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定住生活の始まり
第186話 烏羽恋歌
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「私に与えられた勅命は2つ。強大な力を持つキョウイチの目付け、そして可能ならば――貴方と婚姻を結んで王国の味方とすること」
俯きがちにマオリィネは、リヴィエラの言葉が真実であると語る。
暫く僕は唖然として彼女を見ていたが、やがてそれも当然と思い至って、深いため息と共に椅子へ腰を下ろした。
王国からしてみれば、化物が1匹腹の中に居るようなものなのだ。それはいつ暴れ出すかもしれず、首輪をつけて大人しくさせておきたいのも頷ける。
しかしそれを大っぴらに、しかもマオリィネを使うという最悪の手段で持ち込まれては、流石に黙ってはいられない。
それは拗らせた爺というガーラットに対する心象さえ、大きく変えてしまうほどだった。
「……なるほど。チェサピーク伯爵が烈火の如くお怒りになるわけだ」
「ふん――」
未だに納得はしていないと老騎士は大きく鼻息を吐く。
だがこちらに話が伝わっていなかったことを理解してか、今までのような野獣が如き殺意は失せていた。
ここでは感謝しなければなるまい。なんせ、ガーラットが王都で大暴れしてくれなければ、この事実はひた隠しのままであっただろう。そして、リヴィエラがここへ訪れることもなかったはず。
だから僕はさも穏やかな様子で厳格な婦人へと語りかけた。
「伯爵夫人。ここへ来られた目的は、自分へのお詫びと仰られましたね。それは何のためです?」
「簡単な事です。こんな些末なことで、伝統あるチェサピークの歴史に汚点を残すわけにはゆきませんからね」
「面子のための口止め、というわけですか」
「それは縁より安く、けれど金より高い代物です。軽んじるわけにはいかないでしょう」
こちらを見る伯爵夫人の目がギラリと光る。
その迫力に一瞬気圧されたが、その明快な立ち位置の提示はむしろサッパリしていて気持ちがいい。
おかげで僕は躊躇いなく対価を要求できる。
「ではお約束する代わり、1つ面倒をお願いしても?」
薄く微笑んだ僕にチェサピーク夫妻は揃って頷き、ただ1人マオリィネだけが、状況が読めず不安そうに身体を揺すっていた。
■
ガーラット達が立ち去った後、僕はマオリィネが淹れてくれたお茶をすすりながら、ふぅと息を吐いた。
僅かな渋みと芳醇な香りは久しく感じていないもので、ソファに身体を沈めれば気分も穏やかな物となっていく。
しかし隣に座るマオリィネはバツが悪いのか、お茶には手を付けないままで静かに目を閉じた。
「その、秘密にしていてごめんなさい」
「別に気にしていないよ。内容があれじゃ言い出せないのもわかる」
謝罪してもらう理由はどこにもないと、僕は小さく手を振って彼女をあしらう。
まるで怒られるとでも思っていたらしい。マオリィネはパチパチと目を瞬かせた後、大きく息を吐いてソファに体重を預けた。
「ありがとう――それで、さっきの手紙には何を書いたの?」
ようやく緊張の糸が解れたらしい彼女は、僅かに茶を飲んで口を湿らせると、リヴィエラにお願いした面倒の内容について聞いてくる。
それは至って単純だ。
「これ以上マオリィネを困らせるなら、リビングメイルが枕元に立つぞ、って書いた」
「はぁ!? 信じられない! 女王陛下に脅迫文送るなんて!」
僕の答えにマオリィネはギョッとして身体を仰け反らせる。それがなんだか可笑しくて吹き出せば、琥珀色の瞳にギラリと睨まれた。
第一王国がどうなろうと僕にとっては知った事ではなく、むしろ身内である彼女に対する人権侵害の方が余程問題なのだ。
おかげで反省する気もない僕の様子に、マオリィネはがっくりと項垂れる。
「――呆れた。もうどうなっても知らないわよ」
「場合によっては王宮を瓦礫にしないとなぁ」
「お願いだからやめてよね!?」
こんなにしょうもないことで国賊扱いされるのは嫌だと、彼女はソファを叩きながら抗議する。
