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激動の今を生きる
第283話 自分のご主人様
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「つまりさっきのは、アマミ殿の勘違いだった、と?」
どことなく呆れ顔のペンドリナを中心に、周りを囲む数人のヴィンディケイタ達は不思議そうに顔を見合わせ合う。
それも当然であろう。各キメラリアが持つ特徴的な五感を用いても、周囲には何も見えず聞こえず香らず気配すらないままなのに、静かな闇が広がったままだというのに、テイムドメイルが突如として飛び立ったのだから。
彼らはやはり精鋭である。自分の不可解な行動に対しても、呆けるのは一瞬の事。何らかの異常が発生したと判断し、警戒態勢を強化するために動き出していた。
ただ、いくら翡翠のシステムがロックオン警報を垂れ流したとはいえ、これが誤報だったことは覆しようのない事実である。そのため、ヴィンディケイタ達の行動が迅速であればあるほど自分の過失は重い。
『一切自分の責任です。警備を混乱させてしまい、申し訳ありませんでした』
故に僕は、月明かりに輝く銀狼女性を前に、深く深く翡翠の腰を折ったのだが、これにヴィンディケイタ達は大きくざわめいた。
「ちょ、ちょいちょいちょい! やめてくださいよそんな!」
「あぁぁアマミ殿に頭下げさせちまったら、俺たちゃ我が君に合わせる顔がありません! なぁ!?」
「然り然り! 貴方様は大恩ある御方なれば!」
間違いは誰にでも、またどんな場合でも起こり得ることである。だが、集中を必要とする夜間警備に際し、自らの過失によって混乱を招いたことは、叱責されて当然であろう。
にも関わらず、老若男女、なんなら種族さえ問わず、真銀の軽鎧を纏った者たちは今まで以上に慌て始める。
だが、世間的に玉匣の長と見られている自分が、軽々しく頭を上げるわけにはいかない、と思って硬直していると、やがて小さなため息を翡翠の外部マイクが拾った。
「ふぅ……アマミ殿、どうか頭を上げてくれ。我らの中に責を問おうなどという者は居ないし、私もそちらの事情は把握しているつもりだ――貴方がアポロニアを庇おうとしていることも、な」
まさか、と顔を上げたところ、モニターに映ったのは困ったように笑う毛深い顔。
それは呆れというより、手のかかる友人を見つめるかのようで、自分の中にあった、かまをかけられているのではないか、という想像は一瞬の内に消え去った。
あの場に自分とアポロニア以外は居なかったのは間違いない。だが、カラやアステリオンが聴力に優れている以上、それらの上位互換とされる希少なウルヴルなら、はるか遠くから自分達の会話を聞いていたとしても、なんら不思議はないだろう。
おかげで僕はまた、マキナを着装したまま後ろ頭を掻こうとして、ガツンと金属のぶつかる音を立ててしまった。
『……お恥ずかしい話ながら、仰る通りです』
「不躾だとは思ったんだけどね。何分、耳は良くても育ちは悪いから。そのお詫びという訳ではないが、早く彼女の所へ行ってやってくれないか。アポロニアのことだから、貴殿が帰ってくるまでひたすら待ち続けているだろう」
『何故、そんなことが?』
アポロニアとペンドリナが話しているところは何度か見ているが、そこまで親しい友好関係を結んでいると聞いたことはない。
しかし彼女は、さも当然と言った様子で肩を竦めた。
「わかるとも。アステリオンもウルヴルも、主を求める気持ちは変わらない。それに、私だって女なのでな」
片目でチラリとこちらを覗くペンドリナの姿に、いつもの精強な戦士の面影はなく、まるで友人の恋を応援する学生のような雰囲気が漂っている。
しかし、そんな様子が意外に思えたのは自分だけでもないらしく、周囲のヴィンディケイタ達が揃ってギョッとした表情を浮かべたことで、彼女は不服そうにギロリと周囲を睨みつけていた。ただの照れ隠しかも知れないが。
とはいえ、背中を押してもらっているからには、ペンドリナの反応がどちらかなど関係ないと、自分はもう一度深々と頭を下げた。
『本当に申し訳ない。そして、ありがとうございます。この埋め合わせは、後日必ず』
「ふふっ……健闘を祈っているぞ、英雄殿」
温かい視線に見送られて踵を返せば、背中には低いどよめきと抑えられた黄色い声が飛んでくる。
だからだろうか。ロックオン警報が鳴った瞬間よりも、今の方がよっぽど緊張しているように思えてならない。
翡翠の中に表示された基準のない時計は、既に日付の変わったことを示している。警戒態勢が緩められれば、またすぐ要塞は静かになるだろう。
防壁の上以外は寝静まっていて当然。だから、ペンドリナの言葉が正解という確証なんてなく、これは自分としても希望的観測だったと言っていい。むしろ先に眠っていたなら、何も心配しなくていいという証左となったかも知れないくらいだ。
だが、足音をできるだけ殺して玉匣へ戻ってくれば、履帯の横で膝を抱える小さな影が1つ。これでペンドリナの言葉は揺るがぬ現実となり、僕はこりゃ敵わないと小さくため息をついた。
『ホントに起きてるんだもんなぁ』
「あ……ごしゅ、じん」
暗がりに縮こまっていた彼女は、尻尾を体に巻き込んでおり、こちらを見上げてくる茶色く大きな瞳にも、あからさまな怯えが滲んでいた。
それはまるで、このロックピラーで彼女を捕虜にしたあの日、帝国軍に戻ることはできないと告げた時と同じ、何かを失いかねない恐怖を前にしているかのような雰囲気。
けれど、今のアポロニアは捕虜でもなければ、命を狙われている状況でもなく、だからこそ僕は努めて、いつもと変わらぬ調子で声をかけた。
『わざわざ地べたに座っていなくても。お尻が痛くなりそうだ』
「これはその、なんとなく……」
『そうかい。まぁダメと言うつもりはないが――よっと』
不寝番の任から解かれたのをいいことに、僕は視線を彷徨わせる彼女の前でわざと翡翠を脱ぎ捨てる。
ただでさえ、この鋼は戦うことには向いていても、誰かと触れ合うことには全く不向きなのだ。なんとなくこんな暗がりを選んで座っているアポロニアを前に、着たままでいる理由などどこにもない。
「ヴィンディケイタ達に事情は説明してきたよ。まぁ、最初は誤魔化すつもりだったんだが、先にこっちの事情を察せられてしまっていてね。苦情を言われるどころか、早く戻ってやってくれ、なんてペンドリナさんに背中を押されてしまったが」
「……そう、ッスか」
パイロットスーツ姿のまま隣に腰を下ろせば、彼女は膝を強く抱え込んだきり黙り込む。
どうせ夜も長いのだから、話を急かす必要もない。
そう思っていたのだが、こちらが同じように沈黙していると、やがて震える声が隣から聞こえてきた。
「ご主人は怒らないんスか……? 自分の事」
「怒る? なんでだい?」
「だって自分は勝手なことして、すごい迷惑、かけたのに……」
それはまるで、怒って欲しい、叱って欲しい、と言わんばかりの口調だったように思う。
しかし、アポロニアがやらかした失敗に関して、僕には叱責する理由がないため、沈む声を横目に頬を掻くくらいしかできなかった。
「うーん……さっきも言ったが、アポロなりによかれと思ってやったんだろう? それに君は、ロックオン警報の事なんて知らなかったんだから、僕には怒る理由がないし、むしろ怒られるべきは適当な教え方をした僕の方だよ」
「そ、そんなこと、ご主人は何も――!」
勢いよく顔を上げた彼女には、自分の顔がしっかり映り込んだことだろう。こちらからも、少しだけ腫れた目と、動揺してクシャクシャの顔がハッキリわかる。
知らなかったでは済まされないことも、世の中にはあるだろう。だが、今回の事故では、取り返しのつかないようなことはなかったのだ。泣く程反省したアポロニアを慰めてやりたくはあっても、これ以上叱るなんてとんでもない話である。
だから僕は静かに笑いかけたのだが、アポロニアはどうしてかバツが悪そうにまた俯き、くるりと尻尾を丸めた。
「自分、その……猫とご主人が話してるの、聞いちゃったんス。そしたら急に、なんだか置いて行かれたような、ご主人が遠くに行っちゃったような気がしてきて――そう思ったら、居ても立っても居られなくて」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
彼女のことである。わざわざ聞き耳を立てていた訳ではないだろうが、少しでも聞こえてしまったら、興味を持つのも当然だった。
決してファティマだけにそうしたわけではないにせよ、考えれば考えるほど恥ずかしいやら申し訳ないやら、ついでに何故か背中が痒くなってくる。
しかし、深刻な様子で話す彼女を前に、それを顔や行動に出すわけにはいかず、歯を食いしばって相槌を打った。
「それで、夜中に自主訓練を?」
「自分は怖いんス。ご主人に見て貰えなくなることが、認めてもらえなくなることが、どんなことよりも……だから――!」
「なら、やはり今回悪いのは僕だ。すまなかった」
影を纏った顔から吐き出される悲鳴のような声を、僕は最後まで聞かない内に自らの言葉で塗りつぶした。
気恥ずかしさなど問題ではなく、己の理想など安っぽい物なのだから。
「ご、主人……?」
「せめて誠実にとか、きちんと1人ずつと向き合ってとか、ずっとそんなことを思ってたんだが、結果的に随分待たせてしまった。不安に、させてしまった」
キョトンとするアポロニアを前に、本当にすまない、と深く頭を下げる。
誰かを後回しにしようなんて思ったことはなくとも、自分の身体が1つしかなく、同時に伝えない以上、順番は否応なく出来上がる。それも戦いの合間に時間を見つけ、雰囲気を重視してなんて考えた結果がこれだ。
それでも彼女は求め続けてくれていて、どう報いればいいのかは未だにわからない。
ただ、暫しの沈黙を挟んだ後に聞こえてきたのが、震える吐息と鼻声だったのだから、自分が相当罪深いことは確かだった。
「……うぅ、そう、ッスよ。自分、ずっと、ずっと待ってたんスからね」
「ごめん」
「謝罪なんて、そんなの全然、欲しくないッス。要らないッス」
「それでも、ごめん。あと、今まで待っていてくれて、ありがとう」
「……それだけ、ッスか?」
少しだけ頭を上げて視線を合わせれば、彼女は大粒の涙が流れるのを拭おうともしないまま、こちらをじっとりと睨みつけてくる。
無論、こちらとしてもそんなつもりは毛頭なく、僕は苦笑を浮かべながら彼女の軽い身体を強く抱き寄せた。
「ぁキャンッ!?」
「まさか。君をこれ以上泣かせ続けるようじゃ、僕は自分で腹を斬らなきゃいけなくなる」
ボリュームのある髪を緩く撫でれば、突然のことに硬直していた体は少しずつほぐれ、やがてこちらの胸に顔を埋めながら、グズグズと嗚咽が漏れていく。
それが少し落ち着くまで待ってから腕の力を緩めれば、アポロニアは自然と濡れた顔でこちらを見上げてくれる。
すると意外なもので、ペンドリナのところから戻る際に感じた緊張は出て来ず、代わりに思ったままの言葉が口から流れ出た。
「……こんな盆暗男だが、それでもアポロは、僕の恋人になってくれるかい?」
「ひっぐ――今まで、こんなに待たせてくれた分、全部、全部っ、取り立てて、やるんスから、ね……!」
「そいつは怖いな。覚悟しとくよ」
照れ笑いを浮かべながら、一層クシャクシャになった頬に手を添わせれば、小さなアポロニアは少しだけ背中を伸ばし、僕はそれを覆うように唇を触れ合わせる。
最初は僅かにしょっぱさを感じる優しい口づけ。けれど、体格に合わせて小さな彼女の口は、途中からもっと強くとねだるように押し付けてくる。
求められるままに、また求めたいままに、長いキスだったように思う。
それが穏やかに離れた時、彼女はハッとした表情を浮かべると、再びこちらの胸に顔を埋めたが。
「……こ、こっち見ないでほしいッス。恥ずかしい、ッスから」
「なんだい。随分積極的だったのに」
「う、うるさいッス。乙女心はフクザツなんスよ」
腰をホールドしたまま、アポロニアはのしかかるように全身をこちらに預けてくる。その姿勢も含めて、乙女心まで持ち出されては、自分には手も足も出ない。
ただ、口調は怒っているようでも、肩越しに見える太い尻尾は大きく振られているあたり、やはり照れ隠しなのだろう。
そのまま背中を優しく擦っていれば、暫くしてからようやく頬を乾かした顔が、胸の中から目だけでこちらを見上げてきた。
「――キス、ずっとしてみたかったッスけど、い、いざ、やってみたら、思ってたよりドキドキするんスね……ご主人はどう、ッスか?」
「ドキドキしないわけないだろう。相手が大好きなアポロなんだから」
「う、が……」
自分には勿体ないような、いつも明るく家庭的で可愛らしい彼女は、ただでさえ身体を密着させるだけで、誰より柔らかさが伝わってくる相手なのだ。それにねだるような口づけをされて、平然として居られるはずもない。
ただ、照れ笑いを浮かべながら口にした一言が、あまりにも直球過ぎたからか、暗闇でもわかるほど真っ赤に顔を染めた彼女に、ポカポカと胸板を叩かれてしまったが。
