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第25話

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 机の上に置いた腕時計を、圭人はぼんやりと見つめていた。
 年を跨いで贈られた香倉からのクリスマスプレゼント。ブランドのロゴが入った高級感漂う貼り箱に包まれていたそれは、シンプルかつモダンなデザインの腕時計だった。
 圭人の私服にも、スーツにだって似合いそうな、落ち着きのあるカラーに彼の気遣いを感じる。
 
 壊れ物に触れるように、皮のベルト部分をそっと撫でる。
 気楽に使ってほしいと言われたけれど、ザ・庶民の圭人がブランドものの時計を普段使いするなんてハードルが高くて、すっかり腕時計は鑑賞用と化してしまっていた。
 香倉がよく渡してくる高価そうな服だって、着るときは汚さないようにとかなり気を遣うのだ。
 
(この時計に見合うような自分になって、身に着けたいな)

 腕時計を丁寧に箱に戻し、蓋をして、引き出しの隅に戻す。
 かわりにその隣に置いてあった小さな布製の小袋を取り出して、そこから中身を取り出した。――香倉との会話を思い出す。

 
 先日のデートの帰り際、夕方の陽射しが差し込む車内で。
 隣のシートに座っていた香倉にもう一つ渡すものがあると言われて、圭人の手のひらに握らされたものがこの小袋だったのだ。
  
「マスターキー?」

「そう、きみのその首輪ネックガードのマスターキー。……今まで渡さずにいてごめん。これを首輪の裏に翳せばロックが解除できる。しばらくはそれで勘弁してくれないかな」

「……どうして急に……」

「恥を忍んで正直に言うと、本当は今も渡したくはないよ? ……けれど、あの夜きみの言葉を聞いて反省したんだ。これは確かにおれの為の首輪だった。ごめんね、圭人には長いこと不快な思いをさせてしまった。こっちがその首輪の説明書と保証書だ」
 
 男の突然の態度の変化に、圭人は当惑していた。
 あれだけ圭人の首輪を外すことを嫌がっていた香倉だ。喧嘩になって、威圧された記憶もまだ新しいのに、どういう風の吹き回しなのかと一抹の不安に揺さぶられた。

 戸惑うばかりの圭人に、男は眉を下げて微笑んで。それから言ったのだ。

「だってね、圭人。――きみはもう雛じゃないだろう?」

  
 ……あれから、ずっと。彼の真意を考えていた。
 深い仲になりたいと、改めて言葉にして伝えてきた香倉が、わざわざ束縛の手を緩めた意味を。
 ヒート直前に訴えた圭人の願いを尊重してくれたのであろうことは、間違いないが。
 
 小袋から取り出した金色に鈍く光る平たい板を摘み、黒い部分を首輪ネックガードの裏側に翳した。
 かちゃり、と音がして。途端に首が軽くなる。
 
 外れた黒い首輪をそっと机に置いて。
 圭人はノートパソコンを起動した。
 ――香倉がマスターキーを渡してくれたのは、やはり、圭人の自由を尊重するばかりではないような気がしている。
 
(たぶん、首輪……なのかな)

 ウェブページを開いて、目当てのものを探す。
 画面に表示された、首輪の商品画像をひとつひとつ覗いていく。――心は凪いだままだった。
 ほんの数カ月前にはあったはずの、装着への抵抗感や、気持ちが塞ぐ感じは、もう一切消えてなくなっている。
 それどころか、どこか弾みはじめた心を自覚して、圭人は自分自身の変化に気が付いた。前進できた自分が照れ臭くて、ふっと笑みが漏れる。
 
 番になるまで時間が欲しいと言ったのは圭人だ。
 だから、これだってきっと、圭人が自分で用意することがやっぱり道理であるのだろう。
 
 ふと視線を脇に落として。貰った時から肌身離さず着けてきた、黒い首輪を眺めた。
 この首輪もいいけれど、特別だけれど。……せっかく機会ができたのなら、他の首輪も試してみたい。
 一人前のオメガとして、今なら前向きに、首輪というものに向き合えるような気がするのだ。
 
 ――今度は、自分で選んだものを。

 
 §

 
 その日は、圭人は九藤と連れ立って大学内の図書館に来ていた。
 年が明け、試験シーズンが近付いていることもあって、講義によっては、課題の内容を事前に掲示してくれる教授もちらほらと出てきている。
 そういう講義ほど、課題が重いのは言わずもがなだ。

 既に内容が伝えられているレポート課題に役立ちそうな本を二冊ほど選び、貸出手続きをして。
 出入り口付近の空いている席に腰をかけ、圭人はパラパラと本を捲った。
 九藤の姿は近くにはない。きっとまだ書架のあいだをあちこち彷徨っているのだろう。
 
 大学一年、二年の頃は、試験前でもそれほど真面目に取り組んできたわけではなかった。
 しかしこうして余裕のある時期に試験準備をするようになったのは、授業に関しては生真面目な九藤の影響もあるし、単純に遊ぶ時間が減って学業にあてる時間が増えたためでもある。
 オメガと判明してもなお、今までと同じように大学に通わせてもらえている現状には、両親に感謝している。

(土日はなるべくあけておけるように……レポート課題は早めに終えたいな)

 まさかオメガだと判明した影響で、自分がこうも真面目な学生に生まれ変われるとは思わなかった。
 ましてこんな風に、恋人のために、自分のスタイルを変えようとしている自分自身にも驚きだ。
 以前の圭人なら、試験期間の土日はレポート漬けになっていたし、それ以外の選択肢なんてあり得なかった。
 
 ――「きみの匂いにもっと酔わせてほしいし、アルファとオメガらしく、もっと深い仲にも……」

 あの言葉を思い出して、頬に朱が走った。
 慌てて記憶を振り払って、目の前の本の内容に集中しようとするけれど。一度途切れてしまった集中は容易くは戻せない。
 
 ……自分の、特別なひと。
 圭人のことを特別だと言ってくれる、アルファの大人の男。

 いつか噛んでほしいと彼に願った圭人だけれど。
 ――噛んでもらうことと、番になることが同義ではないことは知っている。
 
 香倉はおそらく、圭人と人生を歩むことを考えてくれている。
 ならばせめて香倉の隣に立っても恥ずかしくないよう、背筋を伸ばして生きていきたいと思うのだ。
 彼よりも年下で、平凡で、特に胸を張れる長所もないこんな自分だからこそ。

(んー……ただ、大学は卒業したいしなあ)

(番になってもらうなら、卒業後のことも相談しないといけないのか)
 
 あれこれと思案していると、図書室の奥から大量の書籍を抱えた九藤が戻ってきた。
 予想はしていたものの、親友の細腕に抱えられた本の冊数に圭人は目を瞠った。軽く十冊以上はあるだろう。
 
「相変わらず、すごいな。こんなに借りてほかの講義は大丈夫なのか?」
 
「んー、好きな講義だし、いろいろ気になっちゃって。頑張って読むよ~。僕は就活もないから時間もあるし」

「院に行くんだっけ。……前回も思ったけど、ノゾムのその姿勢は本気で尊敬するわ」

「あはは。大袈裟だよっ」
 
 九藤は秀才だ。努力だって惜しまない。普段から講義には真剣に取り組む上に、試験前になると力の入れ具合が違うのだ。
 本人いわく、発情期ヒートで講義を休んでしまうぶんの挽回をしたいのだという。
 ただ、オメガだからと蔑まれたり、加点や特別扱いを疑われることを、九藤が人一倍気にしているのは圭人も知っている。
 
 図書室の入口近くにある、貸出手続き用の機械がようやく空いて。
 そちらに向かおうとしていた九藤だったが、何かに気付いたように圭人を振り返った。

「……ねえ、圭人」

「ん?」
 
「きみの、漏れてるような気がするよ? 薬があるなら、飲んでおいたほうがいいかも」

「――えっ?」

 声を潜めて告げられた内容に圭人は驚いた。
 慌てて九藤に頷いて、ばたばたと図書室を出て薬を胃袋に放り込む。
 ――ひどく動揺していた。
 香倉のことを考えていたせいだろうか?
 圭人が香倉以外の人間にオメガのフェロモンを指摘されたのは初めてのことだった。
 
 人の気配がほとんどしない廊下の隅で、数分ほど待機して。
 不安を拭えないまま、薬の効果を祈りながら図書室へと戻ろうとすると、九藤が圭人のぶんの荷物まで抱えて入館ゲートから出てきたところだった。

「ノゾム、荷物ごめん! ……あのさ、もしかして俺、今までも匂いが漏れたりしてた?」

「ううん、初めてじゃない? また気付いたら教えるけど、気を付けてね」
 
 九藤に気遣うように微笑みかけられて、圭人は自分も笑みを繕い、頷いた。
 荷物を受け取り、外へと向かう。
 そのあとは一日中、家に帰ったあとも、動揺が尾を引いていた。
 
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