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テクニカとの邂逅
第134話 深夜酒場
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目の前に広がっている光景に、薄汚れた彼女は居心地悪そうに身体を揺すった。
肉に魚にサラダにスープ、籠一杯に丸く白いパンが積まれ、薄められた果実酒が木製のマグに並々と注がれている。どれも貧困街の人間には縁遠い食べ物だ。
にもかかわらず、対面に座った赤目の旅人は、小柄な体躯にも関わらずこれでもかと口へそれらを放り込んでいくではないか。
「あ、あの……私、お金が……」
「そんくらい出すってば。別に高い物でもないんだから、遠慮せず食べて食べて!」
見た目に似合わずオッサンのように笑うエリに、クリンは小さく喉を鳴らした。
ただでさえ、貧困層にとって普通の食事とは非常に敷居が高い物だ。1日に稼げる僅かな金子を全て食事に向けてなお、買えるのはレッサービーツと呼ばれる薄黄色の根菜を適当にぶち込んだ汁物くらいである。
それは一応スープと名乗ってはいるものの、汁は汚れた水のようなものでしかなく、挙句唯一の具材である適当に切られたレッサービーツは、顎を鍛えるための道具と言われても納得できるくらいに固い。それを無理矢理喉に流し込めば、とにかく泥臭いわ口に残るわ、舌を引っこ抜きたくなるくらいの不味さなのだ。
クリンとて腹を膨らせるために何度となく口にしているが、あれならたとえ腹痛に悩まされたとしても、痛んだ食品や誰かが地面に零した物を食べている方がマシだと考えてしまう。
そんな食生活を送っている彼女にとって、眼前に展開された大量の庶民食の誘惑は抗いようのないものだった。たとえこの後、自分の身に何が降りかかろうとも、常にこの瞬間を凌いで生きている貧困層にとっては関係がない。
だからクリンは恐る恐るスープに手を伸ばす。
なんとか食べられる名ばかりスープとは異なり、それはいい匂いの湯気が立ち、透き通る液体に豆類や穀物が浸っている。それが視界一杯に広がれば、最早衝動は止められない。
最初はスプーンで1掬い。よく熟した甘いササモコと柔らかいリービーンが口の中に広がっていく。
1口、また1口と啜り続ければ、あっという間にスープが減っていく。名残を惜しむ暇もなく、ただひたすらまともな食事と言う贅沢をクリンは幸せそうに頬を染めながら満喫していた。
「そんなにがっつかなくてもスープは逃げないよ。ほら、パンも食べなってば」
「ぱ、パン!」
苦笑しながら差し出された白い丸パンを、クリンは飛びつくようにして食べた。
白いパンはおろか、固い黒パンすらいつから口にしていないかわからない。それは甘く美味しく、クリンは膨れていくお腹に幸せを噛み締めていた。
その様子を眺めるエリは、貧困層という状況の逼迫した食料事情に対して僅かに表情を曇らせる。
この場でクリンに食事を施したとして、それは一夜の夢に過ぎない。
勿論、彼女が生きる時間を僅かに延ばすことはできるだろう。しかし根本的な解決には程遠いではないか。
そもそもクリンを拾った理由は貧困に対する同情ではなく、情報を聞き出すための手立てである。貧困層にあえぐ住民なら、飯を食わせて酒でも出せば大体口を割ってくれるだろうという安易な想像だった。
普段からエリは人一倍大食いであるためその物量はともかくとして、1つ1つの皿は彼女にとって高い物はない。どれも銅貨数枚で事足りる程度であり、食料難の帝国では少々割高であったとしても、豊かな王国であれば庶民でも普通に手が届くものだろう。
