 これが夜ならばきっと幻想的な光景が広がっていたことだろう。
 しかし今は白い空の下に、雪に覆われた白い建物群がいつもよりぼんやりと並んでいた。庭園のあちらこちらで雪を背負った木々の枝が重そうにしなっている。

「やあ、すごい雪だね。ホワイトバレンタインだ」
 
 建物に入り、上着に付着した雪を払っていると後方から声をかけられた。
 圭人が初めてこのサロンを訪れた時から親切にしてくれる、金髪の年上オメガの青年――柊木ひいらぎだった。
 
 柊木も白いコートに付いた雪を払いながらエントランスに入ってくる。色白で中性的な美を持つ人であるが、彼の纏う白と金髪と黒い手袋とのコントラストが今日は妙に艶っぽかった。
 色気が増した様子の柊木をまじまじと見つめていると、ふわりと微笑まれる。

「ノゾムはこの前ぶり。圭くんも久しぶりだね。ふふっ、いろいろ聞いてるよ? 一日あたり十万だっけ、圭くんは相変わらず小悪魔だよねえ」
 
「…………え?」
 
「あっもう! 柊木さんってば!」

 慌てふためく九藤と、にこにこと意味深な笑みを浮かべる柊木に挟まれながら、上着と荷物を預けて。のんびりとした歩みで会場となっている大ホールへと向かう。

 圭人はすっかり忘れていたが、今日はサロンが主催するバレンタインのイベント日だったようで、荒れた天気にも関わらず建物内はたくさんの客で溢れていた。
 オメガ女性の参加も特別に許可されているらしく、サロンの雰囲気はいつも以上に華やかだ。そこかしこから女性特有の明るい笑い声が響いてくる。

「番のいないオメガってさ、イベントの参加も制限を受けることがあるでしょ? パーティーとか、結婚式とかさ」

 バレンタイン用に装飾された廊下を圭人が物珍しそうにきょろきょろと見回していると、横から九藤が話しかけてきた。
 
「でもね圭くん、仕方がないんだよ。お祝いの席で参加者が発情ヒート事故でも起こしたら大変なことになるからね」
 
「それに運良く番を得ても、外出もままならない場合もある。そういうオメガたちのために、ここのサロンは毎回盛大にイベントをやってくれるんだよね。先月も凄かった。ほら、このサロンのモットーって『オメガの楽園』だからさ」

 二人がそう教えてくれた通り、会場の光景は圧巻だった。
 至る場所に花が散りばめられ、ハート型の風船が浮かび、ふわふわとした白いヴェールがテーブルや壁面を華やかに演出している。
 濃いチョコレート色のテーブルクロスで覆われたそこには、花瓶やキャンドルとともにたくさんのスイーツが並べられていて、一際目立つ場所には大きくて存在感抜群のチョコタワーがそびえ立っていた。
 
 立食形式のスイーツバイキングのようだと思いきや、軽食やアルコールも用意されているようで、来場者が各々楽しい時間を過ごせるようにと考えられているのが伝わってくる。
 
「……すごいな」
 
「でしょ? まぁ今日は羽を伸ばそうよ。お説教はあとにしてあげる。ここは圭人みたいな、悩めるオメガのための場所だからね」

 そう言って機嫌よく軽く片目をつぶってみせると、九藤はうきうきとした様子で皿を持ってチョコタワーに突進していった。
 柊木もいつの間にかドリンクバーの近くで他の会員と語らいながらグラスを傾けている。
 
 煌びやかな会場を見回してみる。
 オメガしかいない空間ならば息抜きができるだろうという親友の思惑通りに、圭人は久しぶりに重責から解き放たれたような身軽さを感じた。

 万が一発情したとしても、同じオメガである彼らにはさほど影響を及ぼすこともない。
 周囲のゲストたちの笑顔がただ眩しい。周囲のものに気ままに心を傾けられる、余裕ある自分がただ嬉しい。
 ずっと心身を縛っていた緊張と不安がほどけていく。
 ――意地を張るあまり、日常に疲れ切っていた自分にもようやく気付いた。

(ベータの頃に……一年前に戻ったみたいだ)
 
 オメガだという男性ヴァイオリニストの優美な演奏を聴きながら、キッシュとクッキーを少しつまんで。
 それから圭人は、そっと会場を抜け出した。
 華やかな空間は夢のようだったけれど、いささか賑やかすぎて外の空気が吸いたくなってしまった。

 廊下を進むほど、空気がひんやりと冷えて澄んでいく。
 窓から中庭を覗けば、来たときよりも白い絨毯がさらに分厚くなっていた。煌びやかな時間ごと、積もった雪のなかに閉じ込められてしまいそうだ。

