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01 婚約者のフリはいいけど相手が悪い
相手は組長
しおりを挟む抱きかかえられたままホテルを出ると、入り口に黒いベンツが停まっていて春子たちの姿を確認するなりドアが開いた。運ばれるまま後部座席に乗り込み、隣には彼が座った。
「事務所まで頼む」
「承知しました」
運転席には彼と同じようなスーツ姿の男性がミラー越しにこちらを見て、すぐに車が発進する。
「これから事務所に行く。そこでも俺たちは婚約者ということにしといてくれ」
運転している彼にも気取られないようにしないといけないのか、男は小声で春子に語りかける。空気を読んで、春子も声を小さくした。
「い、今の人たちはなんだったんですか? ていうか私まだあなたの名前も知らないし、事務所ってなんですか」
「ああ、そうだったか。俺は吾妻虎将。あんたは?」
「……園田春子です」
「春子か。よろしく頼む」
承諾をしてからの勢いがはやすぎて頭がついていかない。それに、身体も。
そうだ、さっき私はこの人とキスを――。
思い出すと身体がカッと熱くなる。目の前の虎将の唇に勝手に目がいってしまう。
「キ、キスまでするなんて聞いてません!」
「婚約者ならして当たり前だと思ったが……嫌だったか?」
「嫌とか、そういう問題じゃなくて、あくまでフリだという話ですから!」
「そうか。嫌ではなかったのか」
初めて彼が笑った。純粋な笑顔ではなく、怪しげに口角を上げるだけだが。
「そ、それでさっきの人たちはどなたなんですか?」
「俺の見合い相手だ。それから俺の親と相手の兄」
「今日、お見合い予定だったんですね」
「ああ。強引に設定され逃げようとしていた。結局あとから責められるだろうから、春子がいて助かった」
強引な行動のわりに殊勝な態度に責めようにも責められなくなる。
「……お役に立てたのならよかったです」
「金はあとで払うから」
「は、はい」
一日二十万円。
そんなことが本当にあり得るのか。いまだに現実味がない。引き受けてよかったのかといまだに迷いはある。それでも、今の生活から抜け出せるのなら少しくらいの犠牲は必要だ。
車で走ること一時間、ようやく停車し車を降りる。
虎将に連れられるまま、目の前の、年季の入った三階建てのビルに入っていく。
「ここが俺の事務所だ」
事務所? 芸能プロダクションとかそういう類のものだろうか。そういえば先ほど答えを聞けずじまいだった。エレベーターで二階に上がり、正面にあるドアを開く。
「組長、ご苦労様です!」
ドアを開けた瞬間、男性たちの太く大きな声が響き肩をびくりと震わせる。
十人ほどのスーツ姿の男性たちが虎将に花道をつくるように左右に並んで頭を下げている。異様な光景に春子は立ち尽くす。いや、それよりも。
今、組長って言った?
「組長、そちらの女性は……? 今日は見合いのはずでは」
「紹介する。彼女は春子だ。見合い相手ではなく、俺の婚約者だ」
先ほどと同じように虎将に肩を抱かれ、発表する。
「……えええええ!」
一瞬の静寂ののち、男たちの低い声がフロアに轟く。
「見合いをするとは聞いてましたが、彼女がいらっしゃったんですか!?」
「そんな、あの組長に女が……」
明らかに動揺している男たちの中で、虎将は堂々としている。虎将に彼女がいることがそんなに驚くことなのか、数時間前に出会ったばかりの春子にはわかるわけがない。
「今後春子もここに顔を出すこともあるだろうから報告しておく」
唖然としていた彼らの視線が一気に春子へ集中し、同時に頭を下げる。
「……姐さん、よろしくお願いします!」
「あ、あねさん?」
困惑したまま虎将を見上げると、一度だけ頷く。まったく意味がわからないけれど、頭を下げる彼らへの礼儀として、春子も頭を下げた。
「園田春子です。よ、よろしくお願いします」
顔を上げた若い男性たちは真剣な顔をしてもう一度「よろしくお願いします!」と野太い声を上げた。
「よし、次に行くぞ」
「え、ええっ」
呆気にとられたままの春子はまた強い力に引き寄せられ歩き出す。事務所と呼んでいたその場所をあとにするとまたしても車に乗り込んだ。
「あ、あの吾妻さん」
「虎将だ」
「え?」
「虎将と呼べ」
妙な威圧感に春子は息を飲む。
「……虎将さん、今の場所はいったいどこで……」
「着いたぞ」
「もうですか!?」
質問をする隙もないほどまた次の目的地に到着したらしい。にしても車に乗ってまだ五分も経っていない。促されるまま車を降りると、地下駐車場だった。駐車場内にあるエレベーターに乗り込み、上がっていく。
「それで、今度はどこに連れてこられたんでしょうか……」
先ほどの古いビルとは違って、今度はどこの高級ホテルかマンションかと思うほどエレベーターも高級感があるしセキュリティもしっかりしている。
エレベーターに乗り込むと、最上階の三十階で降りた。
先ほどの『事務所』の様子から見ても、虎将が普通の人とは思えない。彼は『組長』と呼ばれていたし、あの雰囲気にこの見た目。ほぼ確実に極道組織の人――つまりヤクザだ。
意識すると、戸惑いとはまた違った恐怖が沸き上がってくる。極道組織のやっていることなんて興味もなかったのでまったくわからないけれど、悪いことをしているのは当たり前くらいに思っていた。それから、自分とは一生関わることのない人だとも思っていた。