「~~~っ!! ず、ずっと鈍感だった癖に、今更真っ直ぐこっち見て言うの、なんかズルいッスぅ!」
「い、いやそう言われても困るんだが――あたた、ごめんごめん」
非力なアステリオンの拳であるため、痛みなど全く感じなかったが、宥めるためにそんなことを口にすれば、彼女は疲れたように大きなため息をつきながら身体を離して真正面に座りこむ。
その表情はとても穏やかで、アポロニアらしい笑みを湛えたものだったが。
「……自分、今すっごい幸せッスよ。もう何があっても、絶対、ぜーったい離れないッスから」
心臓が跳ねる。
こう短時間で連続すると、中々堪える物だとは思ったが、それも悪い気分ではない。
言われるまでもなく、自分もアポロニアが嫌がらない限り離れるつもりはないし、他の皆に対しても同じことである。
だからこそ、この場で同じ思いであることを伝えておきたかったのだが、言葉を紡ぐまでに生まれた僅かな隙をついて、まさか頭上から別の声が降ってくるなど、誰が想像できただろう。
「――ゲロ甘、ですね」
「ぅキャぁンッ!? ね、猫!? い、いいいいいいつからそこに居やがったッスか!?」
ビクン、と身体を震わせてアポロニアは飛び上がる。無論自分も、咄嗟にホルスターから拳銃を抜き出しつつ、立ち上がりそうになるくらい驚いていたが。
その一方で、声の主であるファティマは特に面白そうでもなく、くぁっと小さく欠伸をすると、玉匣の上から軽く飛び降りてきた。
「いつからって最初からですよ。ボク屋根の上で寝てましたもん。まぁそっちだって、ボクとおにーさんのお話聞いてたみたいですし、これでお相子でしょ?」
盗み聞きするつもりはなかったが、先に盗み聞きされていたのがわかったからには、自分にも正当な権利があるだろう。と、言うことらしい。
それも偶然とはいえ、先にやったのはアポロニアである以上、彼女は頭を抱えて悶えるしかできなかったようだ。
「う、ぐお、おおおおお……穴があったらどころか、穴掘ってでも入りたいッス……」
「だったらササッと掘って入っといてください。それよりおにーさん。さっき犬――アポロニアともしてましたよね、キス」
ファティマは地面を掻きむしる犬娘から、ほぼ棒立ち状態になっていた自分へと向き直ると、顔を覗き込むようにしながら迫ってくる。
敢えて途中で呼び方を変えた理由はわからない。ただ、その迫力だけは圧倒的であり、僅かに後ずさった僕は、玉匣の側面装甲に背中をぶつけつつ頷いた。
「あ、あぁ……確かにしたけど、それが何――ん゛ん゛ーッ!?」
視界一杯に広がるファティマの顔。それも先ほどのアポロニアとの口づけを見ていたからか、こちらを離さないようにしっかりホールドしつつ、強く強く唇が押し付けられてくる。
呼吸が止まるほどのキスはきっと、彼女が考えた最大の愛情表現だったのだろう。
ただ、そっと力が緩んでファティマの顔が離れていく瞬間、チロリとこちらの唇を舐めていくとは思わなかったが。
「んふふ……これで、上書き完了です」
照れたように笑う少女に、一気に顔が熱くなる。
突如訪れた、無垢が故の強烈な破壊力。その凄まじい衝撃に上書きという言葉が添えられた意味は、敢えて語る必要もないだろう。
「な、ななななななっ!? そうはさせないッスよ! 自分だって、ご主人の1番になるって決めたんスから! こればっかりは、シューニャだろうとマオリィネだろうと、ファティマにだって譲ってやらないッス!」
「ふふん、ボクだって、アポロニアにどうぞなんて言いませんからね」
名前を呼ぶという小さな変化。
いつもと変わらないじゃれ合いに思えたが、彼女らの間には何かがあったのだろう。同じ屋根の下で暮らす家族なのだから、僕としては嬉しい変化である。
ただ、それを微笑ましく思っていたのも束の間。不敵な笑みを浮かべるファティマと、牙を見せて唸るアポロニアのにらみ合いは、2人だけで決着がつくものではなく、必然的に輝く4つの瞳がこちらへ向けられた。
「ねぇおにーさん、もーいっかいしーましょ?」
「次は自分の番ッスよねご主人!? ほ、ほら自分年上ッスから、も、もっと激しいの、しても、いいッスから!」
「ちょっ、君ら、こういうことは何かを競うようなモノじゃ――」
左右からにじり寄る2つの影に、僕は何か危険な予感を察したが、時すでに遅し。
その夜、これまで逃げ続けてきた自分に課せられた試練は、興奮する2人をどうやってうまく寝かしつけるかだったらしい。
どことなく呆れ顔のペンドリナを中心に、周りを囲む数人のヴィンディケイタ達は不思議そうに顔を見合わせ合う。
それも当然であろう。各キメラリアが持つ特徴的な五感を用いても、周囲には何も見えず聞こえず香らず気配すらないままなのに、静かな闇が広がったままだというのに、テイムドメイルが突如として飛び立ったのだから。
彼らはやはり精鋭である。自分の不可解な行動に対しても、呆けるのは一瞬の事。何らかの異常が発生したと判断し、警戒態勢を強化するために動き出していた。
ただ、いくら翡翠のシステムがロックオン警報を垂れ流したとはいえ、これが誤報だったことは覆しようのない事実である。そのため、ヴィンディケイタ達の行動が迅速であればあるほど自分の過失は重い。
『一切自分の責任です。警備を混乱させてしまい、申し訳ありませんでした』
故に僕は、月明かりに輝く銀狼女性を前に、深く深く翡翠の腰を折ったのだが、これにヴィンディケイタ達は大きくざわめいた。
「ちょ、ちょいちょいちょい! やめてくださいよそんな!」
「あぁぁアマミ殿に頭下げさせちまったら、俺たちゃ我が君に合わせる顔がありません! なぁ!?」
「然り然り! 貴方様は大恩ある御方なれば!」
間違いは誰にでも、またどんな場合でも起こり得ることである。だが、集中を必要とする夜間警備に際し、自らの過失によって混乱を招いたことは、叱責されて当然であろう。
にも関わらず、老若男女、なんなら種族さえ問わず、真銀の軽鎧を纏った者たちは今まで以上に慌て始める。
だが、世間的に玉匣の長と見られている自分が、軽々しく頭を上げるわけにはいかない、と思って硬直していると、やがて小さなため息を翡翠の外部マイクが拾った。
「ふぅ……アマミ殿、どうか頭を上げてくれ。我らの中に責を問おうなどという者は居ないし、私もそちらの事情は把握しているつもりだ――貴方がアポロニアを庇おうとしていることも、な」
まさか、と顔を上げたところ、モニターに映ったのは困ったように笑う毛深い顔。
それは呆れというより、手のかかる友人を見つめるかのようで、自分の中にあった、かまをかけられているのではないか、という想像は一瞬の内に消え去った。
あの場に自分とアポロニア以外は居なかったのは間違いない。だが、カラやアステリオンが聴力に優れている以上、それらの上位互換とされる希少なウルヴルなら、はるか遠くから自分達の会話を聞いていたとしても、なんら不思議はないだろう。
おかげで僕はまた、マキナを着装したまま後ろ頭を掻こうとして、ガツンと金属のぶつかる音を立ててしまった。
『……お恥ずかしい話ながら、仰る通りです』
「不躾だとは思ったんだけどね。何分、耳は良くても育ちは悪いから。そのお詫びという訳ではないが、早く彼女の所へ行ってやってくれないか。アポロニアのことだから、貴殿が帰ってくるまでひたすら待ち続けているだろう」
『何故、そんなことが?』
アポロニアとペンドリナが話しているところは何度か見ているが、そこまで親しい友好関係を結んでいると聞いたことはない。
しかし彼女は、さも当然と言った様子で肩を竦めた。
「わかるとも。アステリオンもウルヴルも、主を求める気持ちは変わらない。それに、私だって女なのでな」
片目でチラリとこちらを覗くペンドリナの姿に、いつもの精強な戦士の面影はなく、まるで友人の恋を応援する学生のような雰囲気が漂っている。
しかし、そんな様子が意外に思えたのは自分だけでもないらしく、周囲のヴィンディケイタ達が揃ってギョッとした表情を浮かべたことで、彼女は不服そうにギロリと周囲を睨みつけていた。ただの照れ隠しかも知れないが。
とはいえ、背中を押してもらっているからには、ペンドリナの反応がどちらかなど関係ないと、自分はもう一度深々と頭を下げた。
『本当に申し訳ない。そして、ありがとうございます。この埋め合わせは、後日必ず』
「ふふっ……健闘を祈っているぞ、英雄殿」
温かい視線に見送られて踵を返せば、背中には低いどよめきと抑えられた黄色い声が飛んでくる。
だからだろうか。ロックオン警報が鳴った瞬間よりも、今の方がよっぽど緊張しているように思えてならない。
翡翠の中に表示された基準のない時計は、既に日付の変わったことを示している。警戒態勢が緩められれば、またすぐ要塞は静かになるだろう。
防壁の上以外は寝静まっていて当然。だから、ペンドリナの言葉が正解という確証なんてなく、これは自分としても希望的観測だったと言っていい。むしろ先に眠っていたなら、何も心配しなくていいという証左となったかも知れないくらいだ。
だが、足音をできるだけ殺して玉匣へ戻ってくれば、履帯の横で膝を抱える小さな影が1つ。これでペンドリナの言葉は揺るがぬ現実となり、僕はこりゃ敵わないと小さくため息をついた。
『ホントに起きてるんだもんなぁ』
「あ……ごしゅ、じん」
暗がりに縮こまっていた彼女は、尻尾を体に巻き込んでおり、こちらを見上げてくる茶色く大きな瞳にも、あからさまな怯えが滲んでいた。
それはまるで、このロックピラーで彼女を捕虜にしたあの日、帝国軍に戻ることはできないと告げた時と同じ、何かを失いかねない恐怖を前にしているかのような雰囲気。
けれど、今のアポロニアは捕虜でもなければ、命を狙われている状況でもなく、だからこそ僕は努めて、いつもと変わらぬ調子で声をかけた。
『わざわざ地べたに座っていなくても。お尻が痛くなりそうだ』
「これはその、なんとなく……」
『そうかい。まぁダメと言うつもりはないが――よっと』
不寝番の任から解かれたのをいいことに、僕は視線を彷徨わせる彼女の前でわざと翡翠を脱ぎ捨てる。
ただでさえ、この鋼は戦うことには向いていても、誰かと触れ合うことには全く不向きなのだ。なんとなくこんな暗がりを選んで座っているアポロニアを前に、着たままでいる理由などどこにもない。
「ヴィンディケイタ達に事情は説明してきたよ。まぁ、最初は誤魔化すつもりだったんだが、先にこっちの事情を察せられてしまっていてね。苦情を言われるどころか、早く戻ってやってくれ、なんてペンドリナさんに背中を押されてしまったが」
「……そう、ッスか」
パイロットスーツ姿のまま隣に腰を下ろせば、彼女は膝を強く抱え込んだきり黙り込む。
どうせ夜も長いのだから、話を急かす必要もない。
そう思っていたのだが、こちらが同じように沈黙していると、やがて震える声が隣から聞こえてきた。
「ご主人は怒らないんスか……? 自分の事」
「怒る? なんでだい?」
「だって自分は勝手なことして、すごい迷惑、かけたのに……」
それはまるで、怒って欲しい、叱って欲しい、と言わんばかりの口調だったように思う。
しかし、アポロニアがやらかした失敗に関して、僕には叱責する理由がないため、沈む声を横目に頬を掻くくらいしかできなかった。
「うーん……さっきも言ったが、アポロなりによかれと思ってやったんだろう? それに君は、ロックオン警報の事なんて知らなかったんだから、僕には怒る理由がないし、むしろ怒られるべきは適当な教え方をした僕の方だよ」
「そ、そんなこと、ご主人は何も――!」
勢いよく顔を上げた彼女には、自分の顔がしっかり映り込んだことだろう。こちらからも、少しだけ腫れた目と、動揺してクシャクシャの顔がハッキリわかる。
知らなかったでは済まされないことも、世の中にはあるだろう。だが、今回の事故では、取り返しのつかないようなことはなかったのだ。泣く程反省したアポロニアを慰めてやりたくはあっても、これ以上叱るなんてとんでもない話である。
だから僕は静かに笑いかけたのだが、アポロニアはどうしてかバツが悪そうにまた俯き、くるりと尻尾を丸めた。
「自分、その……猫とご主人が話してるの、聞いちゃったんス。そしたら急に、なんだか置いて行かれたような、ご主人が遠くに行っちゃったような気がしてきて――そう思ったら、居ても立っても居られなくて」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
彼女のことである。わざわざ聞き耳を立てていた訳ではないだろうが、少しでも聞こえてしまったら、興味を持つのも当然だった。
決してファティマだけにそうしたわけではないにせよ、考えれば考えるほど恥ずかしいやら申し訳ないやら、ついでに何故か背中が痒くなってくる。
しかし、深刻な様子で話す彼女を前に、それを顔や行動に出すわけにはいかず、歯を食いしばって相槌を打った。
「それで、夜中に自主訓練を?」
「自分は怖いんス。ご主人に見て貰えなくなることが、認めてもらえなくなることが、どんなことよりも……だから――!」
「なら、やはり今回悪いのは僕だ。すまなかった」
影を纏った顔から吐き出される悲鳴のような声を、僕は最後まで聞かない内に自らの言葉で塗りつぶした。
気恥ずかしさなど問題ではなく、己の理想など安っぽい物なのだから。
「ご、主人……?」
「せめて誠実にとか、きちんと1人ずつと向き合ってとか、ずっとそんなことを思ってたんだが、結果的に随分待たせてしまった。不安に、させてしまった」
キョトンとするアポロニアを前に、本当にすまない、と深く頭を下げる。
誰かを後回しにしようなんて思ったことはなくとも、自分の身体が1つしかなく、同時に伝えない以上、順番は否応なく出来上がる。それも戦いの合間に時間を見つけ、雰囲気を重視してなんて考えた結果がこれだ。
それでも彼女は求め続けてくれていて、どう報いればいいのかは未だにわからない。
ただ、暫しの沈黙を挟んだ後に聞こえてきたのが、震える吐息と鼻声だったのだから、自分が相当罪深いことは確かだった。
「……うぅ、そう、ッスよ。自分、ずっと、ずっと待ってたんスからね」
「ごめん」
「謝罪なんて、そんなの全然、欲しくないッス。要らないッス」
「それでも、ごめん。あと、今まで待っていてくれて、ありがとう」
「……それだけ、ッスか?」
少しだけ頭を上げて視線を合わせれば、彼女は大粒の涙が流れるのを拭おうともしないまま、こちらをじっとりと睨みつけてくる。
無論、こちらとしてもそんなつもりは毛頭なく、僕は苦笑を浮かべながら彼女の軽い身体を強く抱き寄せた。
「ぁキャンッ!?」
「まさか。君をこれ以上泣かせ続けるようじゃ、僕は自分で腹を斬らなきゃいけなくなる」
ボリュームのある髪を緩く撫でれば、突然のことに硬直していた体は少しずつほぐれ、やがてこちらの胸に顔を埋めながら、グズグズと嗚咽が漏れていく。
それが少し落ち着くまで待ってから腕の力を緩めれば、アポロニアは自然と濡れた顔でこちらを見上げてくれる。
すると意外なもので、ペンドリナのところから戻る際に感じた緊張は出て来ず、代わりに思ったままの言葉が口から流れ出た。
「……こんな盆暗男だが、それでもアポロは、僕の恋人になってくれるかい?」
「ひっぐ――今まで、こんなに待たせてくれた分、全部、全部っ、取り立てて、やるんスから、ね……!」
「そいつは怖いな。覚悟しとくよ」
照れ笑いを浮かべながら、一層クシャクシャになった頬に手を添わせれば、小さなアポロニアは少しだけ背中を伸ばし、僕はそれを覆うように唇を触れ合わせる。
最初は僅かにしょっぱさを感じる優しい口づけ。けれど、体格に合わせて小さな彼女の口は、途中からもっと強くとねだるように押し付けてくる。
求められるままに、また求めたいままに、長いキスだったように思う。
それが穏やかに離れた時、彼女はハッとした表情を浮かべると、再びこちらの胸に顔を埋めたが。
「……こ、こっち見ないでほしいッス。恥ずかしい、ッスから」
「なんだい。随分積極的だったのに」
「う、うるさいッス。乙女心はフクザツなんスよ」
腰をホールドしたまま、アポロニアはのしかかるように全身をこちらに預けてくる。その姿勢も含めて、乙女心まで持ち出されては、自分には手も足も出ない。
ただ、口調は怒っているようでも、肩越しに見える太い尻尾は大きく振られているあたり、やはり照れ隠しなのだろう。
そのまま背中を優しく擦っていれば、暫くしてからようやく頬を乾かした顔が、胸の中から目だけでこちらを見上げてきた。
「――キス、ずっとしてみたかったッスけど、い、いざ、やってみたら、思ってたよりドキドキするんスね……ご主人はどう、ッスか?」
「ドキドキしないわけないだろう。相手が大好きなアポロなんだから」
「う、が……」
自分には勿体ないような、いつも明るく家庭的で可愛らしい彼女は、ただでさえ身体を密着させるだけで、誰より柔らかさが伝わってくる相手なのだ。それにねだるような口づけをされて、平然として居られるはずもない。
ただ、照れ笑いを浮かべながら口にした一言が、あまりにも直球過ぎたからか、暗闇でもわかるほど真っ赤に顔を染めた彼女に、ポカポカと胸板を叩かれてしまったが。
「~~~っ!! ず、ずっと鈍感だった癖に、今更真っ直ぐこっち見て言うの、なんかズルいッスぅ!」
「い、いやそう言われても困るんだが――あたた、ごめんごめん」
非力なアステリオンの拳であるため、痛みなど全く感じなかったが、宥めるためにそんなことを口にすれば、彼女は疲れたように大きなため息をつきながら身体を離して真正面に座りこむ。
その表情はとても穏やかで、アポロニアらしい笑みを湛えたものだったが。
「……自分、今すっごい幸せッスよ。もう何があっても、絶対、ぜーったい離れないッスから」
心臓が跳ねる。
こう短時間で連続すると、中々堪える物だとは思ったが、それも悪い気分ではない。
言われるまでもなく、自分もアポロニアが嫌がらない限り離れるつもりはないし、他の皆に対しても同じことである。
だからこそ、この場で同じ思いであることを伝えておきたかったのだが、言葉を紡ぐまでに生まれた僅かな隙をついて、まさか頭上から別の声が降ってくるなど、誰が想像できただろう。
「――ゲロ甘、ですね」
「ぅキャぁンッ!? ね、猫!? い、いいいいいいつからそこに居やがったッスか!?」
ビクン、と身体を震わせてアポロニアは飛び上がる。無論自分も、咄嗟にホルスターから拳銃を抜き出しつつ、立ち上がりそうになるくらい驚いていたが。
その一方で、声の主であるファティマは特に面白そうでもなく、くぁっと小さく欠伸をすると、玉匣の上から軽く飛び降りてきた。
「いつからって最初からですよ。ボク屋根の上で寝てましたもん。まぁそっちだって、ボクとおにーさんのお話聞いてたみたいですし、これでお相子でしょ?」
盗み聞きするつもりはなかったが、先に盗み聞きされていたのがわかったからには、自分にも正当な権利があるだろう。と、言うことらしい。
それも偶然とはいえ、先にやったのはアポロニアである以上、彼女は頭を抱えて悶えるしかできなかったようだ。
「う、ぐお、おおおおお……穴があったらどころか、穴掘ってでも入りたいッス……」
「だったらササッと掘って入っといてください。それよりおにーさん。さっき犬――アポロニアともしてましたよね、キス」
ファティマは地面を掻きむしる犬娘から、ほぼ棒立ち状態になっていた自分へと向き直ると、顔を覗き込むようにしながら迫ってくる。
敢えて途中で呼び方を変えた理由はわからない。ただ、その迫力だけは圧倒的であり、僅かに後ずさった僕は、玉匣の側面装甲に背中をぶつけつつ頷いた。
「あ、あぁ……確かにしたけど、それが何――ん゛ん゛ーッ!?」
視界一杯に広がるファティマの顔。それも先ほどのアポロニアとの口づけを見ていたからか、こちらを離さないようにしっかりホールドしつつ、強く強く唇が押し付けられてくる。
呼吸が止まるほどのキスはきっと、彼女が考えた最大の愛情表現だったのだろう。
ただ、そっと力が緩んでファティマの顔が離れていく瞬間、チロリとこちらの唇を舐めていくとは思わなかったが。
「んふふ……これで、上書き完了です」
照れたように笑う少女に、一気に顔が熱くなる。
突如訪れた、無垢が故の強烈な破壊力。その凄まじい衝撃に上書きという言葉が添えられた意味は、敢えて語る必要もないだろう。
「な、ななななななっ!? そうはさせないッスよ! 自分だって、ご主人の1番になるって決めたんスから! こればっかりは、シューニャだろうとマオリィネだろうと、ファティマにだって譲ってやらないッス!」
「ふふん、ボクだって、アポロニアにどうぞなんて言いませんからね」
名前を呼ぶという小さな変化。
いつもと変わらないじゃれ合いに思えたが、彼女らの間には何かがあったのだろう。同じ屋根の下で暮らす家族なのだから、僕としては嬉しい変化である。
ただ、それを微笑ましく思っていたのも束の間。不敵な笑みを浮かべるファティマと、牙を見せて唸るアポロニアのにらみ合いは、2人だけで決着がつくものではなく、必然的に輝く4つの瞳がこちらへ向けられた。
「ねぇおにーさん、もーいっかいしーましょ?」
「次は自分の番ッスよねご主人!? ほ、ほら自分年上ッスから、も、もっと激しいの、しても、いいッスから!」
「ちょっ、君ら、こういうことは何かを競うようなモノじゃ――」
左右からにじり寄る2つの影に、僕は何か危険な予感を察したが、時すでに遅し。
その夜、これまで逃げ続けてきた自分に課せられた試練は、興奮する2人をどうやってうまく寝かしつけるかだったらしい。
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