291 / 330
激動の今を生きる
第291話 暗がりロンド(中編)
しおりを挟む
虫の音も聞こえない闇の中。
目を瞑れどもやってこない眠気に根負けした僕は、白い湯気を漂わせる金属マグ片手に、車載機関銃へもたれかかるようにして1人の時間を過ごしていた。
自分達を含めた反帝国連合軍の進軍は順調であり、このままいけば明日にもアルキエルモのある地域、アッシュバレイに到達するだろう。地図の通りであるのならば、帝都クロウドンも最早目と鼻の先である。
にもかかわらず、敵は1兵たりとも現れない。それどころか、こちらが道中の村や集落に対して占領部隊を差し向けても、防衛側の戦力は帝国軍の紋章をつけただけの農民といった様子で士気も当然のように低く、ほとんどが恭順を条件に助命を乞うてくる始末。慢性的な飢餓に晒されている末端の民衆にとって、自らが属する国の旗など、明日を生きられるのなら何だっていいのだろう。
「戦う以外の進み方を知らない末期の国、か」
暗視装置越しに暗闇の荒野をボンヤリ眺めたところで、敵の気配どころか動物の動く気配すら微塵もない。
帝国は決戦のために戦力を温存しているのか、何かしら夜襲に効果を見いだせない理由があるのか、それともこれまでの大敗に軍の統率が上手くいかなくなっているだけか。
理由はともかく、静かな夜には感謝しなければなるまい。おかげで優雅に珈琲など啜っていられるのだから。
だが、暗視装置の中に映っていないだけで、動くものがないと判断するのは少々早計だったらしい。
「んにゅ……キョーイチ、まだおきてるのぉ?」
「おや、起こしてしまったかな――って、こらこらこら!」
車内から聞こえてきた蕩けるような声に、視線を足元へと向けてみれば、そこにはタオルケットを抱きしめたままこちらを見上げるポラリスの姿があった。
彼女はまだ眠いだろうに、上に居るのが僕だとわかると、いつぞやの妖怪衣玉よろしくタオルケットを体に巻きつけ、そのまま梯子を登りはじめてしまう。おかげで僕は、慌ててポラリスを引っ張り上げなければならなかった。
「はぁ……ま、まったく、梯子から落ちたらどうするつもりだい」
「のぼったらだめだったぁ?」
「いやダメとまでは言わないが――あぁもういいや。それで、こんな時間に起きるなんて珍しいね」
一瞬で肝が冷えた僕は、彼女に場所を譲って装甲に腰を下ろして小言を呟いたものの、寝起きのとろけた瞳と目があった途端どうでもよくなってしまい、露骨に話題を逸らした。
そんなこちらの気を知ってか知らずか、ポラリスはこちらの膝に手をついて僅かに表情を陰らせる。
「んと……へんなゆめ、みたの……おーとにまたキモチワルイのがいっぱいきてるゆめ。びっくりしておきちゃった」
「それは、うん。本気で怖いな」
彼女はファティマと並んで寝つきがいい上に熟睡型であるため、一旦寝てしまうと朝まで目覚めることはほとんどない。それこそ、皆で固まって眠っていた中で、定位置である僕の上から転げ落ちようとも、シューニャへ頭突きをかまそうとも、アポロニアの胸に埋もれて窒息しそうになろうとも、そのまま眠り続けていた程である。
そんなポラリスが起きてしまったとなると、相当の恐怖だったことは想像に難くなく、未だ夢と現の狭間に居るような状態の彼女は不安気に瞳を揺らしていた。
「ねぇキョーイチ、ヤスミンたち、だいじょうぶだよね? キモチワルイの、いっぱいきてない、よね?」
「――ポラリス、おいで」
タオルケット諸共、彼女の身体を抱え上げて膝の上に座らせた。
民衆を守るべき兵士としては情けない話だが、夢の世界を守る方法を僕は知らない。だが、今ポラリスが見ている世界が自分と同じ現実ならば、不器用でも不安を和らげてやることくらいはできると、細い身体を抱きしめながら長い青銀の髪を撫でた。
「心配はいらないよ。僕らの背後を大軍で狙うには遅すぎるし、むしろそんな戦力はクロウドンかアルキエルモに集結させているだろうからね」
「けど、ミシュクチャならちょっとだけでもあぶないよ?」
「ポラリスは賢いな。君の言う通り、ミクスチャは1匹だけでも恐ろしいほど危険な存在なのは間違いない」