 ――オメガの身で項を噛まれたら、になってしまうのだと、なんとなく思っていた。

 だから初めて発情したあの夜は、圭人の首筋に執着をみせた香倉に本能的な恐怖を感じてしまって。
 ……退いてくれて、圭人の未来を一つも摘み取らずにいてくれた彼に救われたのだ。
 今の圭人がまだ持っているはずの、無数の未来。
 その無数の中から、今すぐ彼を選ばなくてはならない状況に陥って、自分が取りこぼす未来の多さに怖気づいてしまった。――これを一生の恋にしたいと、ちゃんと納得していたはずなのに。
 
(噛んでもらったら、前みたいな日常が戻ってくるのかな)

 一つの未来を選び取っても。
 そこは終わりではなく、また始まりがあるのかもしれない。
 無数の自由を抱えて家の中で怯えているよりもずっと可能性に満ちた未来が、その先にはあるかもしれない。でも、ないかもしれない。……どちらにせよ踏み出さなければ、何もこの手には掴めない。

 ごちゃごちゃしていた頭の中がクリアになっていく。
 圭人は背筋を伸ばし、ゆっくりと肺いっぱいに空気を入れた。指の先まで新たな空気で満たされたような心地になる。

 ――今日、帰ったら。香倉に連絡をして、事情を話そう。
 きっと、必ず。そうしよう。
 そして伝えるのだ。彼が好きだと。体調なんて関係なく、ただ好きだから噛んで欲しいのだと。

(そうだ……きっと、そう伝えるだけで良かったんだ)

 理想よりも尊いものは、いくらでもあるはずで。
 彼の気持ちがまだ自分に向いてくれているのなら、……未来の話もできたら良い。

 不思議とどこか憑き物が落ちたような、晴れやかな気分になっていた。
 
 Uターンして大ホールに向かう途中で、どこか慌てた様子で言葉を交わす数人のスタッフの姿を見かけた。スタッフの一人はすぐにどこかヘと走っていく。
 気にはなったが、声はかけずに会場に足を向けた。
 
 会場に戻ると、すっかり顔見知りになった同年代のサロンスタッフが圭人に気付いてくれて、「いかがですか?」とグラスに注がれたドリンクを勧められる。
 軽やかな気分のまま、頬が緩んで。礼を言って受け取り、口をつけてみる。林檎と炭酸の爽やかな味がした。

「これ美味いですね。甘すぎず酸味があって飲みやすい……」
 
「ありがとうございます。こちらは今回出資してくださっている会社さんから頂いたサンプル品でして――」
 
 少し話をして、他にお勧めの料理や菓子なんかも教えてもらって。
 同年代の彼が仕事に戻っていく後ろ姿を見送っていると、いつの間にか近くに来ていたらしい九藤に盛大に呆れた顔をされてしまった。

「……圭人ってさ、オメガ相手だと警戒感がなさすぎるよね。そのうち彼氏にキレられても知らないよ?」

「ははっ、どういうことだよ。そもそも史仁さんはそんな事で――」
 
 ちいさく笑いながらグラスを持ち上げたその時。
 ぞわり、と首筋を撫でる感覚があった。
 
 不愉快なそれは今や慣れた感覚ではあったものの、圭人は戸惑った。
 ――なぜ今、この場所で?
 言葉を途切れさせ、不自然にグラスを傾けたまま動揺する圭人の隣で、九藤は不思議そうにしている。

「圭人?」
 
「今、アルファの気配が……」
 
「え? そんなまさか! 僕は何も感じないし、ここはオメガ以外は……っ」

「そのはずだけど、近くにアルファがいる。俺だって信じられないけど……間違いない」

 圭人が冗談を言っているわけではないと察したらしい九藤は表情を強張らせ、慌ててスマートフォンを取り出して耳にあてた。
 ――信じてくれるらしい。
 オメガとしては九藤もアルファのフェロモンに敏感だが、圭人が今の体質になってからは、圭人のほうが段違いにフェロモンに反応する。

 そうこうしている間にも、ゾワゾワと全身の肌を掻き立てる不愉快な違和感が増していって。
 これはもう、間違いがなかった。
 理由はさておき発情する前に逃げなくては、と圭人が九藤の腕を引っ張って歩き出そうとしたその瞬間、建物内に警報音が響き渡った。
 
 大ホールにいるオメガ客たちが驚きと不安にざわめき立つ。
 それからすぐに一人のスタッフらしき男が会場へと飛び込んできた。不自然に顔を赤らめ、荒い息をなんとか制御し、彼は会場中に響き渡る大声で呼びかける。

 
「アルファの侵入者――――アルファテロですッ! 皆さん、早くお逃げください!」

 
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