「入れ」
戸惑いながら虎将についていくと、ドアの前で立ち止まった。というか、最上階は見渡せる限りドアが一つしかない。
「……ここは?」
「俺の家だ」
「ここがですか?」
高級マンションのしかも最上階。極道の人がこんなところに住んでいるとは想像していなかった。ドラマや映画から、日本風のお屋敷に住んでいるイメージだった。
「ああ。セキュリティは万全だから安心するといい」
――そういう問題ではなくて、あなた自身が危険なんですけど。
口にしたくなる言葉をぐっと飲み込むが、さすがに家に入るのは躊躇われて一歩目が踏み出せない。彼が安全な人だとは限らないし、ましてや恐らく組長。警戒しないのはおかしな話だ。
「ほら、はやく入れ」
「あっ!」
背中を押され、玄関の奥へ一歩二歩と踏み出してしまう。背後でドアを閉め、鍵まで閉める音にドキッとする。途端に逃げ出したくなってきた。
今ならまだ間に合うかもしれない。内側から鍵を開けて外に出るなら今だ。お金は欲しいし婚約者のフリをするのも問題はない。ただ、彼の職業が気になるだけだ。春子はそっとドアノブに手を伸ばす。
「何してるんだ?」
声を掛けられ、肩がびくんと震えた。
前を向くと、春子をじっと見ている虎将と目が合った。それから、彼の奥に見えるリビングの景色。
「うわ、すごい……」
春子は引き寄せられるように、中へと足を進めていた。玄関からして物が少なく、モデルルームみたいだ。廊下を抜けると広々としたリビング。リビングも物は最低限で、テレビとソファ、それからテーブルのみ。大きな窓からは高層階からの良い眺めが見える。障害物もなにもなく街中を見下ろせる場所に住んでいるなんて、春子からしたら考えられない。
虎将がこんなマンションに住んでいるのも驚きだけれど、なによりも春子の知らない贅沢な空間にぼんやりと部屋中を見回していた。
「座ってろ。コーヒーでいいか?」
言葉にできなくて、こくこくと二度頷いた。
黒の革張りの二人掛けソファの端にそっと腰を下ろす。すっかり逃げるタイミングを失ってしまった。
「コーヒー。豆からだからうまいぞ」
「……ありがとうございます」
「砂糖とミルクも適当に使ってくれ」
「は、はい」
マグカップに入ったコーヒーに視線を落とす。こんなに丁寧にコーヒーを淹れる人なんだ。虎将のことを知れば知るほど、よくわからなくなってくる。なのにただなんとなくまだ警戒心がほどけなくて、コーヒーを口にすることができない。
隣に座った虎将はコーヒーをおいしそうに飲んでいる。
「……虎将さん、ちょっと聞いていいですか?」
「ん?」
逃げる前に確認しなければいけないことがある。ほぼ確定しているけれどほんの少しの希望を込めて。
「もしかして、虎将さんのお仕事って、あの、ヤクザというか……」
濁して聞きたかったのに、結局曖昧な言葉が出てこなくてストレートに聞いてしまっていた。
「ああ。言ってなかったか」
「聞いてませんっ!」
「そうか、悪かったな」
虎将があっさりと謝るので春子は責める気にはなれなかった。
「神代会、って聞いたことはないか?」
「……まあ、ありますけど」
関東でも大きな極道組織だ。でも、たまにニュースで名前を聞くくらいだ。組同士の抗争がどうとか、一般人の春子にとってはまるで現実味のないニュースで聞き流すだけだった。
「その中の一つに、吾妻組がある。俺はそこの組長をやっている」
「……え……?」
組織構成はよくわからないけれど、関東の有名組織の中の組と聞くと物凄い勢力な気がする。
「ということはけっこう大きな組織なんですか?」
「そうでもない。神代会の中でも吾妻組よりはでかい組が多い。吾妻組は上から……五番目ってところか」
「五番目……」
詳しく聞いてもやはりピンとは来ない。全体でいくつ組があるのかもわからないけれど、上から数えたほうが早いくらいならある程度の勢力はありそうだ。
「で、さっきのが吾妻組の事務所。若い構成員が常駐している。俺も基本的にはこの家か事務所にいる。なにかあった時は春子も顔を出すことになるかもしれない」
「は、はい」
――何か、ってなに?
やっぱり普通の生活とは違うのかと嫌な予感しかない。もし悪事や犯罪などに絡んでしまったらと考えると、お金どころではなかった。
「虎将さん。あの、この話はなかったことに……ってできませんか。まさか相手がヤクザだなんて思わなかったので……」
いまさら断ってどれほど怒られるか想像もつかない。だんだん怖くなり、言葉尻が弱まり俯いていた。
「……春子はそれでいいのか?」
「え?」
落ち着いた声で問われ、怒られなかったことに驚く。
「金が欲しいんじゃないのか」
言葉に詰まる。お金は喉から手が出るほど欲しい。でもだからといって、極道の妻のフリなんて春子にはできそうもない。
「そもそもどうしてそんなに金が欲しいんだ。見たところ無駄に着飾ってるわけでもないだろうに。ブランド品の収集癖でもあるのか?」
春子は笑いながら首を振る。
誰にも話していないことを虎将に話すのは躊躇われる。でもよく知らない他人だからこそ曝け出すこともできる。
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