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第17話 

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「その 首輪ネックガードは間違いなく、きみのためのものだ。自覚がないのか? オメガとしての成熟が近いきみが、今もどれほど甘い匂いを出しているか……!」

「っ、そうかもしれない、けど」

「頼むからこの時期に危険すぎる行動をとらないでくれ。少なくとも最初の発情期ヒートが終わるまでは、その首輪は外させない」

「……史仁さんだって、わかってるくせに。俺を信用できないから……この首輪は俺には外せないんだ」

 指摘すれば、香倉は怒りを滲ませながらも押し黙った。

「…………なんで、こんなに怒るくせに。じゃあ、どうして史仁ふみひとさんは俺を避けるんだよ? ……正直に言ってくれるって史仁さんが言ったのに。なんで嘘ついてまで、誤魔化すんだ……?」

 痛いほどの力で壁に押し付けてくる香倉にも、暴力的なまでの恐怖を与える威圧にも、もう挫けそうで。
 それでも胸に溜まっていた言葉はもう止めきれず、堰を切ったようにぽろぽろと落ちていく。
 
「俺はこの首輪をもらって嬉しかったんだ。だって史仁さんがくれたものだから。……でも、この首輪に縋るしかない自分が嫌だ。時間が欲しいんだ。いつまでも……簡単に不安に負けるような、情けない自分でいたくないんだよ……っ」

 公共の場での迷惑な痴話喧嘩に、何だ何だと周囲が視線を向けてきていた。
 香倉はひどく苦悶するような顔をしていたが、一度周囲に視線を走らせると、大きく溜め息をついて。
 ――途端に、圭人の身体にのしかかっていた重い威圧が消え失せた。
 
「場所を変えよう、圭人」
 
「史仁さん……お願い。一度首輪を外してほしい」
 
「その頼みはききたくない」
 
「史仁さん」
 
「…………わかったよ」

 もう一度大きな溜め息をついて、香倉は圭人の首元にある首輪ネックガードへとゆっくりと右手を添える。
 未練がましく、指先で一度首輪を撫でて。
 それから人差し指を裏に滑らせると、僅かにカチリと音がした。

「……ありがとう」

 無言のまま差し出された首輪を両手で受け取った。
 香倉はまだ険しい顔を崩していない。
 こうして圭人の頼みをきいてはくれたが、納得なんて微塵もしていないのだとすぐにわかった。
 
 今まで首輪があった場所に、久しぶりに空気が触れてすーすーとした。
 そっと首筋に触れてみる。何も纏わない軽やかな首が、ひどく懐かしかった。
 自然と表情がほころんでしまう。そんな圭人の様子を、男は苦虫を噛み潰したような顔で見下ろしていた。

 外した枷の代わりとでもいうように圭人の右手を掴み直した香倉が、ぎゅうと強い力で彼の心情を伝えてくる。

「……圭人。今日は必ず家の前まで送る。心配なんだ」

「うん、ごめんなさい。……タクシーのほうがいい?」

 男は重々しく頷くとゆっくりと壁に右手をついて、身をかがめた。
 ――曝け出された圭人の首筋に、香倉は薄い唇を押し付ける。彼の眼鏡のフレームが、ほんの僅かに圭人の肌に触れた。

 驚く圭人に視線は寄越さず、香倉は自分のビジネスバッグを拾うと圭人の手をぐいぐいと引っ張って歩き出した。
 男を追いかけながら圭人も階段を上って、改札を出て。
 外に出てから緩やかになった歩調に少しだけ安堵しながら、歩いてタクシー乗り場を目指していたとき、ふと――違和感を覚えた。

(何か変だ……なんだか、頭がくらくらして……身体が熱いような)

 ふと目の前の彼のフレグランスが鼻腔を擽って、ほとんど同時に眩暈が増した気がした。
 ――そういえば、この駅に着いた頃からどこか体調が変だった。身体が怠く、足元がふわふわとした心地があって……。

 まとまらない思考が見えそうな答えを隠してしまう。
 強くなる違和感と格闘していると、香倉が苦しそうに眉を寄せて振り返った。

「……圭人。きみ、急に匂いが」

「匂い? ――えっ、まさか」

 瞬間、圭人はある可能性に思い当たって足を止めた。
 ……始まりは風邪のような熱っぽさだと、耳にしたことがあった。
 オメガの身体が急激に熱を孕み、周囲にフェロモンを撒き散らすというその症状は。
 慌てて周囲に視線を走らせた。この駅周辺は飲み屋も多いから、この時間でも人通りはまだまだ多い。
 
 ――『逮捕なんて、されたくないでしょ?』
 
 いつだったか、九藤が言っていた言葉が脳裏に蘇った。
 公共の場で発情したオメガがどうなるか。いくつものニュースが頭の中を駆け巡って、焦りを掻き立てる。

(駄目だ、こんな場所で発情ヒートなんて絶対に……!)
 
