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第8話

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 天井を見上げ、昨日の出来事を思い返す。
 しん、と静まり返った家の中はあの会場の熱狂には程遠く、夢を見ていたような心地になる。

 日曜の昼間であるというのに、家は静けさに沈んでいた。
 圭人の母は買い物に出掛けていて、父は会社の付き合いだと言って朝からゴルフクラブを背負っていった。

 姉の紗江子はつい最近、この家を出て一人暮らしを始めている。
 ――結局、紗江子が家を出ていくまで、姉弟として言葉を交わすことは一度もなかった。
 荷造りの手伝いも、見送りさえも母親経由で拒否されたので、姉の引っ越し当日は圭人は朝から家を出ていた。

 母親によれば、姉のあのオメガ嫌いは過去の交際に起因しているようで。
 姉が当時付き合っていたベータの彼氏を、女オメガの後輩が発情して奪っていくようなことがあったのだという。

 だけど理由がわかったところで、圭人にはどうすることもできなかった。
 自分のために姉の価値観を変えてくれというのも、あまりに図々しい。
 姉の機嫌をとるために、オメガになってすみませんと頭を下げたり、許しを乞うなんてのも当然違う気がした。

 ……兄弟は他人の始まりとはよく聞くけれど、きっとこれが自分たち姉弟の岐路だったのだ。

 虚しいものは残るが、圭人としても、どうにかしたいという熱いものは胸にわかなくて。
 両親も姉の態度には仕方がないと諦めているようだった。

 ――ただひとつ言えるのは。

(姉ちゃんみたいな人が、運命の相手じゃなくて良かった)

 拳を軽く握り、両腕で視界を覆う。
 昨日の帰り道で、あの人が口にした言葉が耳の中でこだました。アルファだけれど、こんな自分にも親切にしてくれる、大人の男。

 ――『男でもきみはオメガだろう? おれにとってきみは、大事にしてあげたい対象なんだよ』

 紗江子の言動は圭人の心の深い部分を痛めつけたが、だけど同時に、圭人は自分の幸運を自覚しないわけにはいかなかった。
 オメガである圭人の人生に今後大きく影響を与えることになるのは、きっと姉ではなく、番になる相手のほうだ。


 ふと視線を流せば、洗濯し終えたばかりの借り物のタオルが綺麗に畳まれて机の中央付近に置かれている。
 圭人は拳をほどいた左手を伸ばすと、白い上質なタオルの横に置いてあった分厚い本を掴みとった。
 ベッドに寝転がってぱらぱらと捲っていく。

 オメガについて詳しく解説された真新しい書籍だ。
 ベータである自分たちではあまり力になれないからと、圭人のために母親が書店で購入してきてくれたもの。

 目次を軽く視線で追って、ページを捲る。

 人体図が出てきた。
 自分をベータだと信じて疑わずに生きてきたのもあって、オメガだけでなく、アルファの生態というものにも疎い自覚はあった。
 同じような男性体が三つ並ぶが、腹周辺の身体のつくりに違いがある。

(オメガってことは……この腹にも命が宿るのか。嘘みたいだけど)
 
 服の上から薄い腹をなぞってみる。実感が全くわかなかった。
 
 ぱらぱらとページを捲っていく。

 本の中盤には、運命の番と呼ばれる関係について記述があった。
 夢物語ではなく、実際に存在するものらしい。
 科学的な根拠には乏しいが、運命の番と呼ばれる一対であるアルファとオメガは、互いを一目見ただけで特別な関係を認識しあうのだという。

 ――圭人をそう形容した香倉をまた思い出す。

 真実彼が特別な存在なのだとしても、特別なというものを、圭人はまだ一度も彼に感じたことがなかった。

(……まだ、ちゃんと身体ができてないせいかな)
 
 圭人はオメガとしての成熟が大きく遅れている。
 本来ならば十代後半で成熟を迎えるはずのオメガとしての身体が、二十一歳になった今もまだ完成していないのだ。

 そのせいか、平均的なオメガと比べると、圭人は少々特異ともいえる体質になっているようだと、医師には指摘されていた。

 特にフェロモン関係器官の発達が非常に遅れているのだという。

 圭人は一般的な成人オメガと比べると、アルファのフェロモンを感知する嗅覚が非常に鈍く、また、自らのフェロモンの分泌もかなり抑えられているようだ、と。

 すなわち、医師の推測ではあるものの、現段階で圭人はアルファの発情香というものが非常に効きにくい体質であるそうで、圭人自身が出すフェロモンもほとんどのアルファはまだ感知できない程度なのだという。

 圭人が今までベータとして生活できていたのは、そういった成熟の遅さからくる幸運もあったのだろうと、医師には言われていて。
 その診断に納得していたし、未成熟な己の身体に対して、ひそかに感謝さえしていた。

 ……だって、オメガとしてはダメでも、圭人としては困ることもない。

 ベータに近いオメガなのだと知って、寧ろ救われた気持ちがしたのだ。――ただし成熟が進めば、いずれこの特異な体質は消えてしまう。
 発情期もまだ数ヶ月はこないだろうといわれていたが、遅くとも来年のうちには、初めての発情期を経験することになるだろうというのが医師の予測だった。

 今こうしているあいだにも、圭人の身体は刻一刻とオメガの成体を目指して進化を続けている。

(怖い、な。……俺の身体はどうなっちゃうんだろう)
 
 それでも救いはある。――圭人には香倉がいるから。

 圭人が病院を受診した経緯を踏まえて、実は医師にもう一つ指摘されたことがある。
 ――現段階で圭人のフェロモンを感知できるアルファがいるとするなら、その相手はよほど嗅覚が鋭いか、特別な相手である可能性が高い、と。

 香倉にそれを伝える気持ちにはまだなれないが、医学的にも、運命的なものを半ば証明される形になってしまった。
 
(フェロモン、か)

 昨日、渡してくれた白いタオルにもう一度視線を投げた。
 なんとなく、それを手にとってみて……嗅いでみる。
 触り心地の良い上質な布地には、まだ仄かに香倉の香水の匂いが残っているような気がした。

 ――圭人はそこで我に返って、自分の行為に赤面した。

(何やってんだよ俺……)

 でも。彼が本当に自分の運命であるというのなら気になってしまう。

 ……香倉のフェロモンはどんな匂いがするのだろう?
 
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