とはいえそれは相手次第である。自分がいかにドンパチしたくないと思っていても、あの程度で怒り狂って攻撃してくるような凡愚なら、無理矢理でも王座を別の誰かに明け渡してもらうしかない。
そんな軽い思考の僕に対し、マオリィネは抗議を続けるのも疲れたようで、ソファの肘置きにしな垂れる。暫くはそのままで何かブツブツと呪詛を呟いていた。
けれどそうしていることにも飽きたのか、僕がちょうど茶を飲み干した頃に、マオリィネが小さく零す。
「どうして、そんなに怒ってくれたの?」
「そりゃあ大切な身内の信頼を崩されそうになったんだ。誰でも怒るだろう」
何を当然のことをと、ティーポットからおかわりを注ぎながら返せば、彼女はようやく姿勢を正した。
既にマオリィネのティーカップからは湯気が消えており、その中身は冷めているのだろう。それを一息に流し込むと、彼女は白磁の底を覗き込みながら、少し緊張した声で僕に疑問を投げかけた。
「もしも、よ。私が貴方に婚姻を持ちかけていたとしても、受けてくれなかった?」
「裏の事情を知っていれば躊躇いなく断っただろうね。僕は権謀術数が得意じゃないから」
彼女の疑問を僕はバッサリと切って捨てる。
自分が普通に対応できたのは、マオリィネやジークルーンが庶民的な思考を持ち合わせていたからに他ならない。
であればステレオタイプな貴族たちと噛み合うはずもなく、欲望渦巻く世界に足を踏み入れるなど、何をされても御免だった。
しかしマオリィネは予想外に、じゃあ、と質問を続ける。僅かに潤んだ瞳に、何故か僕は息を呑んだ。
「裏の事情がなかったとしたら、どう?」
「どうって言われてもな……そりゃ君みたいな綺麗な娘さんに、好意を向けられるのは嬉しいが」
「そう――それじゃ、遠慮しないわ」
何が、と言おうとしたように思う。
けれど自分の声帯が空気を揺らすより先に、首に彼女の腕が巻き付いてきた。
頬に柔らかい唇の感触があり、少し後にマオリィネは肩に頭を預ける。
「わかってくれた?」
「これが、イイコトって奴かな」
「私で3人目だものね。幸せ者じゃない?」
「そう、なんだけどね……どうしたもんだろうか」
あまりにも真っ直ぐすぎる好意に、僕は唇の感触が残る頬を掻く。
そんな困った様子が楽しいのか、マオリィネは小悪魔的に微笑みながらこちらの腕にもたれかかってきた。
「纏めて囲ってくれてもいいのよ?」
「い、いや、いきなり何を言ってんだい!?」
婚姻の話を持ち出された時以上の衝撃にソファの上で体が跳ね、自分の唾液が気管に入ってむせ返る。
またからかわれているのかと軽く睨めば、しかしマオリィネは真剣な顔でこちらをみていた。
「これでも結構本気よ。そうしてでも、貴方と一緒に居たいって思えるもの」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、なんでそこまで」
「……そうね。少しだけ、身の上話をしましょうか」
香水の香りと柔らかな感触が体から離れていく。
マオリィネはその場で姿勢を正し、いつも通り長い黒髪を軽く払うと琥珀色の瞳をこちらへ向けて語り始める。
「私の実母、クシュの母は妾だった。正室のお母様は病で子どもを産めない体だったことと、お父様がキメラリアを差別しない人だったのが理由でね。ただ運が悪いことに私には、現れにくいはずのキメラリアの特徴が現れてしまった」
「黒い髪、か」
彼女は困ったように微笑みながら小さく頷く。
デミは特徴が現れること事態が稀というだけあって、その衝撃は非常に大きかったことだろう。ただでさえキメラリアは卑賎であるというのが、現代における常識なのだから。
「私が男なら、髪を剃るだけですんだのにね。クシュの髪は染料を弾くから染めることもできなくて、お父様は困り果てたそうよ」
「じゃあ、どうやって周囲を信じさせたんだい?」
「正室のお母様が捨て身の策でね。私が産まれてすぐに亡くなってしまったのだけれど、それをありもしない出産の無理が祟ったこととして、周囲にばらまいたのよ。流石に誰も否定できないでしょう?」
病に侵されて子を成せなかった人間の母は、それでもとマオリィネを愛したのだろう。消えゆく命の灯を使い、彼女の将来を照らそうとしたのだ。
強い母の想いに、僕はおぉと感嘆の声を漏らした。
「とんでもない力技だな……凄い人だ」
「でしょう? おかげで私は黒染め趣味の変な女として、人間で居られることになった。けれど、体面を気にする貴族ですもの。黒髪を理由に避けられて友達もできなかったわ。ジークやチェサピーク兄弟を除いてね」
マオリィネは薄く目元に影を落とす。
口調は軽いままでも、僅かに緊張した体と不器用な表情が、辛い記憶であることを伝えてくる。
「私は2人のお母様が大好きだった。だからこの黒髪を馬鹿にされるのがずっとずっと悔しくて、嘲笑する奴らを見返してやりたくて、ガーラット様に強くなりたいって言ったのよ」
「それでチェサピーク伯爵の元で剣を?」
「8歳から15歳までの間に剣を叩き込まれたわ。おかげで騎士団にも入れたし、貴族たちも私への見方も変わりはじめた。ガーラット様が縁談を潰しにかかるようになったのもこの頃ね」
マオリィネは無我夢中で鍛錬に励む姿は、容易に想像ができた。彼女の中のプライドが、そして愛する家族への想いが、それこそファティマの怪力さえ寄せ付けない洗練された剣を作り上げている。
何故かはわからないが、僕はそんな彼女の努力がとても誇らしげに思えて、僅かに声を弾ませた。
「縁談が来ていたのなら、当初の目標は達成したんじゃないのかい?」
「私も最初はそう思ったけどね、貴族たちにとってはチェサピーク伯爵家との縁故に使える道具を見つけただけ。結局自分は貴族社会に認めてもらえないんだって、思い知らされた。しかも騎士になったから戦争にも行かないといけなくて、壊れてしまいそうだったわ」
「それは……苦しかっただろう」
突如現れた弱弱しい笑みに言葉が詰まる。
全く役に立たない同情だけが開いた口から零れ落ちたが、それをマオリィネはゆるゆると首を横に振って遮断した。
「でも、キョウイチはそうじゃなかった。私がデミだって知りながら、味方で居てくれる、守ってやるって言ってくれた。あれ、泣き出しそうなくらい嬉しかったのよ?」
思い出されるのはテクニカの地下。玉匣の車内で彼女は駄々をこねた。
それがあまりに自然で、初めて僕はマオリィネを心から信頼しようと決めた時だったように思う。
あの時と同じように琥珀色の瞳に見つめられ、僕は照れ臭くなって視線を逸らした。
「大袈裟だな。僕は思ったままを言っただけだよ」
「その思ったままに、私は救われたわ。だから離れたくない、一緒に居たいって思うのよ。いけない?」
「……いや、そう思ってくれるのは、本当に嬉しいよ」
レーザーのように直進してくる純粋な好意に頬が熱くなり、そんな風に思って行動を共にしてくれていたという嬉しさから、僕は一切の言葉を失った。
マオリィネの話が途切れたことで、どこかぎこちない空気が流れる。けれど居心地は決して悪くない不思議な感覚に、僕らはちらちらと視線をぶつけ、最終的になんだか馬鹿馬鹿しくなって笑いあう。
すると緊張が解れたのか、目を擦りながらマオリィネが口を開いた。
「ねぇ、1つだけ我儘を聞いてくれる?」
「今までみたいにとんでもない奴じゃないなら」
ただでさえ、彼女からはとんでもない要求が出されることが多い。
そんな経験から、少し身構える振りをしてみれば、マオリィネはキッと目尻を釣り上げた。
「違うわよ! もぉ……意地悪なんだから」
「冗談だよ、なんだい?」
嘘だと軽く手を振って、我儘とやらの内容を促す。
しかしどうにもからかわれたのが不服だったらしく、彼女は軽く頬を膨らませて無言のまま行動に打って出た。
「ちょっ、マオ!?」
ファティマの真似とでも言えばいいのか、予想外に黒髪がごろりと膝の上に寝転がる。それも両腕を腰に回し、僕の服に顔を埋める形をとった。
「撫でてよ」
しかしぶっきらぼうな言い方がどこか子どものようで、僕はため息1つで艶やかな黒髪に手櫛を通す。
マオリィネはそれきり黙ったまま、長い間撫でられていた。たまに耳に指が当たればピクリと身体を震わせるが、けれど腰に回した手を離そうとはしない。
「待ってるから、決着がつくまで、ね……」
「善処しよう」
いつもと同じ言葉を投げかければ、僅かにマオリィネの腕から力が抜ける。
それから小さな寝息が聞こえ始めるまで、大して時間はかからなかった。