 しかしなぜ今なのか。――医者の予想よりもこんなにも早く。
 圭人は震えた。背中を嫌な汗が流れる。状況を読まずに、着々と成熟していくオメガとしての己の身体が心底憎らしい。
 青褪め立ち竦む圭人に、香倉も異変を察したらしい。すぐに背中を抱かれ、あまり人のいない一角へと誘導される。
 ――だけど香倉の存在を意識するたびに、身体がもっと熱を上げるような気がした。

「はぁっ、はぁ……っう、はあ……っ」
 
 落ち着こうと何度深呼吸しても呼吸がちっとも整わず、身体が急激な変化を遂げていく。
 尻のほうで濡れる感覚があった。下半身に熱が集まっていく。唐突に火がついてしまった場違いな性欲に圭人は戸惑った。――間違いない。

(どうすればっ。ああ、とにかく抑制剤を……っ)
 
 焦るあまり、指先がもたついて。
 持ち歩いていた抑制剤を鞄から取り出そうとして、ケースごと地面に落としてしまった。
 慌てて拾おうとするあいだにも呼吸が荒くなっていき、僅かな距離が遠かった。暴れだしたオメガの身体を止められない。視界が揺れ、思考もままならない。
 激しい体調の変化に翻弄されて、ついに地面に膝をついた。
 気持ちばかりが焦ってしまう。身体の不調に、性欲に、未知の恐怖に追い詰められてゆく。


「――――はぁ、圭人っ。……落ち着いて」


 絞り出した苦しげな声が近くから聞こえて、弾かれたように顔を上げれば。
 右の太腿に細長い物体を突き刺したまま、香倉が厳しい表情でこちらを睨んでいた。
 ……握りしめているのは形状からしてアルファ用の抑制剤だろう。それも恐らく緊急用のもの。

(そうだ……彼はアルファで……!)

 離れてくれ、と口にしたいのに、はくはくと空気が漏れるばかりで音にならなかった。
 香倉は呻きながらも突き刺していたものを引き抜くと、乱雑に鞄に投げ入れる。
 よろよろと立ち上がった香倉は、圭人が落とした小ぶりのケースを拾い、「これで良い?」と確認をとって一粒のカプセルを取り出すと、圭人の唇の上に差し出した。
 
「大丈夫だ……おれを信じて。……ちゃんと守るよ、そのためのきみのアルファだろう?」

 彼とて肩で大きく息をしている状態だ。アルファの衝動を薬と理性で強引に捻じ伏せているにすぎない。
 オメガのフェロモンを近くで浴びた彼は相当にキツいだろうに、香倉は既にその顔に凄みのある笑みを浮かべていた。

 躊躇しつつも圭人が唇を少しだけ持ち上げると、カプセルが口の中に転がり込んでくる。抑制剤を口に含むと、香倉は鞄から小型のペットボトルを取り出してきて、ミネラルウォーターを飲むようにと促された。
 ……朦朧とする頭でも感心するほどの準備の良さだった。

「はぁ、は……っ、史仁さ……っ、貴方こそ退避しないと……」

「しないよ。きみの傍を離れたりしない。……おれはきみの番になるアルファだよ。誰にも、指一本だってきみに触れさせたりしない――きみに触れていいのはおれだけだよ」

 荒い呼吸の中でも確かに聞こえた低い呟きに、圭人は瞬いた。アルファの男の無謀な独占欲に困惑する。
 戸惑う圭人を傍に置いたまま、香倉はどこかに電話をしはじめた。
 視線を走らせて周囲を警戒し、機械越しに誰かと話しながらも、男は片手で圭人の鞄を探って首輪ネックガードを取り出して。
 ――蹲る圭人の曝け出された項に、男の指がそっと触れる。
 不調を必死に耐える圭人の耳元で、カチ、と微かに音がした。
 
「――換気設備の整ったホテルに空きがあったから、そこに向かおうか。近くだし、迎えもすぐに来るよ。大丈夫? ……もしもまだ覚悟を固める時間が欲しいなら、おれはきみとは別々に部屋をとっても構わない」

 そう言って立ち上がったアルファの男の動作には既に余裕があった。
 いつも通りの穏やかさを繕った凛とした眼差しが、真っ直ぐに圭人を射抜いた。
 
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