上 下
2 / 41
01 婚約者のフリはいいけど相手が悪い

一日20万円

しおりを挟む

 彼の言葉に耳を疑う。

「婚約者のフリだ。フリをしてくれるだけでいい」

 本物の婚約者ではなくフリ。さすがに本物の婚約者ではないことに安堵しつつも、やっぱり納得はできない。
「フリだとしても、なんで私が!」
 赤の他人で、しかも数分前に初めて言葉を交わした人に婚約者のフリなんて頼むほうがおかしい。

「地味な見た目が気に入った。ここにいる女は派手な女ばかりで気にくわない」
「地味!?」

 お願いをする態度とは思えない。けなされているだけだと腹を立てた春子は無視をして帰ろうと背を向けた。

「頼む!」

 すると背後からまた声がした。そろりと振り返ると大きな男性が身をかがめ、春子に対して両手を合わせている。
 異様な光景に周囲の視線を感じた。はやく切り上げて逃げたい。

「でも私、これから帰って寝たいんです」

 理由を考えている余裕もなく、あまりの眠気に正直に答えていた。仕事中だとか、予定があるとでもいえばよかったと思ったけれど、もう遅い。

「寝るだけならむしろ暇だろう」
 予想がついていた返事だけど、春子にとっては重要事項だ。
「だめなんです。私、昼も夜も働いてて、ここのところずっと寝不足なんです!」

 せっかく残業もなく、しかも定時よりもはやく家に帰れるというのに寝ないという選択肢はない。ここまで強く主張すれば諦めてくれるだろうと、彼を睨む。

「……あんた普通の会社員だろ? 昼夜働く理由は?」
「そんなのあなたには関係ありません!」
「それを理由に断るなら俺にも関係がある」
 どういう理屈かわからない。でも凄まれるとその迫力に負けてしまいそうだ。

「……お金が必要なんです」

 もう二度と会うこともないだろう他人だからこそ答えられた。会社の人にも親しい友人にさえ言えないことだった。
「なんだと?」
 男の眉間の皺がさらに深くなる。やはり他人に話す内容ではなかったみたいだ。

「っ、な、なんでもないです! とにかく無理です。では!」
 こうなったらもう走って逃げるしかない。そう思って男から背を向け一歩踏み出した瞬間、力強い手に腕を掴まれた。

「待て。金が必要なのか? それなら婚約者のフリをしてくれれば一日十万……いや、二十万払う。これならどうだ?」
 彼の言葉に、勢いよく振り返る。
「二十万円、しかも一日で!?」

 想像以上の報酬にごくりと息を飲む。今の春子には何よりお金が必要だ。しかも短期間で一気に稼げるのはより好都合だ。こんなにいい話はない。あまりにいい話すぎて怪しいくらいだ。

「……婚約者のフリをすればいいだけですか? 他にはなにもしなくていいですか? それで一日二十万円……?」
「ああ、もちろん」

 念押しすると彼は力強く頷いた。まだ半信半疑ではあるけれど、まっすぐ春子を見つめる視線に嫌なものは感じなかった。頭の中でぐるぐると考え、天秤にかける。眠気とお金。赤の他人の婚約者のフリをするだけで、一日二十万円。どう考えても、得しかない。

「……わかりました。やります」
 結局お金につられて、承諾していた。
「ありがとう、助かる。ではこっちに来てくれ」

 またしても腕を掴まれ、強く引かれる。自分の力の強さがわかっていないのか、掴まれているだけなのに腕に激痛が走る。

「い、痛いです!」
「……ああ、悪い」

 手が離れたと思ったら今度は男の視線が春子の全身を上から下まで嘗め回すように見下ろされる。

「服装も地味だが、ちょうどいいだろう」
 さっきから失礼なのかそうでないのか微妙な発言。オフィスカジュアルが許されている職場ではあるが、春子は服を選ぶ面倒さと節約から、毎日スーツを着ていた。

「それで、どこに行くんですか?」
「見合いだ。そこで俺の婚約者ということにしてほしい」
「わ、わかりました」

 心の準備ができないまま、彼に連れられてロビーの奥へ進み、ホテル内の和食レストランへ入る。さらにその奥の個室の前で立ち止まった。

「悪い、待たせた」

 彼が扉を開いた瞬間、中にいた人たちの視線が一斉に春子たちに注がれる。
 婚約者のフリをすると言っておきながら、彼の名前をまだ聞いていないことを思い至る。何か聞かれてしまったらまずいと手のひらに汗が滲む。けれどなによりも向けられた視線の先にいる人たちの迫力に圧巻されていた。
 広間の中央にあるテーブルを挟んで右手には、奥から男性と若い女性が座っている。そして左手にはやたらと貫禄のある険しい表情の男性。

「……その女性は?」

 右手奥に座っている男性が眉根を寄せこちらを睨む。その迫力に身が縮こまる。これはいったい、どういう人たち? どうして彼を含む男性は全員目力がとんでもないのか。

「俺の女だ。結婚することにした」
 肩を抱き寄せられ、ふらつきつつ彼の身体に密着した。春子は黙ったままこくこくと頷くことしかできなかった。
「……虎将とらまさ、どういうことか説明してくれ」

 右奥の男性は冷静な声で、けれど刺々しい声音で隣の彼に問う。とらまさ、と呼んでいたのでそれが彼の名前なのだろう。
 男性の隣に座っている若い女性は可愛らしく、着物姿がよく似合っている。可愛いなあとぼんやり考えていると、さらに強く身体を引き寄せられた。

「こういうことだよ」
 不意に視界が、隣に立っていた男の姿で覆いつくされる。

「んっ……!」

 彼の唇が、春子の唇を奪っている。
 信じられなくて目を見開く。力が強く乱暴で強引な彼の唇は、驚くほど優しくふわりとふれていた。キスをされたこと以上に、そのことが春子にとっては衝撃だった。
 ゆっくり唇が離れていくと目を開きっぱなしだった春子と目が合う。ついさっき会ったばかりなのに初めて男性の温もりを感じたからか、鼓動が強く鳴り響いている。

「……というわけで、見合いはなかったことにしてくれ。じゃあな」
「おい、虎将!」

 呼び止められるのも無視してまた来た道を戻っていく。大股で歩くせいで無理やり肩を抱かれている春子の足はもつれてしまいそうだ。

「ま、待って。速いです!」
「……しかたないな」
 彼は面倒そうにしたあと、私の腰を抱えて持ち上げる。ひょいとあまりに簡単に身体が浮いた。

「え、ええ、ちょっと!」

 正面から抱きかかえられるまま、歩き出す。一気に視界が高くなり不安定な体勢に彼の肩に手を置かざるを得ない。

「このほうが速い」
「だからって、これは……!」

 大人としてあまりにも恥ずかしい格好だ。前を向いている彼にはわからないだろうけれど、ホテルスタッフやお客さんの視線は春子に注がれている。隠れてしまいたいくらいの羞恥に、春子は思わず彼の首に手を巻き付け、首元に顔をうずめる。すると春子を抱えている彼の力もさらに強まった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

無表情いとこの隠れた欲望

春密まつり
恋愛
大学生で21歳の梓は、6歳年上のいとこの雪哉と一緒に暮らすことになった。 小さい頃よく遊んでくれたお兄さんは社会人になりかっこよく成長していて戸惑いがち。 緊張しながらも仲良く暮らせそうだと思った矢先、転んだ拍子にキスをしてしまう。 それから雪哉の態度が変わり――。

手のかかる社長から狂愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
手のかかる社長から狂愛されちゃいました

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。

青花美来
恋愛
あの日、バーで出会ったのは勤務先の会社の副社長だった。 その肩書きに恐れをなして逃げた朝。 もう関わらない。そう決めたのに。 それから一ヶ月後。 「鮎原さん、ですよね?」 「……鮎原さん。お腹の赤ちゃん、産んでくれませんか」 「僕と、結婚してくれませんか」 あの一夜から、溺愛が始まりました。

夜這いを仕掛けてみたら

よしゆき
恋愛
付き合って二年以上経つのにキスしかしてくれない紳士な彼氏に夜這いを仕掛けてみたら物凄く性欲をぶつけられた話。

イケメンイクメン溺愛旦那様❤︎

鳴宮鶉子
恋愛
イケメンイクメン溺愛旦那様。毎日、家事に育児を率先してやってくれて、夜はわたしをいっぱい愛してくれる最高な旦那様❤︎

勘違いで別れを告げた日から豹変した婚約者が毎晩迫ってきて困っています

Adria
恋愛
詩音は怪我をして実家の病院に診察に行った時に、婚約者のある噂を耳にした。その噂を聞いて、今まで彼が自分に触れなかった理由に気づく。 意を決して彼を解放してあげるつもりで別れを告げると、その日から穏やかだった彼はいなくなり、執着を剥き出しにしたSな彼になってしまった。 戸惑う反面、毎日激愛を注がれ次第に溺れていく―― イラスト:らぎ様

処理中です...