38 / 88
初夏の涼風の章
嘆きと諦め
しおりを挟む「旦那様、奥様がまた……」
使用人の声で、シグルド・ブレイア・マギシェンは浅い眠りから目覚めて、反射的にベッドから飛び起きる。
今日も妻はかんしゃくを起こしているのだろうか。それとも怖い夢でも見たと泣いているのだろうか。
「今日はまたどうした」
「はい、ヴィクトール様がいないと泣いておいでです」
思わずシグルドは頭を抱えた。
ヴィクトールなら、ドールドレス職人に型紙などを作るためにということで預けたのだ。
「旦那様、どういたしましょうか、その」
「どうもこうもないわ、アリアの部屋へ向かう。ガウンをよこしなさい」
ガウンの腰紐を結びながら、大股で廊下を歩く。
廊下の大きな窓にはすでに明るくなり始めていた。どうやら夜明けが近いぐらいの時間らしい。
それほど歩くこともなくアリアの部屋の前にたどり着き、シグルドはドアを開けた。
部屋の中は相変わらず……いや、いつもよりもさらに酷い状態だった。
カーテンやベッドリネンはぐちゃぐちゃ、クローゼットからはめちゃくちゃになった衣類がはみだし、ぬいぐるみや絵本が散乱している。
そして、アリアは部屋の中央で、看護師兼メイドのレリーチェに向かってぬいぐるみや本を投げつけていた。なにか硬いものでも投げつけられたのか、レリーチェの額からは血が流れていたのだが、レリーチェは根気よくなにかをアリアに向かって話し続けているようだった。
「アリア! やめなさい!」
小さな花瓶を手に持ち投げつけようとするアリアを、シグルドは後ろから抱きしめるように抑える。
「シグルド……ヴィクトールが、私のヴィクトールがいないのよ、きっと誰かが私からヴィクトールを奪ったんだわ。また奪ったんだわ……」
「誰も、奪ってなどいないよ。大丈夫だよ。ヴィクトールはドールドレス職人が預かってくれているんだよ。すぐにヴィクトールは帰ってくるから、そう、明日にでも帰ってくるさ」
そうアリアの耳元でささやくと、アリアは少しだけ力を抜いてくれた。
「本当に、帰ってくるのね。『あの時』みたいな姿で、帰ってくるんじゃないのよね?」
「あぁ、そうだよ。大丈夫だ。さぁ、いい子だからもう眠ろうか、アリア」
「そう、ね……なんだか疲れてしまったし、眠るわ……。ねぇシグルド、私をベッドまで運んでくれるかしら?」
妻のアリアが甘えるような声音でおねだりをしてくる。こんなときの返答など、ひとつしか無いに決まってる。
「仰せのままに」
リネン類がぐちゃぐちゃだったベッドは、メイドたちの手よってすでに整えられていた。アリアのお気に入りのぬいぐるみたちも、枕のそばにそれぞれ座っている。
アリアを丁寧にベッドに横にさせて、薄い布団をかけてやる。
「それじゃあアリア、よくおやすみ」
「おやすみシグルド」
眠る前のキスを交わして、シグルドはアリアの部屋を静かに出る。
ドアを閉じきった瞬間、深いため息が漏るのは抑えようがなかった。
さて、ほとんど夜明けに近いこの時間だ。確かに身体は疲弊してはいるが、シグルドは休む気になどなれなかった。
……自室に茶でももってこさせよう、濃いめに淹れたモルグネ紅茶あたりがいい。
自室のソファに身体をあずけ、ミルクティーにしたモルグネ紅茶を飲み、シグルドは目を伏せた。
こんなときは、少し考え事をしたかった。
――自分たち一家が、どうしてこんなことになってしまったのか――
シグルドとアリアの出会いは社交界でだった。
当時のアリアは美しい栗色の髪の美少女で、社交界では誰が彼女の心を射止めるのか、それは話題になったものだった。
シグルドは始めは軽い気持ちで、彼女に近づいた一人だったが、次第に彼女に心惹かれ――そして求婚した。
「お受けいたします、シグルド・ブレイア・マギシェンさま」
跪くシグルドの手を取り、そう言ったアリアは、とても美しかった。
そして貴族としては短い、一年ほどの婚約期間を経て、シグルドとアリアは結婚した。シグルドの父が亡くなったので、急遽婚約期間を短くしたのだ。
そう、アリアは結婚すると同時に、いや、その前からすでに、跡取りを生むプレッシャーに苛まれていた。
彼女の思いが天に通じたのか、アリアは結婚半年ほどして懐妊、十月十日を経て、子供たちが生まれた。
……子供は、女の双子だった。
それも姉は人間、妹は子供を授かることのない種族ジュエリゼとして。
マギシェン家の掟では、女児を跡取りとして育てるならば男の名前を付けて男の服装をさせて男として育てなければならない。
「……今思うと、それが全ての過ちだったのかもしれないな」
シグルドとアリアは、姉娘ヴィクトリアだけを男のように育てることを決意した。
そして子を成せないジュエリゼである妹娘ウルリカは、女の子として育てることにした。
「ウルリカには、子供が産めなくとも、せめて、せめて女性の幸せを与えてやりたいと思ったのに……このざまだ」
アリアは出産で身体を悪くして、次の出産には耐えられそうになかったので、次の子供が男の子であることを期待することすらできなかったのだ。
ヴィクトリアはヴィクトールという名前で呼ばれ、立派に成長した。立派に、そう、自分たち親は思っていた。
「だが、どこかしらでひずみは出るものだな……」
ヴィクトールが14歳の夏だった。
……ヴィクトール、いや、ヴィクトリアがこの別荘で行方不明になった。この別荘の近くにある農村の青年とかけおちしたのだ。
ヴィクトリアとその青年はすぐに見つかった。