――そろそろ、ケジメをつけないとな。
脳内に浮かぶ懐かしい少女の顔に、忘れるわけじゃないと頭を下げる。
都合のいい解釈だと叫ぶ心を無理矢理に押さえつけ、僕は向かうべき進路を定める作業に入ろうとしていた。
俯きがちにマオリィネは、リヴィエラの言葉が真実であると語る。
暫く僕は唖然として彼女を見ていたが、やがてそれも当然と思い至って、深いため息と共に椅子へ腰を下ろした。
王国からしてみれば、化物が1匹腹の中に居るようなものなのだ。それはいつ暴れ出すかもしれず、首輪をつけて大人しくさせておきたいのも頷ける。
しかしそれを大っぴらに、しかもマオリィネを使うという最悪の手段で持ち込まれては、流石に黙ってはいられない。
それは拗らせた爺というガーラットに対する心象さえ、大きく変えてしまうほどだった。
「……なるほど。チェサピーク伯爵が烈火の如くお怒りになるわけだ」
「ふん――」
未だに納得はしていないと老騎士は大きく鼻息を吐く。
だがこちらに話が伝わっていなかったことを理解してか、今までのような野獣が如き殺意は失せていた。
ここでは感謝しなければなるまい。なんせ、ガーラットが王都で大暴れしてくれなければ、この事実はひた隠しのままであっただろう。そして、リヴィエラがここへ訪れることもなかったはず。
だから僕はさも穏やかな様子で厳格な婦人へと語りかけた。
「伯爵夫人。ここへ来られた目的は、自分へのお詫びと仰られましたね。それは何のためです?」
「簡単な事です。こんな些末なことで、伝統あるチェサピークの歴史に汚点を残すわけにはゆきませんからね」
「面子のための口止め、というわけですか」
「それは縁より安く、けれど金より高い代物です。軽んじるわけにはいかないでしょう」
こちらを見る伯爵夫人の目がギラリと光る。
その迫力に一瞬気圧されたが、その明快な立ち位置の提示はむしろサッパリしていて気持ちがいい。
おかげで僕は躊躇いなく対価を要求できる。
「ではお約束する代わり、1つ面倒をお願いしても?」
薄く微笑んだ僕にチェサピーク夫妻は揃って頷き、ただ1人マオリィネだけが、状況が読めず不安そうに身体を揺すっていた。
■
ガーラット達が立ち去った後、僕はマオリィネが淹れてくれたお茶をすすりながら、ふぅと息を吐いた。
僅かな渋みと芳醇な香りは久しく感じていないもので、ソファに身体を沈めれば気分も穏やかな物となっていく。
しかし隣に座るマオリィネはバツが悪いのか、お茶には手を付けないままで静かに目を閉じた。
「その、秘密にしていてごめんなさい」
「別に気にしていないよ。内容があれじゃ言い出せないのもわかる」
謝罪してもらう理由はどこにもないと、僕は小さく手を振って彼女をあしらう。
まるで怒られるとでも思っていたらしい。マオリィネはパチパチと目を瞬かせた後、大きく息を吐いてソファに体重を預けた。
「ありがとう――それで、さっきの手紙には何を書いたの?」
ようやく緊張の糸が解れたらしい彼女は、僅かに茶を飲んで口を湿らせると、リヴィエラにお願いした面倒の内容について聞いてくる。
それは至って単純だ。
「これ以上マオリィネを困らせるなら、リビングメイルが枕元に立つぞ、って書いた」
「はぁ!? 信じられない! 女王陛下に脅迫文送るなんて!」
僕の答えにマオリィネはギョッとして身体を仰け反らせる。それがなんだか可笑しくて吹き出せば、琥珀色の瞳にギラリと睨まれた。
第一王国がどうなろうと僕にとっては知った事ではなく、むしろ身内である彼女に対する人権侵害の方が余程問題なのだ。
おかげで反省する気もない僕の様子に、マオリィネはがっくりと項垂れる。
「――呆れた。もうどうなっても知らないわよ」
「場合によっては王宮を瓦礫にしないとなぁ」
「お願いだからやめてよね!?」
こんなにしょうもないことで国賊扱いされるのは嫌だと、彼女はソファを叩きながら抗議する。
とはいえそれは相手次第である。自分がいかにドンパチしたくないと思っていても、あの程度で怒り狂って攻撃してくるような凡愚なら、無理矢理でも王座を別の誰かに明け渡してもらうしかない。
そんな軽い思考の僕に対し、マオリィネは抗議を続けるのも疲れたようで、ソファの肘置きにしな垂れる。暫くはそのままで何かブツブツと呪詛を呟いていた。
けれどそうしていることにも飽きたのか、僕がちょうど茶を飲み干した頃に、マオリィネが小さく零す。
「どうして、そんなに怒ってくれたの?」
「そりゃあ大切な身内の信頼を崩されそうになったんだ。誰でも怒るだろう」
何を当然のことをと、ティーポットからおかわりを注ぎながら返せば、彼女はようやく姿勢を正した。
既にマオリィネのティーカップからは湯気が消えており、その中身は冷めているのだろう。それを一息に流し込むと、彼女は白磁の底を覗き込みながら、少し緊張した声で僕に疑問を投げかけた。
「もしも、よ。私が貴方に婚姻を持ちかけていたとしても、受けてくれなかった?」
「裏の事情を知っていれば躊躇いなく断っただろうね。僕は権謀術数が得意じゃないから」
彼女の疑問を僕はバッサリと切って捨てる。
自分が普通に対応できたのは、マオリィネやジークルーンが庶民的な思考を持ち合わせていたからに他ならない。
であればステレオタイプな貴族たちと噛み合うはずもなく、欲望渦巻く世界に足を踏み入れるなど、何をされても御免だった。
しかしマオリィネは予想外に、じゃあ、と質問を続ける。僅かに潤んだ瞳に、何故か僕は息を呑んだ。
「裏の事情がなかったとしたら、どう?」
「どうって言われてもな……そりゃ君みたいな綺麗な娘さんに、好意を向けられるのは嬉しいが」
「そう――それじゃ、遠慮しないわ」
何が、と言おうとしたように思う。
けれど自分の声帯が空気を揺らすより先に、首に彼女の腕が巻き付いてきた。
頬に柔らかい唇の感触があり、少し後にマオリィネは肩に頭を預ける。
「わかってくれた?」
「これが、イイコトって奴かな」
「私で3人目だものね。幸せ者じゃない?」
「そう、なんだけどね……どうしたもんだろうか」
あまりにも真っ直ぐすぎる好意に、僕は唇の感触が残る頬を掻く。
そんな困った様子が楽しいのか、マオリィネは小悪魔的に微笑みながらこちらの腕にもたれかかってきた。
「纏めて囲ってくれてもいいのよ?」
「い、いや、いきなり何を言ってんだい!?」
婚姻の話を持ち出された時以上の衝撃にソファの上で体が跳ね、自分の唾液が気管に入ってむせ返る。
またからかわれているのかと軽く睨めば、しかしマオリィネは真剣な顔でこちらをみていた。
「これでも結構本気よ。そうしてでも、貴方と一緒に居たいって思えるもの」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、なんでそこまで」
「……そうね。少しだけ、身の上話をしましょうか」
香水の香りと柔らかな感触が体から離れていく。
マオリィネはその場で姿勢を正し、いつも通り長い黒髪を軽く払うと琥珀色の瞳をこちらへ向けて語り始める。
「私の実母、クシュの母は妾だった。正室のお母様は病で子どもを産めない体だったことと、お父様がキメラリアを差別しない人だったのが理由でね。ただ運が悪いことに私には、現れにくいはずのキメラリアの特徴が現れてしまった」
「黒い髪、か」
彼女は困ったように微笑みながら小さく頷く。
デミは特徴が現れること事態が稀というだけあって、その衝撃は非常に大きかったことだろう。ただでさえキメラリアは卑賎であるというのが、現代における常識なのだから。
「私が男なら、髪を剃るだけですんだのにね。クシュの髪は染料を弾くから染めることもできなくて、お父様は困り果てたそうよ」
「じゃあ、どうやって周囲を信じさせたんだい?」
「正室のお母様が捨て身の策でね。私が産まれてすぐに亡くなってしまったのだけれど、それをありもしない出産の無理が祟ったこととして、周囲にばらまいたのよ。流石に誰も否定できないでしょう?」
病に侵されて子を成せなかった人間の母は、それでもとマオリィネを愛したのだろう。消えゆく命の灯を使い、彼女の将来を照らそうとしたのだ。
強い母の想いに、僕はおぉと感嘆の声を漏らした。
「とんでもない力技だな……凄い人だ」
「でしょう? おかげで私は黒染め趣味の変な女として、人間で居られることになった。けれど、体面を気にする貴族ですもの。黒髪を理由に避けられて友達もできなかったわ。ジークやチェサピーク兄弟を除いてね」
マオリィネは薄く目元に影を落とす。
口調は軽いままでも、僅かに緊張した体と不器用な表情が、辛い記憶であることを伝えてくる。
「私は2人のお母様が大好きだった。だからこの黒髪を馬鹿にされるのがずっとずっと悔しくて、嘲笑する奴らを見返してやりたくて、ガーラット様に強くなりたいって言ったのよ」
「それでチェサピーク伯爵の元で剣を?」
「8歳から15歳までの間に剣を叩き込まれたわ。おかげで騎士団にも入れたし、貴族たちも私への見方も変わりはじめた。ガーラット様が縁談を潰しにかかるようになったのもこの頃ね」
マオリィネは無我夢中で鍛錬に励む姿は、容易に想像ができた。彼女の中のプライドが、そして愛する家族への想いが、それこそファティマの怪力さえ寄せ付けない洗練された剣を作り上げている。
何故かはわからないが、僕はそんな彼女の努力がとても誇らしげに思えて、僅かに声を弾ませた。
「縁談が来ていたのなら、当初の目標は達成したんじゃないのかい?」
「私も最初はそう思ったけどね、貴族たちにとってはチェサピーク伯爵家との縁故に使える道具を見つけただけ。結局自分は貴族社会に認めてもらえないんだって、思い知らされた。しかも騎士になったから戦争にも行かないといけなくて、壊れてしまいそうだったわ」
「それは……苦しかっただろう」
突如現れた弱弱しい笑みに言葉が詰まる。
全く役に立たない同情だけが開いた口から零れ落ちたが、それをマオリィネはゆるゆると首を横に振って遮断した。
「でも、キョウイチはそうじゃなかった。私がデミだって知りながら、味方で居てくれる、守ってやるって言ってくれた。あれ、泣き出しそうなくらい嬉しかったのよ?」
思い出されるのはテクニカの地下。玉匣の車内で彼女は駄々をこねた。
それがあまりに自然で、初めて僕はマオリィネを心から信頼しようと決めた時だったように思う。
あの時と同じように琥珀色の瞳に見つめられ、僕は照れ臭くなって視線を逸らした。
「大袈裟だな。僕は思ったままを言っただけだよ」
「その思ったままに、私は救われたわ。だから離れたくない、一緒に居たいって思うのよ。いけない?」
「……いや、そう思ってくれるのは、本当に嬉しいよ」
レーザーのように直進してくる純粋な好意に頬が熱くなり、そんな風に思って行動を共にしてくれていたという嬉しさから、僕は一切の言葉を失った。
マオリィネの話が途切れたことで、どこかぎこちない空気が流れる。けれど居心地は決して悪くない不思議な感覚に、僕らはちらちらと視線をぶつけ、最終的になんだか馬鹿馬鹿しくなって笑いあう。
すると緊張が解れたのか、目を擦りながらマオリィネが口を開いた。
「ねぇ、1つだけ我儘を聞いてくれる?」
「今までみたいにとんでもない奴じゃないなら」
ただでさえ、彼女からはとんでもない要求が出されることが多い。
そんな経験から、少し身構える振りをしてみれば、マオリィネはキッと目尻を釣り上げた。
「違うわよ! もぉ……意地悪なんだから」
「冗談だよ、なんだい?」
嘘だと軽く手を振って、我儘とやらの内容を促す。
しかしどうにもからかわれたのが不服だったらしく、彼女は軽く頬を膨らませて無言のまま行動に打って出た。
「ちょっ、マオ!?」
ファティマの真似とでも言えばいいのか、予想外に黒髪がごろりと膝の上に寝転がる。それも両腕を腰に回し、僕の服に顔を埋める形をとった。
「撫でてよ」
しかしぶっきらぼうな言い方がどこか子どものようで、僕はため息1つで艶やかな黒髪に手櫛を通す。
マオリィネはそれきり黙ったまま、長い間撫でられていた。たまに耳に指が当たればピクリと身体を震わせるが、けれど腰に回した手を離そうとはしない。
「待ってるから、決着がつくまで、ね……」
「善処しよう」
いつもと同じ言葉を投げかければ、僅かにマオリィネの腕から力が抜ける。
それから小さな寝息が聞こえ始めるまで、大して時間はかからなかった。
――そろそろ、ケジメをつけないとな。
脳内に浮かぶ懐かしい少女の顔に、忘れるわけじゃないと頭を下げる。
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