夢が余程リアルだったからか、ポラリスの言葉はどこか具体的な響きを孕む。その原因は間違いなく、自分達と並んで戦場に立ったことであり、普段は表に出てこなくとも、未だ幼い彼女が心に相当な衝撃を受けたことは疑いようもない。
しかし、彼女は今の世界を生きている。だからこそ僕は汚く醜い現実も隠さないまま、小さな耳へ向けて心配いらないことをハッキリと伝えるのだ。
「だがそれでも、今の王都を1匹や2匹程度のミクスチャで落とすことはできない。絶対だ」
「どして?」
「そりゃあ現代最強の戦女神様が万全の体制で守ってくれてるんだから、当然だろう?」
腕の中で不思議そうに見上げてくる大きな瞳に対し、できるだけ堂々とした笑顔を返す。
ポラリスが感じたもしもの恐怖に対して何の根拠もなく、それこそ夢のような安全を語るつもりなど毛頭ない。ならば手元に残るのは、自分たちが敵の動きを想定してできる限りの準備をしたという事実のみ。否、遠く離れた地にあって他に心配を和らげる術などありはしないだろう。
と、そう思って告げた言葉なのだが、どうしてかポラリスの反応は自分の想像とはベクトルの違う物だった。
「ふぅーん……? じゃあキョーイチはそのために、あーんなおっきいプレゼントあげたんだ? へぇー……」
「えっ? あ、あぁいや、あれはプレゼントじゃなくて、弁償というかお詫びの品というか――あの、もしもし? ポラリスさん?」
乾燥した空気のはずが、その声は妙に強い湿り気を含んでおり、僕は慌てて取り繕うことになったのだが、どうにも脱水は失敗だったらしい。既に自分の言葉を聞く気はないのか、ポラリスはまるで木の幹にくっついたクワガタの如くこちらにしがみ付き、胸に顔を埋めたまま沈黙してしまった。
彼女が再び夢の世界へ旅立つか、あるいは何かうまく機嫌を取れない限り、自分が拘束から逃れる術はないのだろう。
空いた手で湯気の立たなくなったマグを取り、珈琲を少し口に含んで身動きの取れない我が身に対する諦めを、ため息に乗せて虚空に遊ばせる。
ポラリスの怖い夢を打ち消すくらい、あの子にとっては造作もないことだろう。だがその一方で、僕は異なる想像に引き攣った笑いを浮かべることになったが。
――心配すべきはどう考えても敵の襲撃云々じゃなく、アレをところ構わず振り回してないかの方だよねぇ。町を破壊してないといいんだが。
■
焼けた芝の舞う中、彼らは揃って眼前に広がる光景を信じられなかった。
人を背に乗せ静かに闇夜を駆け抜けた獣。それは指輪を持つ者に従属する一方、投石機の直撃を受けても傷つかない堅牢さと、キムンすら赤子に思えるほどの膂力を持っていたはず。
なのに今、その獣は背中から銀に輝く円錐を生やし、痙攣しながら淀んだ体液をボタボタと垂れ流しているではないか。
間もなく動かなくなった赤黒い肉は、大きな一振りで打ち捨てられる。まるでゴミを払うかのように。
その影から現れた者は、美しい石材で仕立てられた床を靴で踏みしめてニィと笑った。
「なんだよなんだよ、そろって間抜けな顔してさ。あたしに見とれてると火傷することくらい、お前らよく知ってるだろー? それにぃ、アマミがくれた玩具はすんごいいい感じだし、ミクスチャ連れてるくらいで相手になると思わない方がいいぞっ」
褐色の肌に纏ったバトルドレスは赤く、熱になびく細いツインテールはなお赤く。小柄な体と不釣り合いな巨大な槍を持って、掌に小さく炎を宿して笑う堂々たる姿。
帝国人が見紛うはずもない。それも軍の中枢に近い存在ならばなおの事。
「まさか、ハレディ様――が」
レディ・ヘルファイアが王国に寝返ったという話は、影たちの耳にも届いていた。
だが、いくら亡命してきたとはいえ元は敵軍の将である。容易く信用できる相手ではないのは明らかであるにも関わらず、それを国家の中枢である王宮の防衛につかせるなど正気の沙汰ではない。
にもかかわらず、彼女は両端が美しい円錐になっている槍を床に突き刺し、王宮の入口に立ちはだかっていた。
「もー、いつまでボーっとしてんのさ。仕方ないなぁ……あたしは優しいから、そっちが怖くて動けないなら、こっちから行ってあげよーじゃん、かッ!」
踏み込みの力はいかほどか。
エリネラは獰猛に歯を輝かせると、輝く槍の先端に炎を纏わせながら、石畳を震わせて飛ぶように駆けた。
「くッ――獣よっ!」
我に返った影の言葉によって、まるで人の手足でできたヒトデのようなミクスチャは、素早くエリネラの進路に立ち塞がる。
それは音を立てず走れることから影に与えられた個体だったが、特性がどうであれ怪物であることに変わりはなく、振るわれた腕の一撃は植えられていた太い木をなぎ倒し、石灯篭を軽々と吹き飛ばす。
小柄な少女の姿は巻き上がる土煙に掻き消える。否、直撃を受けていたなら形を留めているかさえわからない。
目にも留まらぬ一瞬の出来事だったが、影の長はその光景にもしやと希望を抱いた。
ミクスチャの腕と足が千切れ飛ぶまでは、だが。
「おっそいなぁ。あたしってそんなのろまだと思われてんの?」
土煙の中でギラリと輝いた赤い瞳は、バランスを崩して倒れ込んだヒトデの化物を踏みつけながら、身体の中心に槍の穂先を突き立てる。
矢も槍も跳ね返す硬い表皮にも関わらず、それははまるで煮た野菜にフォークを立てる如く。大きな風穴から体液を溢れさせたミクスチャは、藻掻こうとしたところで全身より炎が立ち上がり、奇妙な声か音かを響かせて身体を弛緩させた。
エリネラ・タラカ・ハレディが、武将としても魔術師としても規格外の存在であることは、影たちの誰もが理解している。
だが、今この瞬間眼前に立つ赤い少女は、規格外などという言葉だけで表現できる存在ではなく、彼らの足は自然と1歩後ろへ下がっていた。
その時、そっと背中に細い何かが触れた感覚が無ければ、1歩ではすまなかっただろうが。
「クスクス……ざぁんねん、巣にかかった獲物をアラネアが逃すとお思い?」
背後で薄く張られていたのは、最初に人の首を軽く断ち切った強靭な糸。その先端は屋根の上で薄い笑いを浮かべる女の手に握られている。
ミクスチャを殺せる存在の出現は、訓練された影たちにとっても驚愕の事態であり、その動揺はアラネアを見失わせるには十分すぎた。
「サヨウナラ、面白くないお客様」
「――あっ、か」
ウィラミットが遊ぶように長い指を動かせば、1人は何故か首を掻きむしりながらゆっくりと浮き上がり、1人は身体が胴体の中心から2つに切断され、最後の1人は体中の関節をあらぬ方向へ曲げて血を吹いた。
叫び声が響いたのは一瞬のこと。物言わぬ肉と化したそれらは間もなく、焼け焦げた芝生の上へ転がった。
それをウィラミットはワインレッドの瞳で睥睨する。
彼女の視線が捉えたのは、影の長だったものの手に輝く指輪だった。
仕組みは全くわからないが、もしも指に嵌めるだけでミクスチャや失敗作《イソ・マン》使えるのなら、誰にとっても強力な武器となり得るだろう。たとえすぐに使えなかったとしても、帝国人の何者かが生み出している以上、研究を進めていけばいずれは扱えるようになるはず。
――下らない、わ。
黒いハイヒールの踵は、影の指を砕きながら地面に突き刺さる。それと同時に輝いていた指輪も、まるで作りの悪いガラスのようにパキンと音を立てて粉々に砕け散った。
彼女は長いポニーテールを掻き上げながら、無感情な顔をゆらりと持ち上げる。
その視線の先では、主を失ってなお生き残っていた最後のミクスチャが、銀に輝く槍によって今石壁へ串刺しにされたところだった。
「いやぁ、こういう戦いだとアラネアはほんっと怖いね――ん、っしょぉッ!」
気合一声。槍が引き抜かれるとミクスチャは力なく地面へ倒れ込み、その上から崩れた石壁が降り注ぐ。
凄まじいのは少女の方かそれとも槍か、あるいは両方なのか。どちらにせよ、ウィラミットはそんなエリネラからの評価に、カクンと首を傾げるしかなかった。
「そう? 私は貴女の方がよっぽど怖いと思うわ。身体は子どもの様に小さいのに」
「誰が子どもみたいに小さいだぁ!! 馬鹿にすんなよ! まだこれから大きくなるかもしんないだろ!」
傍目からは武将とは思えず、それどころか齢18というのも信じがたいほどの体格を指摘されたことに対し、エリネラは整えられた床石に槍を突き立ててガーと気炎を吐く。
ただ彼女の姿からは、今まで圧倒的な技量と力で武器を振るっていた気迫は微塵も感じられず、するとどうしてか体格相応の年齢の少女が叫んでいるのと大差がなくなってしまう。
当然のことながら、そんな状態で泰然たるウィラミットが揺らぐはずもない。
「小柄なことは悪いことじゃないでしょう? とても愛らしくて素敵じゃない、食べちゃいたいくらい……ウフフフ」
「ひぃっ……!? ちょ、ちょい待って! あたしは食べても多分美味しくないぞ!? ほら、お肉なんて全然ついてないし、食べるとこないって!」
「そんなことないわ。細くてとっても綺麗な身体、とぉっても美味しそうよ」
「な、ななな、せ、セクストン助けてぇー!」
実に楽しそうな様子で妖艶な笑いを浮かべ、挑発的に赤い舌でチロリと自らの唇を舐める彼女に対し、エリネラはサッと顔色を青ざめさせると槍を抱きしめるようにしながら後ずさる。
武勇や実力でならばエリネラが勝っていることは言うまでもない。だが、背中を預ける仲間である以上、力に訴えるような無茶は難しく、そうなると知識的にも人生経験的にも勝っているウィラミットは圧倒的な存在と言えるだろう。
ただ、エリネラは美味しそうという言葉の真意を理解できておらず、ただただ虚空を撫でるようなウィラミットの手の動きに謎の恐怖感を抱いていただけであり、その点では幸いと言えるかもしれないが。
目を瞑れどもやってこない眠気に根負けした僕は、白い湯気を漂わせる金属マグ片手に、車載機関銃へもたれかかるようにして1人の時間を過ごしていた。
自分達を含めた反帝国連合軍の進軍は順調であり、このままいけば明日にもアルキエルモのある地域、アッシュバレイに到達するだろう。地図の通りであるのならば、帝都クロウドンも最早目と鼻の先である。
にもかかわらず、敵は1兵たりとも現れない。それどころか、こちらが道中の村や集落に対して占領部隊を差し向けても、防衛側の戦力は帝国軍の紋章をつけただけの農民といった様子で士気も当然のように低く、ほとんどが恭順を条件に助命を乞うてくる始末。慢性的な飢餓に晒されている末端の民衆にとって、自らが属する国の旗など、明日を生きられるのなら何だっていいのだろう。
「戦う以外の進み方を知らない末期の国、か」
暗視装置越しに暗闇の荒野をボンヤリ眺めたところで、敵の気配どころか動物の動く気配すら微塵もない。
帝国は決戦のために戦力を温存しているのか、何かしら夜襲に効果を見いだせない理由があるのか、それともこれまでの大敗に軍の統率が上手くいかなくなっているだけか。
理由はともかく、静かな夜には感謝しなければなるまい。おかげで優雅に珈琲など啜っていられるのだから。
だが、暗視装置の中に映っていないだけで、動くものがないと判断するのは少々早計だったらしい。
「んにゅ……キョーイチ、まだおきてるのぉ?」
「おや、起こしてしまったかな――って、こらこらこら!」
車内から聞こえてきた蕩けるような声に、視線を足元へと向けてみれば、そこにはタオルケットを抱きしめたままこちらを見上げるポラリスの姿があった。
彼女はまだ眠いだろうに、上に居るのが僕だとわかると、いつぞやの妖怪衣玉よろしくタオルケットを体に巻きつけ、そのまま梯子を登りはじめてしまう。おかげで僕は、慌ててポラリスを引っ張り上げなければならなかった。
「はぁ……ま、まったく、梯子から落ちたらどうするつもりだい」
「のぼったらだめだったぁ?」
「いやダメとまでは言わないが――あぁもういいや。それで、こんな時間に起きるなんて珍しいね」
一瞬で肝が冷えた僕は、彼女に場所を譲って装甲に腰を下ろして小言を呟いたものの、寝起きのとろけた瞳と目があった途端どうでもよくなってしまい、露骨に話題を逸らした。
そんなこちらの気を知ってか知らずか、ポラリスはこちらの膝に手をついて僅かに表情を陰らせる。
「んと……へんなゆめ、みたの……おーとにまたキモチワルイのがいっぱいきてるゆめ。びっくりしておきちゃった」
「それは、うん。本気で怖いな」