……アルフェンカ湖から、無残な姿で引き上げられたのだ。
アリアは、ヴィクトリアが行方不明になってからずっと不安定な様子でいたのだが、湖の魚たちにさんざん食い荒らされたのであろうヴィクトリアの服を着た遺骸を見て、とうとう心が壊れてしまった。
そして妻アリアは、あのように子供のようになっていき――
「失礼します、旦那様」
涼やかなリンとした声とともに、部屋の重たい扉が開かれる。
この鈴のような声はアリアの看護師兼メイドのレリーチェだ。
レリーチェは看護だけでなく医術の知識も大したもので、心が壊れてしまった妻アリアの世話をいつもよく見てくれている。彼女の働きにもにもいずれ報いなければいけないだろう。
「奥様がとてもうなされておりましたので、いつものお薬を使いましたが、よろしかったでしょうか?」
「あぁ、構わない。妻が心安らかに眠ってくれるなら、なんでも構わない……」
レリーチェは緑色の瞳を細める。喜ぶような、憐れむような、悲しむような、そんな瞳だ。
「よろしければ旦那様にもお薬をお持ちしましょうか? それは、とても――とても幸せな気持ちでよぅく眠れるお薬でございますよ」
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄される前に私は毒を呷って死にます!当然でしょう?私は王太子妃になるはずだったんですから。どの道、只ではすみません。
つくも茄子
恋愛
フリッツ王太子の婚約者が毒を呷った。
彼女は筆頭公爵家のアレクサンドラ・ウジェーヌ・ヘッセン。
なぜ、彼女は毒を自ら飲み干したのか?
それは婚約者のフリッツ王太子からの婚約破棄が原因であった。
恋人の男爵令嬢を正妃にするためにアレクサンドラを罠に嵌めようとしたのだ。
その中の一人は、アレクサンドラの実弟もいた。
更に宰相の息子と近衛騎士団長の嫡男も、王太子と男爵令嬢の味方であった。
婚約者として王家の全てを知るアレクサンドラは、このまま婚約破棄が成立されればどうなるのかを知っていた。そして自分がどういう立場なのかも痛いほど理解していたのだ。
生死の境から生還したアレクサンドラが目を覚ました時には、全てが様変わりしていた。国の将来のため、必要な処置であった。
婚約破棄を宣言した王太子達のその後は、彼らが思い描いていたバラ色の人生ではなかった。
後悔、悲しみ、憎悪、果てしない負の連鎖の果てに、彼らが手にしたものとは。
「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルバ」にも投稿しています。
元侯爵令嬢は冷遇を満喫する
cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。
しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は
「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」
夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。
自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。
お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。
本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。
※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
【完結】ドアマットに気付かない系夫の謝罪は死んだ妻には届かない
堀 和三盆
恋愛
一年にわたる長期出張から戻ると、愛する妻のシェルタが帰らぬ人になっていた。流行病に罹ったらしく、感染を避けるためにと火葬をされて骨になった妻は墓の下。
信じられなかった。
母を責め使用人を責めて暴れ回って、僕は自らの身に降りかかった突然の不幸を嘆いた。まだ、結婚して3年もたっていないというのに……。
そんな中。僕は遺品の整理中に隠すようにして仕舞われていた妻の日記帳を見つけてしまう。愛する妻が最後に何を考えていたのかを知る手段になるかもしれない。そんな軽い気持ちで日記を開いて戦慄した。
日記には妻がこの家に嫁いでから病に倒れるまでの――母や使用人からの壮絶な嫌がらせの数々が綴られていたのだ。
[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで
みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める
婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様
私を愛してくれる人の為にももう自由になります
比べないでください
わらびもち
恋愛
「ビクトリアはこうだった」
「ビクトリアならそんなことは言わない」
前の婚約者、ビクトリア様と比べて私のことを否定する王太子殿下。
もう、うんざりです。
そんなにビクトリア様がいいなら私と婚約解消なさってください――――……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる