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01 婚約者のフリはいいけど相手が悪い
一日20万円
しおりを挟む彼の言葉に耳を疑う。
「婚約者のフリだ。フリをしてくれるだけでいい」
本物の婚約者ではなくフリ。さすがに本物の婚約者ではないことに安堵しつつも、やっぱり納得はできない。
「フリだとしても、なんで私が!」
赤の他人で、しかも数分前に初めて言葉を交わした人に婚約者のフリなんて頼むほうがおかしい。
「地味な見た目が気に入った。ここにいる女は派手な女ばかりで気にくわない」
「地味!?」
お願いをする態度とは思えない。けなされているだけだと腹を立てた春子は無視をして帰ろうと背を向けた。
「頼む!」
すると背後からまた声がした。そろりと振り返ると大きな男性が身をかがめ、春子に対して両手を合わせている。
異様な光景に周囲の視線を感じた。はやく切り上げて逃げたい。
「でも私、これから帰って寝たいんです」
理由を考えている余裕もなく、あまりの眠気に正直に答えていた。仕事中だとか、予定があるとでもいえばよかったと思ったけれど、もう遅い。
「寝るだけならむしろ暇だろう」
予想がついていた返事だけど、春子にとっては重要事項だ。
「だめなんです。私、昼も夜も働いてて、ここのところずっと寝不足なんです!」
せっかく残業もなく、しかも定時よりもはやく家に帰れるというのに寝ないという選択肢はない。ここまで強く主張すれば諦めてくれるだろうと、彼を睨む。
「……あんた普通の会社員だろ? 昼夜働く理由は?」
「そんなのあなたには関係ありません!」
「それを理由に断るなら俺にも関係がある」
どういう理屈かわからない。でも凄まれるとその迫力に負けてしまいそうだ。
「……お金が必要なんです」
もう二度と会うこともないだろう他人だからこそ答えられた。会社の人にも親しい友人にさえ言えないことだった。
「なんだと?」
男の眉間の皺がさらに深くなる。やはり他人に話す内容ではなかったみたいだ。
「っ、な、なんでもないです! とにかく無理です。では!」
こうなったらもう走って逃げるしかない。そう思って男から背を向け一歩踏み出した瞬間、力強い手に腕を掴まれた。
「待て。金が必要なのか? それなら婚約者のフリをしてくれれば一日十万……いや、二十万払う。これならどうだ?」
彼の言葉に、勢いよく振り返る。
「二十万円、しかも一日で!?」
想像以上の報酬にごくりと息を飲む。今の春子には何よりお金が必要だ。しかも短期間で一気に稼げるのはより好都合だ。こんなにいい話はない。あまりにいい話すぎて怪しいくらいだ。
「……婚約者のフリをすればいいだけですか? 他にはなにもしなくていいですか? それで一日二十万円……?」
「ああ、もちろん」
念押しすると彼は力強く頷いた。まだ半信半疑ではあるけれど、まっすぐ春子を見つめる視線に嫌なものは感じなかった。頭の中でぐるぐると考え、天秤にかける。眠気とお金。赤の他人の婚約者のフリをするだけで、一日二十万円。どう考えても、得しかない。
「……わかりました。やります」
結局お金につられて、承諾していた。
「ありがとう、助かる。ではこっちに来てくれ」
またしても腕を掴まれ、強く引かれる。自分の力の強さがわかっていないのか、掴まれているだけなのに腕に激痛が走る。
「い、痛いです!」
「……ああ、悪い」
手が離れたと思ったら今度は男の視線が春子の全身を上から下まで嘗め回すように見下ろされる。
「服装も地味だが、ちょうどいいだろう」
さっきから失礼なのかそうでないのか微妙な発言。オフィスカジュアルが許されている職場ではあるが、春子は服を選ぶ面倒さと節約から、毎日スーツを着ていた。
「それで、どこに行くんですか?」
「見合いだ。そこで俺の婚約者ということにしてほしい」
「わ、わかりました」
心の準備ができないまま、彼に連れられてロビーの奥へ進み、ホテル内の和食レストランへ入る。さらにその奥の個室の前で立ち止まった。
「悪い、待たせた」
彼が扉を開いた瞬間、中にいた人たちの視線が一斉に春子たちに注がれる。
婚約者のフリをすると言っておきながら、彼の名前をまだ聞いていないことを思い至る。何か聞かれてしまったらまずいと手のひらに汗が滲む。けれどなによりも向けられた視線の先にいる人たちの迫力に圧巻されていた。
広間の中央にあるテーブルを挟んで右手には、奥から男性と若い女性が座っている。そして左手にはやたらと貫禄のある険しい表情の男性。
「……その女性は?」
右手奥に座っている男性が眉根を寄せこちらを睨む。その迫力に身が縮こまる。これはいったい、どういう人たち? どうして彼を含む男性は全員目力がとんでもないのか。
「俺の女だ。結婚することにした」
肩を抱き寄せられ、ふらつきつつ彼の身体に密着した。春子は黙ったままこくこくと頷くことしかできなかった。
「……虎将、どういうことか説明してくれ」
右奥の男性は冷静な声で、けれど刺々しい声音で隣の彼に問う。とらまさ、と呼んでいたのでそれが彼の名前なのだろう。
男性の隣に座っている若い女性は可愛らしく、着物姿がよく似合っている。可愛いなあとぼんやり考えていると、さらに強く身体を引き寄せられた。
「こういうことだよ」
不意に視界が、隣に立っていた男の姿で覆いつくされる。
「んっ……!」
彼の唇が、春子の唇を奪っている。
信じられなくて目を見開く。力が強く乱暴で強引な彼の唇は、驚くほど優しくふわりとふれていた。キスをされたこと以上に、そのことが春子にとっては衝撃だった。
ゆっくり唇が離れていくと目を開きっぱなしだった春子と目が合う。ついさっき会ったばかりなのに初めて男性の温もりを感じたからか、鼓動が強く鳴り響いている。
「……というわけで、見合いはなかったことにしてくれ。じゃあな」
「おい、虎将!」
呼び止められるのも無視してまた来た道を戻っていく。大股で歩くせいで無理やり肩を抱かれている春子の足はもつれてしまいそうだ。
「ま、待って。速いです!」
「……しかたないな」
彼は面倒そうにしたあと、私の腰を抱えて持ち上げる。ひょいとあまりに簡単に身体が浮いた。
「え、ええ、ちょっと!」
正面から抱きかかえられるまま、歩き出す。一気に視界が高くなり不安定な体勢に彼の肩に手を置かざるを得ない。
「このほうが速い」
「だからって、これは……!」
大人としてあまりにも恥ずかしい格好だ。前を向いている彼にはわからないだろうけれど、ホテルスタッフやお客さんの視線は春子に注がれている。隠れてしまいたいくらいの羞恥に、春子は思わず彼の首に手を巻き付け、首元に顔をうずめる。すると春子を抱えている彼の力もさらに強まった。
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