彼女はファティマと並んで寝つきがいい上に熟睡型であるため、一旦寝てしまうと朝まで目覚めることはほとんどない。それこそ、皆で固まって眠っていた中で、定位置である僕の上から転げ落ちようとも、シューニャへ頭突きをかまそうとも、アポロニアの胸に埋もれて窒息しそうになろうとも、そのまま眠り続けていた程である。
そんなポラリスが起きてしまったとなると、相当の恐怖だったことは想像に難くなく、未だ夢と現の狭間に居るような状態の彼女は不安気に瞳を揺らしていた。
「ねぇキョーイチ、ヤスミンたち、だいじょうぶだよね? キモチワルイの、いっぱいきてない、よね?」
「――ポラリス、おいで」
タオルケット諸共、彼女の身体を抱え上げて膝の上に座らせた。
民衆を守るべき兵士としては情けない話だが、夢の世界を守る方法を僕は知らない。だが、今ポラリスが見ている世界が自分と同じ現実ならば、不器用でも不安を和らげてやることくらいはできると、細い身体を抱きしめながら長い青銀の髪を撫でた。
「心配はいらないよ。僕らの背後を大軍で狙うには遅すぎるし、むしろそんな戦力はクロウドンかアルキエルモに集結させているだろうからね」
「けど、ミシュクチャならちょっとだけでもあぶないよ?」
「ポラリスは賢いな。君の言う通り、ミクスチャは1匹だけでも恐ろしいほど危険な存在なのは間違いない」
夢が余程リアルだったからか、ポラリスの言葉はどこか具体的な響きを孕む。その原因は間違いなく、自分達と並んで戦場に立ったことであり、普段は表に出てこなくとも、未だ幼い彼女が心に相当な衝撃を受けたことは疑いようもない。
しかし、彼女は今の世界を生きている。だからこそ僕は汚く醜い現実も隠さないまま、小さな耳へ向けて心配いらないことをハッキリと伝えるのだ。
「だがそれでも、今の王都を1匹や2匹程度のミクスチャで落とすことはできない。絶対だ」
「どして?」
「そりゃあ現代最強の戦女神様が万全の体制で守ってくれてるんだから、当然だろう?」
腕の中で不思議そうに見上げてくる大きな瞳に対し、できるだけ堂々とした笑顔を返す。
ポラリスが感じたもしもの恐怖に対して何の根拠もなく、それこそ夢のような安全を語るつもりなど毛頭ない。ならば手元に残るのは、自分たちが敵の動きを想定してできる限りの準備をしたという事実のみ。否、遠く離れた地にあって他に心配を和らげる術などありはしないだろう。
と、そう思って告げた言葉なのだが、どうしてかポラリスの反応は自分の想像とはベクトルの違う物だった。
「ふぅーん……? じゃあキョーイチはそのために、あーんなおっきいプレゼントあげたんだ? へぇー……」
「えっ? あ、あぁいや、あれはプレゼントじゃなくて、弁償というかお詫びの品というか――あの、もしもし? ポラリスさん?」
乾燥した空気のはずが、その声は妙に強い湿り気を含んでおり、僕は慌てて取り繕うことになったのだが、どうにも脱水は失敗だったらしい。既に自分の言葉を聞く気はないのか、ポラリスはまるで木の幹にくっついたクワガタの如くこちらにしがみ付き、胸に顔を埋めたまま沈黙してしまった。
彼女が再び夢の世界へ旅立つか、あるいは何かうまく機嫌を取れない限り、自分が拘束から逃れる術はないのだろう。
空いた手で湯気の立たなくなったマグを取り、珈琲を少し口に含んで身動きの取れない我が身に対する諦めを、ため息に乗せて虚空に遊ばせる。
ポラリスの怖い夢を打ち消すくらい、あの子にとっては造作もないことだろう。だがその一方で、僕は異なる想像に引き攣った笑いを浮かべることになったが。
――心配すべきはどう考えても敵の襲撃云々じゃなく、アレをところ構わず振り回してないかの方だよねぇ。町を破壊してないといいんだが。
■
焼けた芝の舞う中、彼らは揃って眼前に広がる光景を信じられなかった。
人を背に乗せ静かに闇夜を駆け抜けた獣。それは指輪を持つ者に従属する一方、投石機の直撃を受けても傷つかない堅牢さと、キムンすら赤子に思えるほどの膂力を持っていたはず。
なのに今、その獣は背中から銀に輝く円錐を生やし、痙攣しながら淀んだ体液をボタボタと垂れ流しているではないか。
間もなく動かなくなった赤黒い肉は、大きな一振りで打ち捨てられる。まるでゴミを払うかのように。
その影から現れた者は、美しい石材で仕立てられた床を靴で踏みしめてニィと笑った。
「なんだよなんだよ、そろって間抜けな顔してさ。あたしに見とれてると火傷することくらい、お前らよく知ってるだろー? それにぃ、アマミがくれた玩具はすんごいいい感じだし、ミクスチャ連れてるくらいで相手になると思わない方がいいぞっ」
褐色の肌に纏ったバトルドレスは赤く、熱になびく細いツインテールはなお赤く。小柄な体と不釣り合いな巨大な槍を持って、掌に小さく炎を宿して笑う堂々たる姿。
帝国人が見紛うはずもない。それも軍の中枢に近い存在ならばなおの事。
「まさか、ハレディ様――が」
レディ・ヘルファイアが王国に寝返ったという話は、影たちの耳にも届いていた。
だが、いくら亡命してきたとはいえ元は敵軍の将である。容易く信用できる相手ではないのは明らかであるにも関わらず、それを国家の中枢である王宮の防衛につかせるなど正気の沙汰ではない。
にもかかわらず、彼女は両端が美しい円錐になっている槍を床に突き刺し、王宮の入口に立ちはだかっていた。
「もー、いつまでボーっとしてんのさ。仕方ないなぁ……あたしは優しいから、そっちが怖くて動けないなら、こっちから行ってあげよーじゃん、かッ!」
踏み込みの力はいかほどか。
エリネラは獰猛に歯を輝かせると、輝く槍の先端に炎を纏わせながら、石畳を震わせて飛ぶように駆けた。
「くッ――獣よっ!」
我に返った影の言葉によって、まるで人の手足でできたヒトデのようなミクスチャは、素早くエリネラの進路に立ち塞がる。
それは音を立てず走れることから影に与えられた個体だったが、特性がどうであれ怪物であることに変わりはなく、振るわれた腕の一撃は植えられていた太い木をなぎ倒し、石灯篭を軽々と吹き飛ばす。
小柄な少女の姿は巻き上がる土煙に掻き消える。否、直撃を受けていたなら形を留めているかさえわからない。
目にも留まらぬ一瞬の出来事だったが、影の長はその光景にもしやと希望を抱いた。
ミクスチャの腕と足が千切れ飛ぶまでは、だが。
「おっそいなぁ。あたしってそんなのろまだと思われてんの?」
土煙の中でギラリと輝いた赤い瞳は、バランスを崩して倒れ込んだヒトデの化物を踏みつけながら、身体の中心に槍の穂先を突き立てる。
矢も槍も跳ね返す硬い表皮にも関わらず、それははまるで煮た野菜にフォークを立てる如く。大きな風穴から体液を溢れさせたミクスチャは、藻掻こうとしたところで全身より炎が立ち上がり、奇妙な声か音かを響かせて身体を弛緩させた。
エリネラ・タラカ・ハレディが、武将としても魔術師としても規格外の存在であることは、影たちの誰もが理解している。
だが、今この瞬間眼前に立つ赤い少女は、規格外などという言葉だけで表現できる存在ではなく、彼らの足は自然と1歩後ろへ下がっていた。
その時、そっと背中に細い何かが触れた感覚が無ければ、1歩ではすまなかっただろうが。
「クスクス……ざぁんねん、巣にかかった獲物をアラネアが逃すとお思い?」
背後で薄く張られていたのは、最初に人の首を軽く断ち切った強靭な糸。その先端は屋根の上で薄い笑いを浮かべる女の手に握られている。
ミクスチャを殺せる存在の出現は、訓練された影たちにとっても驚愕の事態であり、その動揺はアラネアを見失わせるには十分すぎた。
「サヨウナラ、面白くないお客様」
「――あっ、か」
ウィラミットが遊ぶように長い指を動かせば、1人は何故か首を掻きむしりながらゆっくりと浮き上がり、1人は身体が胴体の中心から2つに切断され、最後の1人は体中の関節をあらぬ方向へ曲げて血を吹いた。
叫び声が響いたのは一瞬のこと。物言わぬ肉と化したそれらは間もなく、焼け焦げた芝生の上へ転がった。
それをウィラミットはワインレッドの瞳で睥睨する。
彼女の視線が捉えたのは、影の長だったものの手に輝く指輪だった。
仕組みは全くわからないが、もしも指に嵌めるだけでミクスチャや失敗作《イソ・マン》使えるのなら、誰にとっても強力な武器となり得るだろう。たとえすぐに使えなかったとしても、帝国人の何者かが生み出している以上、研究を進めていけばいずれは扱えるようになるはず。
――下らない、わ。
黒いハイヒールの踵は、影の指を砕きながら地面に突き刺さる。それと同時に輝いていた指輪も、まるで作りの悪いガラスのようにパキンと音を立てて粉々に砕け散った。
彼女は長いポニーテールを掻き上げながら、無感情な顔をゆらりと持ち上げる。
その視線の先では、主を失ってなお生き残っていた最後のミクスチャが、銀に輝く槍によって今石壁へ串刺しにされたところだった。
「いやぁ、こういう戦いだとアラネアはほんっと怖いね――ん、っしょぉッ!」
気合一声。槍が引き抜かれるとミクスチャは力なく地面へ倒れ込み、その上から崩れた石壁が降り注ぐ。
凄まじいのは少女の方かそれとも槍か、あるいは両方なのか。どちらにせよ、ウィラミットはそんなエリネラからの評価に、カクンと首を傾げるしかなかった。
「そう? 私は貴女の方がよっぽど怖いと思うわ。身体は子どもの様に小さいのに」
「誰が子どもみたいに小さいだぁ!! 馬鹿にすんなよ! まだこれから大きくなるかもしんないだろ!」
傍目からは武将とは思えず、それどころか齢18というのも信じがたいほどの体格を指摘されたことに対し、エリネラは整えられた床石に槍を突き立ててガーと気炎を吐く。
ただ彼女の姿からは、今まで圧倒的な技量と力で武器を振るっていた気迫は微塵も感じられず、するとどうしてか体格相応の年齢の少女が叫んでいるのと大差がなくなってしまう。
当然のことながら、そんな状態で泰然たるウィラミットが揺らぐはずもない。
「小柄なことは悪いことじゃないでしょう? とても愛らしくて素敵じゃない、食べちゃいたいくらい……ウフフフ」
「ひぃっ……!? ちょ、ちょい待って! あたしは食べても多分美味しくないぞ!? ほら、お肉なんて全然ついてないし、食べるとこないって!」
「そんなことないわ。細くてとっても綺麗な身体、とぉっても美味しそうよ」
「な、ななな、せ、セクストン助けてぇー!」
実に楽しそうな様子で妖艶な笑いを浮かべ、挑発的に赤い舌でチロリと自らの唇を舐める彼女に対し、エリネラはサッと顔色を青ざめさせると槍を抱きしめるようにしながら後ずさる。
武勇や実力でならばエリネラが勝っていることは言うまでもない。だが、背中を預ける仲間である以上、力に訴えるような無茶は難しく、そうなると知識的にも人生経験的にも勝っているウィラミットは圧倒的な存在と言えるだろう。
ただ、エリネラは美味しそうという言葉の真意を理解できておらず、ただただ虚空を撫でるようなウィラミットの手の動きに謎の恐怖感を抱いていただけであり、その点では幸いと言えるかもしれないが。
10
お気に入りに追加
65
あなたにおすすめの小説
実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは
竹井ゴールド
ライト文芸
日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。
その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。
青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。
その後がよろしくない。
青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。
妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。
長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。
次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。
三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。
