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第18話

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 ホテルの裏口に到着すると、待機していたホテルスタッフに足早に中へと案内されて、専用のエレベーターで上階へ向かうようにと指示された。
 香倉に肩を抱かれて歩き、二人で小型の箱に乗り込む。身体がふわりと浮いて、上へ上へと運ばれていく。
 去り際に向けられたホテルマンからの視線も、ここに来るまでに浴びたいくつもの視線も、さほど気にせずにいられた。
 ――すぐ隣に香倉がいてくれたからだ。

 不幸中の幸いというべきか、処方されていた抑制剤は圭人の体内でそれなりに効果を発揮しているようだった。
 副作用のような眠気や倦怠感が出てきたものの、身体の異変もある程度はおさまり、周囲に混乱を引き起こすこともなく済んでいる。

 ――それよりも、気掛かりなのは。

「史仁さん、さっきからどこか……もしかして、具合悪い? 俺はもう大丈夫だから……」

「……あぁ、ごめん、何でもないよ。気にしないで」

 そうは言うものの、彼の息遣いは不自然に乱れている。
 異変を察知した圭人が次の言葉を重ねようとしたとき、エレベーターが目的の階に着いてしまった。
 ポーンという音とともに扉が開いた。深紅の絨毯の上を、香倉にリードされる形でゆっくりと踏みしめていく。

「おれのことよりも、圭人。……きみは今夜、どこまでの覚悟ができているのか聞いてもいい?」
 
「……え?」

 男は廊下の先を見据えていた視線を圭人に向けた。遅れがちな圭人に合わせて、更に歩調を緩めてくれる。
 少しばかり眉尻を下げた彼は、兄のような表情の中に自嘲の色を宿らせていた。
 
「おれはアルファだから、やはりきみを傷付けるかもしれない。……さっきの感覚からして、薬が切れたらおれは間違いなく衝動に負けるラットになる。理性を失ったおれは、きみに何をするかもわからないし、本能を退けられる自信も正直ない」

「それは……」

「その可能性まで全部含めて、きみはおれを求めてくれているって思ってもいいのかな?」
 
 頷くことができなかった。
 二人で過ごす発情期を覚悟していたつもりだった。
 だけど……改めて確認されて、決意が揺らぐ。
 圭人のしてきた覚悟というのは、単純に、男と熱を分かち合うためのものだ。
 ……行為の先で何かが生じる可能性も、目の前の男が理性を失うという事態も全く想定してはいなかった。

 香倉をもっと近くで感じたいという気持ちは本心だった。誰かに渡したくないという打算もあったし、同時に、一人で耐える発情期が怖かったというのもある。
 誰かを頼ろうとするならば、番候補である彼を頼るのが自然だと思っていたし、――香倉こそが、今の圭人にとっては一番に信頼できる相手でもあったから。
  
「……きみがずっと迷っていることは、わかっていた。踏み出してくれた決断が嬉しかったから……おれもきみを騙すようなことは、やめようと思う」

「……騙す?」

「アルファというのは、本能に抗えない獣だ。きみに会うのを避けていたのも、そういう理由で」

 獣、と吐き捨てるように落とされた言葉を圭人も舌の上で転がした。
 香倉が言わんとしていることを、動きの鈍い頭を働かせて追いかける。

「こんなこと言うつもりはなかった。……今だって迷ってる。だけどきみの望む未来は、……きっとおれの望むものと相容れない。気付いていたけれど、それでいいと思ってたんだ。……今まではね」

「えっと、どういう……こと?」

「おれは結構、アルファ的な願望が強いらしい。……本当はきみを一日でも早く番にしたいし、番にしたら……家に閉じ込めてでも、独占したい。だけど……それじゃきみは幸せにはなれないんだろう?」

 驚いて立ち止まりかけた足は、圭人の腰を抱き直した香倉に強引に促されて絨毯の上を難なく進んでいってしまう。……身体がさらに密着して、くらりと視界が揺れた。
 部屋の番号を視線で追っていた香倉は、とある部屋の前で立ち止まり、懐からカードキーを取り出した。ドアに差し込み、重そうな扉を押し開く。
 ぱっと部屋に明かりが灯り、背中を押されて通路を抜ければ、そこにはシンプルながらも品のある広い部屋があった。

 一台しかないキングサイズのベッドを目にして狼狽えて、立ちすくんでしまったところを、後ろから強く抱きしめられた。押しかかる力に負けてバランスを崩し、二人して白いシーツの上に倒れ込む。
 ……気付いたときには、ベッドの上でアルファの男に押し倒される体勢になっていた。

「え……」
 
 ――途端に緊張が走った。心臓が暴れだす。
 見上げた瞳は苦悶に満ちた色をしていた。その中に滲む欲を感じとり、当惑する。
 アルファの欲だ。――オメガを捕らえようとする、捕食者の気配。
 たちまち自分が獲物になった感覚に陥り、身体が凍る。……だけど、圭人の中のは違った。
 待ち望んだアルファの気配を察知したのか、期待するかのように後孔が濡れだし、くらくらとする目眩がぶり返す。抑え込んだはずのフェロモンまで漏れ出したのだろうか。――見下ろす香倉の表情に険しさが増した。

「……圭人。きみが今夜、番になっても良いと言ってくれるなら、おれは部屋を出る気はないよ。このままきみを抱いて、……恐らくラットになれば、本能のままきみを番にするだろう」

「番に……これ、から……?」
 
 圭人は息を呑んだ。香倉は冗談でこんなことは言わない。
 獣、ラット、願望……香倉の言わんとすることが頭の中で繋がっていく。
 いくら頑丈な首輪があっても、この首輪は香倉に対しての防御には向かない。彼は簡単に圭人の項を噛むことができる上に……準備のないまま彼の欲を直接胎の中に受ければ、子を孕む可能性があることを思い出す。子ができてしまえば大学や就活どころではなくって……きっと、アルファの彼の望みに近い形になっていく。
 
 ――番を望むアルファ相手に、軽はずみな誘いをしてしまったのだと理解したが、遅すぎた。

 ことの重大さに気付いて青くなったところで、すでに自分たちはベッドの上だ。
 断ってもいいものなのか、断れるのか……逡巡する愚かな自分を、香倉がじっと見下ろしていた。
 ――欲にまみれた美しいアルファが、呼吸を荒くして、目の前の獲物の返事を待っている。
 
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