それなのにクリンは驚くほど幸せそうに食べる。それがなんとも気に入らず、エリは自らの心に沈殿した汚泥のような何かを拭い去るため、聞く必要のない話を口にしていた。
「ねぇクリン、いつからあそこで暮らしてる? 生まれた時から?」
欲望を前に遠慮が音を立てて崩れつつあったクリンは、エリの言葉に続けて酢漬けの魚を取ろうと伸ばしていた手を止める。
正直、旅人がただの貧困層の話を聞きたがるのか、彼女には理由がさっぱりわからない。貧民などどんな場所にでも掃いて捨てるほど居るのはクリンも知っているし、自分が特別でないことも重々理解している。
だが救われた身としては、どうしてですかと聞くのも違う気がして、彼女は疑問を挟まずに身の上を口にした。
「いえ、その……1年半くらい前から、です。元々は漁民だったんです、けど、お父さんとお母さんが嵐に呑まれて帰ってこなくなってから、こんな感じで」
「ふぅん……何とかして稼ごうとか、思わなかったの?」
「く、クシュの子供なんて……日雇いでも滅多に雇ってもらえませんし。家にあった物も、家自体も売って……売れる物が無くなって仕方なく、娼婦に」
「娼婦かぁ」
エリの言葉に関心は浮かんでいなかった。
それこそ動乱の絶えない世で飢える理由などゴマンとある。そのうちのいくつかにクリンは該当したに過ぎない。
悲惨だとは思う。もしも嵐が来なければ、もしも両親が亡くならなければ、もしもクリン自身に力があれば。
だが、その奇跡が訪れることはなく、彼女は細い身体を売り出して稼ぐしかない。それこそ誰かが手を差し伸べてくれない限りは。
そういう他力本願がエリは嫌いだった。
だから彼女は情けない表情を浮かべるクリンの胸を指して、呆れたように告げる。
「その体でできんの?」
羽毛に覆われているのに枯れ枝のような細さが目立つ手足と凹凸のない身体。襤褸を纏っただけの彼女は咄嗟に身体を隠そうとしたが、隙間から垣間見えた胸元にはあばらが浮いている。
自分が仮に男ならば、とエリは想像する。考えると言う行為を彼女は嫌うが、イメージするというのは割に好きな方だ。
だが、この想像は今までにないくらい最悪だったが。
「正直向いてないじゃん? 骨と皮みたいな身体だしさ」
「そ、そんなこと言われても……」
「失礼なこと言ってるのは分かるよ。けど、今までに買ってくれた男って居るの? 正直ていこ―――じゃなくて……今まで見たことのある男は大体みんな、おっぱいがーとか、尻がーとか言ってたし」
口にしながら、エリは自分の心中が穏やかでなくなりつつあることに気付いていた。
今でこそ外套に覆われていて見えないが、彼女は年齢不相応な幼児体形であり、痩せ細ったクリンより健康的ではあっても凹凸で言えば大差がない。否、ちょっと負けているのではと思ってしまうくらいだ。
向いていないと言われてクリンはしゅんと小さくなったが、しばらくエリがじっとその様子を眺めていると、ポツリと口を開いた。
「ま、まだ1人だけですけど……」
「うぇえ!? 居たの!? ド変態じゃんか!? っていうか、よく身体大丈夫だったなぁー……意外とクリンって頑丈だったり?」
ドカンと机を揺らしたことで周囲から視線が集まり、しかもそれをエリが気にしないまま言葉を続けるものだから、クリンは顔を真っ赤にして俯いてしまう。ただ、ふと襤褸の内側に隠した最後の銅貨のことを思い出し、彼女は震える手でそれを机に置いた。
「あの……これをくれた人なんです」
「へっ!?」
これに度肝を抜かれたのはエリの方だ。
他愛もない身の上話のつもりだったのに、誘導したかのように目標物に近づいていたらしい。フードの奥で赤い目を大きく見開いて、目の前に置かれた帝国の紋章が刻まれた銅貨に釘付けとなってしまった。
英雄色を好むという言葉があるように、世に名を馳せた猛者たちは女性関係が派手な者が多い。エリが聞いていた情報では、アマミには3人の女が同行しているとあったため、彼も御多分に漏れずと言ったところかと想像はしていたが、クリンを買ったとなれば特殊な性癖を追加する必要があった。
とはいえ、まだ確定ではない。帝国銅貨の流通量が極端に少ないのは当然としても、持って居る人間が居ないとは言い切れないのだ。
「あ、あーのーさー……もしかしてだけど、そいつって黒髪だった?」
「は、はい。優しそうな人間の方で、私を見て困ったお顔をしながら沢山お金を渡してくれて、でもすぐにお知り合いらしいキメラリアに連れて行かれてたので、私は結局何もしないまま……」
黒染め好きの変人か、灰色だったり他の色が混ざるような黒髪でない限りは、完全に黒髪の人間は珍しい。
最もよく見かける黒髪と言えばキメラリア・クシュ・レーヴァンくらいだろうが、同じクシュのクリンが人だと言う以上はその可能性も潰えてしまう。仮にデミだったとしても、貴族のように香水を大量に使えない限り、キメラリアは種族に関わらずデミの臭いを嗅ぎつけてしまう。
この時点で、クリンが出会った男がアマミである確率は非常に高かった。だが、エリは心のどこかで認めたくないと思ったのだろう。追加された知り合いらしいキメラリアという情報に一縷の望みを託した。
「ちなみにそのキメラリアって、ケットで橙色の頭してる毛無だったりとか?」
「そ、そうです! なんだかとっても怒ってたみたいでしたけど……」
派手な音を立ててエリはフードごと額を机に叩きつける。あまりに唐突な動きにクリンが驚いて肩を震わせたものの、その後の動きが無いとわかるやおっかなびっくりエリに声をかける。
「だ、大丈夫、ですか?」
「アマミって……特殊な趣味なのかぁ……うげぇ」
心配そうなクリンの声に、エリはげんなりした顔をゆっくりと持ち上げながら、その名前を呟いた。その途端、クリンはまさかと目を丸くする。
「あの、もしかしてエリさんが探してる人だったんでしょうか?」
「間違いなくそいつなんよぉ……聞いたことない? 英雄アマミって奴なんだけど」
今まで誰にも買われなかった自分を買ってくれた人に、クリンは小さくない恩を感じていた。
残念ながら彼は金だけを払って連れ去れたため、彼女の初仕事とはならなかった。無論、施しと見ればそれでもよかったのだが、それではいつまでも娼婦としては失格のままである上、根が善良な庶民であるクリンとしてはなんとかもう一度会ってお礼がしたいと考え続けていたのである。
それもなんの偶然か。目の前で液体のように項垂れるもう1人の恩人は、あの時の客について知っていると言うではないか。会える会えないは別として、男のことを知りたいと彼女が思うは当然だった。
「英雄様……どんな人か、聞いてもいいですか?」
「えっとねぇ、英雄アマミって言うと――」
本来はエリがクリンに質問する立場だったはずなのに、いつの間にかそのポジションは完全に入れ替わっていた。
それもクリンを買おうとしたという変態的所業によるものなのだろうが、衝撃を受けたエリは周囲への警戒を疎かにしていたと言っていい。
「キメラリアの少女を借金苦から救い、ミクスチャの脅威からバックサイドサークルを守り、けれど人々に見返りを求めない英雄様、ですよね?」
だから、普段の彼女なら絶対にありえない、背後を取られるということになったのだろう。
「……アンタ誰?」
突如降りかかった声の主に、エリはうっそりと振り返りながら、面倒くさそうな視線を向けた。
その視線の先に立っていたのは、柔らかな笑みを湛えた女性である。別段変わった雰囲気はないが、栗色の毛を丁寧にハーフアップにしていることと、肌の焼け方が薄いこと、そして町娘にしてはやけに綺麗に仕立てられた衣服を身に纏っていることから、エリはどうにも育ちが良さそうな奴だと断じた。
その女性は胡乱気な視線を向けられながらも、一切気にした様子もないまま物腰柔らかに話しかる。
「単なる英雄譚好きの田舎娘だよぉ。アマミって英雄様でしょう? そんなお話が聞こえたから、ついつい――あ、相席してもいいかな?」
「別にいいけど、変な奴だなぁ」
「ありがとう。私はジーンって言うの。この間初めて吟遊詩人から歌を聞いて、私とーっても気に入ったんだぁ。けど、まだあんまり有名じゃないみたいで、一緒にお話ができる人が居なかったんだよぉ」
僅かに躊躇いながら、ジーンと名乗った女性は椅子を引いて席に着く。エリは一瞬こちらの懐事情を見た集りかと思ったが、自ら店員に果実酒を注文したことで、逆に少し彼女のことを訝しんだ。
田舎娘と自称する彼女の見た目は、裕福な農家か町娘のそれであることに間違いはない。ただ、その立ち居振る舞いが少し上品すぎるため、旅装のエリはフードの奥で赤い目を細める。
ただ、その視線は何故か彼女の胸元に集中していた。ボディスで絞められているが圧倒的と言うべき2つの膨らみは押さえきれておらず、絶壁と言っていいエリと栄養不良全開のクリンでは束になっても敵わない。
「な、なにかなぁ?」
そんな余りにもあからさまな視線を向けられて、ジーンは僅かに胸元を隠すように身体を捻った。
羨んでも我が身つくわけでないことくらいエリも理解はしているため、直ぐにため息と共に視線を大きく外したが、視線を逸らしたおかげで気付いたこともある。
「べっつにぃー……世の中不公平だって思っただけ。そんで、アマミの話だよね」
エリは話題を露骨に引き戻して意識を切り替える。火炎の如く赤い目に宿った光にジークが気づいたかどうかはわからないが、縮こまっていたクリンはその僅かな雰囲気の変化を敏感に感じ取り、枝のような身体を小さく震わせていた。
赤い目の魔女は内心でほくそ笑む。
王国貴族にも勘の鋭い奴が居るもんだ、と。
肉に魚にサラダにスープ、籠一杯に丸く白いパンが積まれ、薄められた果実酒が木製のマグに並々と注がれている。どれも貧困街の人間には縁遠い食べ物だ。
にもかかわらず、対面に座った赤目の旅人は、小柄な体躯にも関わらずこれでもかと口へそれらを放り込んでいくではないか。
「あ、あの……私、お金が……」
「そんくらい出すってば。別に高い物でもないんだから、遠慮せず食べて食べて!」
見た目に似合わずオッサンのように笑うエリに、クリンは小さく喉を鳴らした。
ただでさえ、貧困層にとって普通の食事とは非常に敷居が高い物だ。1日に稼げる僅かな金子を全て食事に向けてなお、買えるのはレッサービーツと呼ばれる薄黄色の根菜を適当にぶち込んだ汁物くらいである。
それは一応スープと名乗ってはいるものの、汁は汚れた水のようなものでしかなく、挙句唯一の具材である適当に切られたレッサービーツは、顎を鍛えるための道具と言われても納得できるくらいに固い。それを無理矢理喉に流し込めば、とにかく泥臭いわ口に残るわ、舌を引っこ抜きたくなるくらいの不味さなのだ。
クリンとて腹を膨らせるために何度となく口にしているが、あれならたとえ腹痛に悩まされたとしても、痛んだ食品や誰かが地面に零した物を食べている方がマシだと考えてしまう。
そんな食生活を送っている彼女にとって、眼前に展開された大量の庶民食の誘惑は抗いようのないものだった。たとえこの後、自分の身に何が降りかかろうとも、常にこの瞬間を凌いで生きている貧困層にとっては関係がない。
だからクリンは恐る恐るスープに手を伸ばす。
なんとか食べられる名ばかりスープとは異なり、それはいい匂いの湯気が立ち、透き通る液体に豆類や穀物が浸っている。それが視界一杯に広がれば、最早衝動は止められない。
最初はスプーンで1掬い。よく熟した甘いササモコと柔らかいリービーンが口の中に広がっていく。
1口、また1口と啜り続ければ、あっという間にスープが減っていく。名残を惜しむ暇もなく、ただひたすらまともな食事と言う贅沢をクリンは幸せそうに頬を染めながら満喫していた。
「そんなにがっつかなくてもスープは逃げないよ。ほら、パンも食べなってば」
「ぱ、パン!」
苦笑しながら差し出された白い丸パンを、クリンは飛びつくようにして食べた。
白いパンはおろか、固い黒パンすらいつから口にしていないかわからない。それは甘く美味しく、クリンは膨れていくお腹に幸せを噛み締めていた。
その様子を眺めるエリは、貧困層という状況の逼迫した食料事情に対して僅かに表情を曇らせる。
この場でクリンに食事を施したとして、それは一夜の夢に過ぎない。
勿論、彼女が生きる時間を僅かに延ばすことはできるだろう。しかし根本的な解決には程遠いではないか。
そもそもクリンを拾った理由は貧困に対する同情ではなく、情報を聞き出すための手立てである。貧困層にあえぐ住民なら、飯を食わせて酒でも出せば大体口を割ってくれるだろうという安易な想像だった。
普段からエリは人一倍大食いであるためその物量はともかくとして、1つ1つの皿は彼女にとって高い物はない。どれも銅貨数枚で事足りる程度であり、食料難の帝国では少々割高であったとしても、豊かな王国であれば庶民でも普通に手が届くものだろう。
それなのにクリンは驚くほど幸せそうに食べる。それがなんとも気に入らず、エリは自らの心に沈殿した汚泥のような何かを拭い去るため、聞く必要のない話を口にしていた。
「ねぇクリン、いつからあそこで暮らしてる? 生まれた時から?」
欲望を前に遠慮が音を立てて崩れつつあったクリンは、エリの言葉に続けて酢漬けの魚を取ろうと伸ばしていた手を止める。
正直、旅人がただの貧困層の話を聞きたがるのか、彼女には理由がさっぱりわからない。貧民などどんな場所にでも掃いて捨てるほど居るのはクリンも知っているし、自分が特別でないことも重々理解している。
だが救われた身としては、どうしてですかと聞くのも違う気がして、彼女は疑問を挟まずに身の上を口にした。
「いえ、その……1年半くらい前から、です。元々は漁民だったんです、けど、お父さんとお母さんが嵐に呑まれて帰ってこなくなってから、こんな感じで」
「ふぅん……何とかして稼ごうとか、思わなかったの?」
「く、クシュの子供なんて……日雇いでも滅多に雇ってもらえませんし。家にあった物も、家自体も売って……売れる物が無くなって仕方なく、娼婦に」
「娼婦かぁ」
エリの言葉に関心は浮かんでいなかった。
それこそ動乱の絶えない世で飢える理由などゴマンとある。そのうちのいくつかにクリンは該当したに過ぎない。
悲惨だとは思う。もしも嵐が来なければ、もしも両親が亡くならなければ、もしもクリン自身に力があれば。
だが、その奇跡が訪れることはなく、彼女は細い身体を売り出して稼ぐしかない。それこそ誰かが手を差し伸べてくれない限りは。
そういう他力本願がエリは嫌いだった。
だから彼女は情けない表情を浮かべるクリンの胸を指して、呆れたように告げる。
「その体でできんの?」
羽毛に覆われているのに枯れ枝のような細さが目立つ手足と凹凸のない身体。襤褸を纏っただけの彼女は咄嗟に身体を隠そうとしたが、隙間から垣間見えた胸元にはあばらが浮いている。
自分が仮に男ならば、とエリは想像する。考えると言う行為を彼女は嫌うが、イメージするというのは割に好きな方だ。
だが、この想像は今までにないくらい最悪だったが。
「正直向いてないじゃん? 骨と皮みたいな身体だしさ」
「そ、そんなこと言われても……」
「失礼なこと言ってるのは分かるよ。けど、今までに買ってくれた男って居るの? 正直ていこ―――じゃなくて……今まで見たことのある男は大体みんな、おっぱいがーとか、尻がーとか言ってたし」
口にしながら、エリは自分の心中が穏やかでなくなりつつあることに気付いていた。
今でこそ外套に覆われていて見えないが、彼女は年齢不相応な幼児体形であり、痩せ細ったクリンより健康的ではあっても凹凸で言えば大差がない。否、ちょっと負けているのではと思ってしまうくらいだ。
向いていないと言われてクリンはしゅんと小さくなったが、しばらくエリがじっとその様子を眺めていると、ポツリと口を開いた。
「ま、まだ1人だけですけど……」
「うぇえ!? 居たの!? ド変態じゃんか!? っていうか、よく身体大丈夫だったなぁー……意外とクリンって頑丈だったり?」
ドカンと机を揺らしたことで周囲から視線が集まり、しかもそれをエリが気にしないまま言葉を続けるものだから、クリンは顔を真っ赤にして俯いてしまう。ただ、ふと襤褸の内側に隠した最後の銅貨のことを思い出し、彼女は震える手でそれを机に置いた。
「あの……これをくれた人なんです」
「へっ!?」
これに度肝を抜かれたのはエリの方だ。
他愛もない身の上話のつもりだったのに、誘導したかのように目標物に近づいていたらしい。フードの奥で赤い目を大きく見開いて、目の前に置かれた帝国の紋章が刻まれた銅貨に釘付けとなってしまった。
英雄色を好むという言葉があるように、世に名を馳せた猛者たちは女性関係が派手な者が多い。エリが聞いていた情報では、アマミには3人の女が同行しているとあったため、彼も御多分に漏れずと言ったところかと想像はしていたが、クリンを買ったとなれば特殊な性癖を追加する必要があった。
とはいえ、まだ確定ではない。帝国銅貨の流通量が極端に少ないのは当然としても、持って居る人間が居ないとは言い切れないのだ。
「あ、あーのーさー……もしかしてだけど、そいつって黒髪だった?」
「は、はい。優しそうな人間の方で、私を見て困ったお顔をしながら沢山お金を渡してくれて、でもすぐにお知り合いらしいキメラリアに連れて行かれてたので、私は結局何もしないまま……」
黒染め好きの変人か、灰色だったり他の色が混ざるような黒髪でない限りは、完全に黒髪の人間は珍しい。
最もよく見かける黒髪と言えばキメラリア・クシュ・レーヴァンくらいだろうが、同じクシュのクリンが人だと言う以上はその可能性も潰えてしまう。仮にデミだったとしても、貴族のように香水を大量に使えない限り、キメラリアは種族に関わらずデミの臭いを嗅ぎつけてしまう。
この時点で、クリンが出会った男がアマミである確率は非常に高かった。だが、エリは心のどこかで認めたくないと思ったのだろう。追加された知り合いらしいキメラリアという情報に一縷の望みを託した。
「ちなみにそのキメラリアって、ケットで橙色の頭してる毛無だったりとか?」
「そ、そうです! なんだかとっても怒ってたみたいでしたけど……」
派手な音を立ててエリはフードごと額を机に叩きつける。あまりに唐突な動きにクリンが驚いて肩を震わせたものの、その後の動きが無いとわかるやおっかなびっくりエリに声をかける。
「だ、大丈夫、ですか?」
「アマミって……特殊な趣味なのかぁ……うげぇ」
心配そうなクリンの声に、エリはげんなりした顔をゆっくりと持ち上げながら、その名前を呟いた。その途端、クリンはまさかと目を丸くする。
「あの、もしかしてエリさんが探してる人だったんでしょうか?」
「間違いなくそいつなんよぉ……聞いたことない? 英雄アマミって奴なんだけど」
今まで誰にも買われなかった自分を買ってくれた人に、クリンは小さくない恩を感じていた。
残念ながら彼は金だけを払って連れ去れたため、彼女の初仕事とはならなかった。無論、施しと見ればそれでもよかったのだが、それではいつまでも娼婦としては失格のままである上、根が善良な庶民であるクリンとしてはなんとかもう一度会ってお礼がしたいと考え続けていたのである。
それもなんの偶然か。目の前で液体のように項垂れるもう1人の恩人は、あの時の客について知っていると言うではないか。会える会えないは別として、男のことを知りたいと彼女が思うは当然だった。
「英雄様……どんな人か、聞いてもいいですか?」
「えっとねぇ、英雄アマミって言うと――」
本来はエリがクリンに質問する立場だったはずなのに、いつの間にかそのポジションは完全に入れ替わっていた。
それもクリンを買おうとしたという変態的所業によるものなのだろうが、衝撃を受けたエリは周囲への警戒を疎かにしていたと言っていい。
「キメラリアの少女を借金苦から救い、ミクスチャの脅威からバックサイドサークルを守り、けれど人々に見返りを求めない英雄様、ですよね?」
だから、普段の彼女なら絶対にありえない、背後を取られるということになったのだろう。
「……アンタ誰?」
突如降りかかった声の主に、エリはうっそりと振り返りながら、面倒くさそうな視線を向けた。
その視線の先に立っていたのは、柔らかな笑みを湛えた女性である。別段変わった雰囲気はないが、栗色の毛を丁寧にハーフアップにしていることと、肌の焼け方が薄いこと、そして町娘にしてはやけに綺麗に仕立てられた衣服を身に纏っていることから、エリはどうにも育ちが良さそうな奴だと断じた。
その女性は胡乱気な視線を向けられながらも、一切気にした様子もないまま物腰柔らかに話しかる。
「単なる英雄譚好きの田舎娘だよぉ。アマミって英雄様でしょう? そんなお話が聞こえたから、ついつい――あ、相席してもいいかな?」
「別にいいけど、変な奴だなぁ」
「ありがとう。私はジーンって言うの。この間初めて吟遊詩人から歌を聞いて、私とーっても気に入ったんだぁ。けど、まだあんまり有名じゃないみたいで、一緒にお話ができる人が居なかったんだよぉ」
僅かに躊躇いながら、ジーンと名乗った女性は椅子を引いて席に着く。エリは一瞬こちらの懐事情を見た集りかと思ったが、自ら店員に果実酒を注文したことで、逆に少し彼女のことを訝しんだ。
田舎娘と自称する彼女の見た目は、裕福な農家か町娘のそれであることに間違いはない。ただ、その立ち居振る舞いが少し上品すぎるため、旅装のエリはフードの奥で赤い目を細める。
ただ、その視線は何故か彼女の胸元に集中していた。ボディスで絞められているが圧倒的と言うべき2つの膨らみは押さえきれておらず、絶壁と言っていいエリと栄養不良全開のクリンでは束になっても敵わない。
「な、なにかなぁ?」
そんな余りにもあからさまな視線を向けられて、ジーンは僅かに胸元を隠すように身体を捻った。
羨んでも我が身つくわけでないことくらいエリも理解はしているため、直ぐにため息と共に視線を大きく外したが、視線を逸らしたおかげで気付いたこともある。
「べっつにぃー……世の中不公平だって思っただけ。そんで、アマミの話だよね」
エリは話題を露骨に引き戻して意識を切り替える。火炎の如く赤い目に宿った光にジークが気づいたかどうかはわからないが、縮こまっていたクリンはその僅かな雰囲気の変化を敏感に感じ取り、枝のような身体を小さく震わせていた。
赤い目の魔女は内心でほくそ笑む。
王国貴族にも勘の鋭い奴が居るもんだ、と。
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