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序章

月星の加護は無く

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 それは月星さえもみえない夜だった。



 大きな雨粒たちに覆われた真夜中の街を、疾走する影がひとつ。
 肩までの波打つ金の髪をふりみだし、青い瞳をゆがませ、白い夜着につつまれた若さにみちたしなやかな体をがむしゃらにただひたすらに走らせているのは、まだ十四歳になったばかりの少女。
 彼女の名をメルレーテ・ラプティ、同じ学院の友人たちからはメルと呼ばれている。
 もっとも、その学院にはもう彼女は通えないのだが。
「はぁ……はっ……、ごほっ、ごほっ」
 十四歳という年齢にふさわしい生気と活気にあふれるメルとはいえ、ずっと走りつづけていれば当然限界は来る。
 息を乱し、咳き込んでしまう。
 それでもメルはまだ走ろうとする。
 ……メルも、こんな、暗い雨の夜、誰もいない街を好き好んで走りたいわけじゃない。ただ。もてあましているのだ。やり場のない、想いを。
 そしてなにより、帰りたくはなかった。あの温かい家には。もう、帰りたくなかった。あんな、メルを思いやっている家族のもとには、帰りたくなかった。

 走る体力を使い切ったメルは、それでもなお、ふら、ふら、とゆっくりと歩く。


 父も母も、祖母も、兄たちも、姉も、私のことをすごく思ってくれている。


 メルは、自分の右のてのひらを見た。
 その手は、数知れない剣の稽古でできた傷やまめだらけで、この年頃のごく一般的な少女のそれとはかけ離れてすぎている。
 けれど、この手はもう剣をとれないのだ。

 ……メルにかけられたのは「そういう呪」だった。

 剣の祝福から遠ざかる呪。
 ……剣を持つことができない たったそれだけ それだけの。
 だが、それをかけられたのは騎士を志していたメルにとっては、死刑を宣告されたのに等しい。
 かけてきた相手は、何のことはない、平均的に見て多少強いかどうかというぐらいの邪術師だった。いくらか相応の寄進を神殿にすれば解呪はできるだろう、だが、解呪しない限り永遠に続くものだった。
 問題は、その解呪のための金をメル自身が用意できなかったことだ。
 実家に金を用立てて欲しいと相談したら、そのまま騎士になるために学んでいた学院をやめさせられたのだった。

「もう剣なんか持つ必要なんかない」
「お前は女の子なんだから」
「騎士になどならなくていいのだよ」
「おじいさんの夢をお前はおしつけられていたんだよ、そのおじいさんももう亡いのだから、お前が無理することもないのだよ」
「ねぇ、いいお話があるのよ。私のお友達の息子さんがあなたを気に入ってくれてね」

「私……私は、私は」
 のろのろとした歩みがとうとう止まる。

「私は、誰かのお人形じゃ、ない」


 雨はより一層強くなってくる。
 そしてとうとうメルの体は、その雨粒の重さにも耐えられない、というかのように地面に向かって落ちた。まるで、枯れ落ちる木の葉のような儚さで。
 石畳の地面はとてもつめたくてごつごつしていて、無慈悲だった。その上雨で濡れているので、雨水が衣服に染み込んで気持ち悪いことこの上ない。

 冷たさと疲労と絶望感とで、メルの意識と視界だんだんと、黒に染まっていく。
 自分はこのまま、あっけなく死んでいくのだろうか?

 涙とともにこぼれたのは、こんな言葉だった。
「お人形だったのかな、私」



「人形にしては、可愛げがないな」


 ……。

 メルの言葉に応じたのは、随分と失礼な男性のセリフ。


 それが聞こえたところで、彼女の視界は完全に黒に染まり落ちた。









 ……あつい。

 メルは、温かさ、というよりはほとんど蒸し暑さで目を覚ました。
 それもそのはずだった、ベッドの中でメルは何枚も掛け布団や毛布を被り、ゆたんぽのようなものまで抱えさせられていたのだから。

「う……?」
 うめき声を上げると、ひんやりしたものが額に触れた。どうやらそれは白い女性の手のようだった。
「よかった、気がついたのね」
 その手の主である中年ぐらいの女性が声をかけてくる。落ち着かせるような、しっとりした声。
 ここは何処かの民家の一室のようだった。
「あの……」
「大丈夫よ。もうあとは熱は下がるだけだって、お医者様も言っていたわ」
 そう言い、女性はメルの布団をかけなおす……正直言ってひどく暑くてたまらないのだが、親切からしてくれていることであるため、その事実を指摘するのは申し訳がない気がしたので言い出せない。
「あのシャイトが、まさか女の子を連れて帰ってくる日がくるとは思ってなかったわ」
「ここは……どこなの。あなたは……」
「ここはね、職人通りにある工房兼住宅よ。私はそこの職人の妻ってわけ。名前はプリムローズっていうの、よろしくね」
「……私は、メルレーテ。メルで結構です」
「そう、メルちゃんはおうちはどこかしら」
「……家出、してきたので」
 そういうと、プリムローズは首をちょっとかしげて、困ったような悲しいような顔になった。
「シャイトという人が、私をここに?」
「えぇ、そろそろ顔をだすと思うわ……あ」
 きぃ、とそんなに広くない部屋に扉の軋む音が響いた。

 現れたのは、黒い髪に黒い瞳をした、この街からずっとずっと東にあるという極東列島の住人のような容姿の男。
「なんだ、目をさましていたのか」
 声で確信した……間違いない、メルが意識を失う前にものすごく失礼な言葉を投げかけてきたのは、この男だ。
 メルは、布団にうずもれながら睨むようにその男を見上げる。
「プリムかあさん、あとは俺がついてるから。プリムかあさんは食事をとったほうがいい」
「そうね。じゃあこのお嬢さんをお願いね、シャイト」
 プリムローズは、メルを振り返って
「なにか不自由があったら、気にせずシャイトに言ってね」
 と、微笑んで部屋を出た。

「……」
「……」
 そして部屋には、メルとシャイトという男だけが残されたのだが、シャイトはまるでメルが居ないかのように、壁際にある小さな机で何か作業をはじめてしまった。メルのことを詮索するつもりはない、ということだろうか。しかし、先程まで眠っていて、まったく眠くないメルにとって暇つぶしのための話し相手すらないのはちょっと苦痛だった。
「何作ってるの?」
 仕方なく、自分から話し相手になってくれとアピールすることにする。
 シャイトは、自分の座っている椅子をメルの方に向けて、手元のものを見せてくれた。
 それは、小さな服だった。
 最初は赤子の服だろうかと思ったのだが、それにしても小さいし、赤子の服にしては細身で大人っぽいデザインだ。
「なぁに、それ」
「……ドールドレスだ。ここは人形工房だからな」
「ドール……ドレス」
 よく見ると、机の上には茶色い髪をした裸の人形が座っている。
 シャイトはその茶髪の人形のための服を作っているのだろう。
 女の子が夢見るような甘いピンクの色のドールドレスは、作りかけとは言え見事なことはメルにもわかった。
 ただ、気になることもあった。
「その子に、このピンクを合わせるなら、なにかこう、はっきりした差し色があったほうがいいんじゃないの?」
「ほう?」
「濃いめの黄色か赤で、スカートの裾のあたりに刺繍をいれるとか」
「気が合うな、これから黄色でスカートの裾に薔薇の刺繍をいれる作業をするところだった」
 そう言って、シャイトは濃い黄色の糸を顔の横で振ってみせる。
 その黄色は、メルが思い描いていた色よりも、ずっとこのドールドレスに合いそうだった。
「ねぇシャイトさん、あなたは、ドールドレス職人なの?」
「シャイトでいい。今はそういうことになっているな」
「ねぇねぇ、シャイト、針を使うのって、難しい?」
「針を使う事自体は、根気くらべみたいなものだ。だがそれ以上に、ドールドレス作りは天性のセンスが必要だな」
「……」
 そこからはしばらく、針と糸と布が擦れ合う音だけが部屋に響いていた。

「私、作れるかな」
「……何をだ」
「ドールドレス」
「お人形は嫌いかとばかり思っていたぞ」
 メルが倒れた直前の言葉を皮肉っているのだろう。
「もう一度、自分の足で歩いてみたい。きっと、そんなことせずに、どこかでさっさと良縁をみつけてお嫁に行ったりするのが賢い生き方だって、他の人は言うかもしれないけれど、私は自分で自分を満足させられる程度でしかない馬鹿みたいな生き方をして、愚かに走っていたいの」
 言いながら涙が出てきそうになる。
 なんて身勝手で支離滅裂なわがままなんだろうか。
「なるほど本当に馬鹿だな、しかも大して儲かるものでもないのに」
「そうなの? ……こんなにきれいなドレスなのに?」
「褒めても何も出さん。……だがまぁ、それなら生まれ持ったセンスそのものは悪くなさそうだ」
 そういって、シャイトは作業を中断して、深い黒色の瞳でメルの方をじっと見る。
 メルも、シャイトの瞳から視線をそらさない。
「さっきも言ったが、針を持つのは、根気がいるぞ」
「はい」
「それでも、この道に来るか?」
「はい」
「……俺を先生と呼べるか?」
「よろしくお願いします、シャイト先生」
 諦めたようなため息とともに、シャイトは瞳をそらす。そしてもうひとつ、ため息。



「あぁ。これからよろしく、な」

 師となったシャイトの顔は、夕焼けの光のせいか、多少赤くなっているようにメルにはみえた。




 これが、メルレーテ・ラプティのはじまり。



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