四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。
この5人とも青夜は家族となり、
・・・何これ? 少し想定外なんだけど。
【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】
【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】
【2023/6/5、お気に入り数2130突破】
【アルファポリスのみの投稿です】
【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】
【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】
【未完】
美人四天王の妹とシテいるけど、僕は学校を卒業するまでモブに徹する、はずだった
ぐうのすけ
恋愛
【カクヨムでラブコメ週間2位】ありがとうございます!
僕【山田集】は高校3年生のモブとして何事もなく高校を卒業するはずだった。でも、義理の妹である【山田芽以】とシテいる現場をお母さんに目撃され、家族会議が開かれた。家族会議の結果隠蔽し、何事も無く高校を卒業する事が決まる。ある時学校の美人四天王の一角である【夏空日葵】に僕と芽以がベッドでシテいる所を目撃されたところからドタバタが始まる。僕の完璧なモブメッキは剥がれ、ヒマリに観察され、他の美人四天王にもメッキを剥され、何かを嗅ぎつけられていく。僕は、平穏無事に学校を卒業できるのだろうか?
『この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません』
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
豪華地下室チートで異世界救済!〜僕の地下室がみんなの憩いの場になるまで〜
自来也
ファンタジー
カクヨム、なろうで150万PV達成!
理想の家の完成を目前に異世界に転移してしまったごく普通のサラリーマンの翔(しょう)。転移先で手にしたスキルは、なんと「地下室作成」!? 戦闘スキルでも、魔法の才能でもないただの「地下室作り」
これが翔の望んだ力だった。
スキルが成長するにつれて移動可能、豪華な浴室、ナイトプール、釣り堀、ゴーカート、ゲーセンなどなどあらゆる物の配置が可能に!?
ある時は瀕死の冒険者を助け、ある時は獣人を招待し、翔の理想の地下室はいつのまにか隠れた憩いの場になっていく。
※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しております。
ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり
柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日――
東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。
中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。
彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。
無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。
政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。
「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」
ただ、一人を除いて――
これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、
たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる