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序章 出会いは逆ナンパ?
序章
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草木も眠る丑三つ時という言葉がある。時間にして深夜の2時。
そんな時間に墓石が並ぶ墓所にいるのは、肝試しを行うか、丑の刻参りを行うような変わり者か・・・・・・・そのような場所を男女一組のペアが歩いていた。
デートをするにはあまりにも不似合いな場所だ。
「ねぇねぇ、鞘火さん」
「何だ?」
「もう帰りませんか?夜の墓地ってシャレにならない位怖いッス」
「・・・・・・・・・・・・」
鞘火と呼ばれた女性は、暗い夜道をキョロキョロしながら歩く少年に対して不快そうに目を細めた。そのまま無言で少年のお尻に蹴りを入れる。
「痛っ!何するんですか!?」
「馬鹿な事を言うからだ。私は口より先に手が出るタイプでな、言葉には気をつけた方がいい。さっさと行くぞ」
「今さらそんな事言われなくても、嫌になるくらい体に叩き込まれてますよ!って、置いてかないで!」
先ほどの蹴りにはそれほど力を入れて蹴ったわけではないようだ。その証拠に、蹴りを食らった少年は口では痛いと言いながらも痛がる様子は見せていない。先に歩いていく女性の背中を追いかけながら言う。
「ならば少年の学習能力が足りない証拠だろう。残念な脳だ。さすが浪人生」
「うぅ、浪人生なのは確かだから言い返せませんけど・・・・・・相変わらずヒドイですね」
「何がヒドイというのだ?むしろ私には感謝してもしたりないほど恩があるだろうが」
「・・・・・・・・そうですかね?」
鞘火に追いついた少年は、横に並びながら言った。
「浪人生として清貧を貫いていた少年に、特技を活かした高額バイトを紹介したのは私だぞ?更には予備校に行かなくてもいいようにと、家庭教師までしてやっている」
歩みを止めないまま、とても残念そうに首を振りながら鞘火は続ける。
「少年の脳が残念なのは動かしがたい事実と知っているが、先程まで一緒に勉強していたことも忘れるほど残念なのか?」
「それには感謝していますが・・・・・・何で勉強の後に墓場なんです?」
「仕事だからだ。説明しただろうが」
「聞いてませんよ!いきなりこの場所まで連れてきたのは鞘火さんでしょ!?」
「そうだったか?」
「俺、明日模試なんですよ。鞘火さんだって知ってるくせに」
「当たり前だ。残念な少年と違って、私は頭脳明晰だ。当然憶えている」
「だったら早く帰らせて寝かせてくださいよ」
「仕事が終わったらな。早く帰りたいのであればさっさと仕事を終わらせればいいだけの話ではないか」
「最悪だよ、この人・・・・・・・」
「ウチの職場はこの時間が労働時間なのだ。その分昼間に寝ておかなかった少年の準備が悪いという事になる」
……どんなにお願いしても、寝かせてくれないくせに!!
少年には昼夜を問わずに複数の家庭教師による勉強と修行が課せられている。しかも、全員がスパルタンな教え方だ。夜に仕事だから昼寝をさせてください、とのたまわもうものなら
『そうか、では意識を失うまで修行をつけてやろう。そうすれば健やかに眠れるんじゃないのか』
『脳震盪になると、すぐに気を失えますよ?では、実践しましょう』
『それは大変だな。では、寝ていてもいいので耳元でずっと英単語を呟いてやろう。睡眠学習だ』
『ご心配なさらずに。私の秘薬を使えば三日三晩眠らずに過ごせます。副作用で猛烈な頭痛に襲われますが・・・・・・どちらがよろしいですか?』
……おおぅ、冷や汗が止まらない
短い期間だが、家庭教師陣の恐ろしさを叩き込まれている少年は、その一人である鞘火に文句を言える筈もなかった。しかし、愚痴の一つも溢れてしまう時もある。
「今夜の仕事を説明してくれなかったのは鞘火さんの癖に・・・・・・」
鞘火が歩みを止めた。少年は内心『しまった』と思ったが時は既に遅い。逃げる間もなく鞘火に顔面を鷲掴みにされた。
鞘火はそのまま腕を上げ、爪先立ちの状態になるまで少年の体を持ち上げる。
「痛い!痛い!!頭蓋骨が砕けますよ!?」
「いいや、説明したはずだね。私が忘れるわけがない。そうだろう?少年」
顔を近づけて笑顔で言い募る。毎日見ているというのに、鞘火の美貌は飽きる事はない、アイアンクローで脅されているこの状況なのに、顔を近づけられると少しだけ痛みが引いて、胸が高鳴ってきた。
「少年が私から言われた事を忘れていただけだろう?ん?」
「・・・・・・・はい、申し訳ありません。説明を受けたいたのに忘れていた自分が悪いッス」
「よろしい。素直に自分の非を認める事は大事だよ、少年」
少年の言葉に満足したのか鞘火は笑顔深くしながらこめかみから手を離した。そのまま背を向けて歩みを再開する
「脳が残念で忘れやすい少年のために、頭脳明晰な上に心も広い私が、再度今日の仕事を説明してあげよう」
説明を忘れていたことを腕力で解決されしまった。鞘火は美人で頭もいい。それは事実だ。仕事の先輩でもあり、勉強の面倒も見てくれる。
……年上美人家庭教師。
とてもいい響きだ、と少年は思ったものだ。最初だけは。
口より先に手が出る鞘火の指導方針は仕事も勉強も同じだ。基本、体に対して教育的指導を施してくる。
何度も家庭教師を辞めてもらおう、仕事も辞めようと思ったのだが、それもできない理由がある。
……何でこうなってしまった?
……俺、何か悪いことしたかなぁ?
……あぁ、大学に落ちたせいだなぁ。自分の責任か。
「何を惚けているのだ!私の話を上の空とはいい度胸だ。また蹴られたいのか?少年はマゾなのか?」
「は、はい」
鈍く痛みの残るこめかみを揉みほぐしながら、慌てて駆け足を始めた少年。
先を行く背中には流れる美しい黒髪がある。
……やっぱり、綺麗だな
そんな事を思いながら、鞘火と初めて会った日を頭に浮かべていた。
「そこ行く少年、少々話ができないか?」
季節は春。暖かな日が続いてきた4月の中盤。
人通りの多いメインストリートである、色々な話声が聞こえてくるのは珍しくもない。近くで聞こえた声を無視して、仁じんはいつものようにバイトに向かっていた。
「こらこら、当たり前のように無視するものではない。君だよ、君」
「はっ?俺ですか?」
そう呼びかけられ、自分に話しかけられているという事に気がついた。後ろから声をかけられたので、足を止めて振り向く。
目に飛び込んできたのは鮮やかなルージュのパンツスーツだ。
切れ長の目、高い鼻、ほっそりとした顔のライン、そしてスーツと同じ色の鮮やかなルージュを引いた唇が蠱惑的に上がっている。黒髪を高く結い上げているのが印象的だ。
……格好イイ人だなぁ
仁が最初にうけた印象はそれだ。綺麗というよりは、格好イイという印象が浮かんだ。勿論、美人なのは当たり前だが。しかし、そのような美女に声をかけられる心当たりがまったくない。つい訝しげな表情を浮かべてしまった。
「何か御用でしょうか?」
「そう警戒するな。少し話を聞いて欲しい」
美女は、そう言いながら肩に置いていた手をおろす。
……もしかして、逆ナン?
……人生においてそんな素敵な事が自分に起こり得ようとは!しかもこんな美人から!
そんな事を思った仁は、期待を込めて美女の顔を見た。
……今日が人生のターニングポイントか?
そんな仁の視線を受け流すようにして、美女は仁の頭の先から足先まで視線を動かした。更に仁の周りを一周する。何かを確かめるように顎に手をかけて仁の観察を続ける。
そんな美女の様子に仁の気持ちが冷めてきた。
やはり、逆ナンパなどありえる訳がない、都市伝説にすぎないのだ、と。
「何もないのなら行ってもいいですか?」
「まぁ、待て。そう急ぐこともあるまい?」
観察を続けながら美女が言う。
このように人に観察されることなど中々ない。浮ついた気持ちが完全に冷めた。仁は期待した自分が悲しくなって、その場から離れたくなった。
自分で勝手に浮ついて勝手に落ち込んでいるだけなのだが・・・・・・・
「いえ、バイトの時間があるので急いでいるんですけど」
アルバイトの時間が迫っているのも本当だ。言い訳としては適当だろうと、歩き出そうしたが、美女の長い足に進路を塞がれてしまった。
「まぁまぁ、そう急ぐな。少しだけでいいから私の話を聞いてくれ」
「はぁ、できれば手早くお願いしますね?」
進路を塞がれてしまい、しょうがなく足を止めた。
「まず、私の名前は鞘火という。この近くで働いている」
そう言って、名刺を差し出してきた。名刺を受け取り、確認してみると。
『神威探偵事務所 サヤカ』
事務所の住所や電話番号と共に、名前が書いてある。
「探偵?」
「そう、探偵だ。格好いいだろう?」
「いや、今時探偵なんて怪しいでしょ!ってか、名刺なのに苗字がないのはおかしいし!?」
つい口に出してしまった。
「ハッハッハ。中々正直な少年だな。しかし、失礼ではあるな。一応私の職業なのだが」
「それで、その探偵さんが僕になんの御用でしょうか?」
……困った人に捕まってしまった。もしかして何か売りつけようとしているのか。
逆ナンなどと浮ついて、最初に足を止めたのが悔やまれる。
「うむ、今私が担当している仕事のパートナーを探していたのだよ。私の目に間違いはない。少年はかなりの才能の持ち主だと思うのだよ」
腕を組み、仁の顔を覗き込みながら鞘火は続ける。
「バイト代は出そう。私達の仕事を手伝ってみないか?」
「お断りします」
仁は即答で断った。
……胡散臭すぎる。
いきなり才能があると言われても到底信じられるものではない。
「時給ははずむぞ?1500円でどうだ?」
「えっ、そんなに?」
高い時給は魅力だ。現在の時給は850円である。仕事内容にもよるが、倍近い給料が貰えるのは助かる。
なにせ、仁は時間を惜しんで勉強をしなければならない浪人生だからだ。しかし、逆に怪しさは増した。時給が高いのにはなにか理由があるはずだからだ。
それに、今までそんな風に人から才能があるなど言われたことはない。
……自慢じゃないけど、容姿は人並み、成績は・・・・・クソッ!どうせ浪人生だよ!
仁は心の中で毒付いた。
……そんなウマイ話が本当にあるのか?だが、その時給は・・・・
鞘火はそんな揺れる仁の心を見透かしたように言葉を重ねてくる。
「では、2000円ではどうかな?それほど私は君を見込んでいるのだが・・・・・」
「は、話を聞くだけなら!」
確かにこの日が仁にとって人生のターニングポイントであったのは間違いない。後日、鞘火と出会った日を思い出してシミジミと思い返すことになる。
ウマイ話には裏がある、と。
そんな時間に墓石が並ぶ墓所にいるのは、肝試しを行うか、丑の刻参りを行うような変わり者か・・・・・・・そのような場所を男女一組のペアが歩いていた。
デートをするにはあまりにも不似合いな場所だ。
「ねぇねぇ、鞘火さん」
「何だ?」
「もう帰りませんか?夜の墓地ってシャレにならない位怖いッス」
「・・・・・・・・・・・・」
鞘火と呼ばれた女性は、暗い夜道をキョロキョロしながら歩く少年に対して不快そうに目を細めた。そのまま無言で少年のお尻に蹴りを入れる。
「痛っ!何するんですか!?」
「馬鹿な事を言うからだ。私は口より先に手が出るタイプでな、言葉には気をつけた方がいい。さっさと行くぞ」
「今さらそんな事言われなくても、嫌になるくらい体に叩き込まれてますよ!って、置いてかないで!」
先ほどの蹴りにはそれほど力を入れて蹴ったわけではないようだ。その証拠に、蹴りを食らった少年は口では痛いと言いながらも痛がる様子は見せていない。先に歩いていく女性の背中を追いかけながら言う。
「ならば少年の学習能力が足りない証拠だろう。残念な脳だ。さすが浪人生」
「うぅ、浪人生なのは確かだから言い返せませんけど・・・・・・相変わらずヒドイですね」
「何がヒドイというのだ?むしろ私には感謝してもしたりないほど恩があるだろうが」
「・・・・・・・・そうですかね?」
鞘火に追いついた少年は、横に並びながら言った。
「浪人生として清貧を貫いていた少年に、特技を活かした高額バイトを紹介したのは私だぞ?更には予備校に行かなくてもいいようにと、家庭教師までしてやっている」
歩みを止めないまま、とても残念そうに首を振りながら鞘火は続ける。
「少年の脳が残念なのは動かしがたい事実と知っているが、先程まで一緒に勉強していたことも忘れるほど残念なのか?」
「それには感謝していますが・・・・・・何で勉強の後に墓場なんです?」
「仕事だからだ。説明しただろうが」
「聞いてませんよ!いきなりこの場所まで連れてきたのは鞘火さんでしょ!?」
「そうだったか?」
「俺、明日模試なんですよ。鞘火さんだって知ってるくせに」
「当たり前だ。残念な少年と違って、私は頭脳明晰だ。当然憶えている」
「だったら早く帰らせて寝かせてくださいよ」
「仕事が終わったらな。早く帰りたいのであればさっさと仕事を終わらせればいいだけの話ではないか」
「最悪だよ、この人・・・・・・・」
「ウチの職場はこの時間が労働時間なのだ。その分昼間に寝ておかなかった少年の準備が悪いという事になる」
……どんなにお願いしても、寝かせてくれないくせに!!
少年には昼夜を問わずに複数の家庭教師による勉強と修行が課せられている。しかも、全員がスパルタンな教え方だ。夜に仕事だから昼寝をさせてください、とのたまわもうものなら
『そうか、では意識を失うまで修行をつけてやろう。そうすれば健やかに眠れるんじゃないのか』
『脳震盪になると、すぐに気を失えますよ?では、実践しましょう』
『それは大変だな。では、寝ていてもいいので耳元でずっと英単語を呟いてやろう。睡眠学習だ』
『ご心配なさらずに。私の秘薬を使えば三日三晩眠らずに過ごせます。副作用で猛烈な頭痛に襲われますが・・・・・・どちらがよろしいですか?』
……おおぅ、冷や汗が止まらない
短い期間だが、家庭教師陣の恐ろしさを叩き込まれている少年は、その一人である鞘火に文句を言える筈もなかった。しかし、愚痴の一つも溢れてしまう時もある。
「今夜の仕事を説明してくれなかったのは鞘火さんの癖に・・・・・・」
鞘火が歩みを止めた。少年は内心『しまった』と思ったが時は既に遅い。逃げる間もなく鞘火に顔面を鷲掴みにされた。
鞘火はそのまま腕を上げ、爪先立ちの状態になるまで少年の体を持ち上げる。
「痛い!痛い!!頭蓋骨が砕けますよ!?」
「いいや、説明したはずだね。私が忘れるわけがない。そうだろう?少年」
顔を近づけて笑顔で言い募る。毎日見ているというのに、鞘火の美貌は飽きる事はない、アイアンクローで脅されているこの状況なのに、顔を近づけられると少しだけ痛みが引いて、胸が高鳴ってきた。
「少年が私から言われた事を忘れていただけだろう?ん?」
「・・・・・・・はい、申し訳ありません。説明を受けたいたのに忘れていた自分が悪いッス」
「よろしい。素直に自分の非を認める事は大事だよ、少年」
少年の言葉に満足したのか鞘火は笑顔深くしながらこめかみから手を離した。そのまま背を向けて歩みを再開する
「脳が残念で忘れやすい少年のために、頭脳明晰な上に心も広い私が、再度今日の仕事を説明してあげよう」
説明を忘れていたことを腕力で解決されしまった。鞘火は美人で頭もいい。それは事実だ。仕事の先輩でもあり、勉強の面倒も見てくれる。
……年上美人家庭教師。
とてもいい響きだ、と少年は思ったものだ。最初だけは。
口より先に手が出る鞘火の指導方針は仕事も勉強も同じだ。基本、体に対して教育的指導を施してくる。
何度も家庭教師を辞めてもらおう、仕事も辞めようと思ったのだが、それもできない理由がある。
……何でこうなってしまった?
……俺、何か悪いことしたかなぁ?
……あぁ、大学に落ちたせいだなぁ。自分の責任か。
「何を惚けているのだ!私の話を上の空とはいい度胸だ。また蹴られたいのか?少年はマゾなのか?」
「は、はい」
鈍く痛みの残るこめかみを揉みほぐしながら、慌てて駆け足を始めた少年。
先を行く背中には流れる美しい黒髪がある。
……やっぱり、綺麗だな
そんな事を思いながら、鞘火と初めて会った日を頭に浮かべていた。
「そこ行く少年、少々話ができないか?」
季節は春。暖かな日が続いてきた4月の中盤。
人通りの多いメインストリートである、色々な話声が聞こえてくるのは珍しくもない。近くで聞こえた声を無視して、仁じんはいつものようにバイトに向かっていた。
「こらこら、当たり前のように無視するものではない。君だよ、君」
「はっ?俺ですか?」
そう呼びかけられ、自分に話しかけられているという事に気がついた。後ろから声をかけられたので、足を止めて振り向く。
目に飛び込んできたのは鮮やかなルージュのパンツスーツだ。
切れ長の目、高い鼻、ほっそりとした顔のライン、そしてスーツと同じ色の鮮やかなルージュを引いた唇が蠱惑的に上がっている。黒髪を高く結い上げているのが印象的だ。
……格好イイ人だなぁ
仁が最初にうけた印象はそれだ。綺麗というよりは、格好イイという印象が浮かんだ。勿論、美人なのは当たり前だが。しかし、そのような美女に声をかけられる心当たりがまったくない。つい訝しげな表情を浮かべてしまった。
「何か御用でしょうか?」
「そう警戒するな。少し話を聞いて欲しい」
美女は、そう言いながら肩に置いていた手をおろす。
……もしかして、逆ナン?
……人生においてそんな素敵な事が自分に起こり得ようとは!しかもこんな美人から!
そんな事を思った仁は、期待を込めて美女の顔を見た。
……今日が人生のターニングポイントか?
そんな仁の視線を受け流すようにして、美女は仁の頭の先から足先まで視線を動かした。更に仁の周りを一周する。何かを確かめるように顎に手をかけて仁の観察を続ける。
そんな美女の様子に仁の気持ちが冷めてきた。
やはり、逆ナンパなどありえる訳がない、都市伝説にすぎないのだ、と。
「何もないのなら行ってもいいですか?」
「まぁ、待て。そう急ぐこともあるまい?」
観察を続けながら美女が言う。
このように人に観察されることなど中々ない。浮ついた気持ちが完全に冷めた。仁は期待した自分が悲しくなって、その場から離れたくなった。
自分で勝手に浮ついて勝手に落ち込んでいるだけなのだが・・・・・・・
「いえ、バイトの時間があるので急いでいるんですけど」
アルバイトの時間が迫っているのも本当だ。言い訳としては適当だろうと、歩き出そうしたが、美女の長い足に進路を塞がれてしまった。
「まぁまぁ、そう急ぐな。少しだけでいいから私の話を聞いてくれ」
「はぁ、できれば手早くお願いしますね?」
進路を塞がれてしまい、しょうがなく足を止めた。
「まず、私の名前は鞘火という。この近くで働いている」
そう言って、名刺を差し出してきた。名刺を受け取り、確認してみると。
『神威探偵事務所 サヤカ』
事務所の住所や電話番号と共に、名前が書いてある。
「探偵?」
「そう、探偵だ。格好いいだろう?」
「いや、今時探偵なんて怪しいでしょ!ってか、名刺なのに苗字がないのはおかしいし!?」
つい口に出してしまった。
「ハッハッハ。中々正直な少年だな。しかし、失礼ではあるな。一応私の職業なのだが」
「それで、その探偵さんが僕になんの御用でしょうか?」
……困った人に捕まってしまった。もしかして何か売りつけようとしているのか。
逆ナンなどと浮ついて、最初に足を止めたのが悔やまれる。
「うむ、今私が担当している仕事のパートナーを探していたのだよ。私の目に間違いはない。少年はかなりの才能の持ち主だと思うのだよ」
腕を組み、仁の顔を覗き込みながら鞘火は続ける。
「バイト代は出そう。私達の仕事を手伝ってみないか?」
「お断りします」
仁は即答で断った。
……胡散臭すぎる。
いきなり才能があると言われても到底信じられるものではない。
「時給ははずむぞ?1500円でどうだ?」
「えっ、そんなに?」
高い時給は魅力だ。現在の時給は850円である。仕事内容にもよるが、倍近い給料が貰えるのは助かる。
なにせ、仁は時間を惜しんで勉強をしなければならない浪人生だからだ。しかし、逆に怪しさは増した。時給が高いのにはなにか理由があるはずだからだ。
それに、今までそんな風に人から才能があるなど言われたことはない。
……自慢じゃないけど、容姿は人並み、成績は・・・・・クソッ!どうせ浪人生だよ!
仁は心の中で毒付いた。
……そんなウマイ話が本当にあるのか?だが、その時給は・・・・
鞘火はそんな揺れる仁の心を見透かしたように言葉を重ねてくる。
「では、2000円ではどうかな?それほど私は君を見込んでいるのだが・・・・・」
「は、話を聞くだけなら!」
確かにこの日が仁にとって人生のターニングポイントであったのは間違いない。後日、鞘火と出会った日を思い出してシミジミと思い返すことになる。
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