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01.夜の声

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 朝から頭がぼんやりする。眠くてしかたがなく、出社前にカフェで熱いブラックコーヒーを飲んだ。
 原因はわかりきっている。昨夜のお隣さんの声のせいだ。
 連日悩まされているが、昨日はさらにひどかった。

 転職初日の前夜だったので緊張しながら眠っていたらベッドの軋む音と女性の甘い声が聞こえてきた。その甘ったるい声は断続的に聞こえて、止まらなかった。一度止まっても、また再開される。結局それは外が明るくなるまで続き、結局寝たのは2時間くらいだった。
 大事な日なのに。



「本日からお世話になります、手島紗江てしまさえと申します。よろしくお願い致します」

 大勢の人の前に立つのは退職時以来だ。新しい顔ぶれを前に、頭を深く下げた。緊張気味に顔を上げると、眠気のせいか視界がぼやけた。

「じゃあこっちでいろいろ説明するから」
 課長に案内され、オープンスペースで営業部内の人事と業務内容について説明を受ける。営業事務として転職した私は、もともと営業として働いていたので仕事内容についてはある程度知識はある。けれど事務の人がやっていた細かいところまではわからない。
「えーと、手島さんの担当は……」
 課長が言葉を切ったところで、手を挙げた。
「おい。こっちに来てくれ。彼女が新しい担当だから、よろしく頼む」
「はい」
 呼ばれた男性はこちらにまっすぐ歩いてくる。
「よろしくお願いします、手島です」
 定期的におとずれる強い眠気を押し殺して見上げると、若い男の人が立っていた。清潔感のあるグレーのスーツを着こなして、柔らかい顔立ちの男性。というよりもきれいな顔だ。年齢は同じくらいだろうけれど、肌は私よりもきれいなんじゃないかと思うほどで、じっと見つめられると少し恥ずかしくなってくる。

「もしかして……紗江?」
「え? あの」

 彼に突然名前を呼ばれて、知り合いの中から記憶を辿っていく。そもそも、私のことを「紗江」と呼ぶ男の人は、ひとりくらいしか――。

「もしかして、怜央れおくん?」
「当たり」

 柔らかく微笑んだ彼の表情を見て、学生時代の有馬ありま怜央くんを思い出した。彼はいわゆる幼なじみで、小さい頃から隣に住んでいた。怜央くんは高校卒業と同時に実家を出たのでそれから会うことがなかったので気が付かなかった。すっかり大人の男性になっているけれど、笑顔には面影が残っている。

「びっくりしたよ。まさか紗江と同じ会社になるなんて」
「こっちこそ……久しぶりだね」

 怜央くんの顔を見るのは何年振りだろう。
「お、二人は知り合いか? ちょうどよかった。有馬ありまの担当は手島さんだから、よろしく」
「はい。えーと手島さん、よろしくね」
「有馬さん、よろしくお願いします」
 昔はお互い名前で呼んでいたものだが、職場で呼び合うことはできないだろう。
 お互い27歳のはずだから、最後に会ってから8年ほど経過してしまうだろうか。怜央くんは子どもの頃とは違いすぎていた。もともと細身ですらっとした体型だったけれど、さらに身長が伸びたみたいだ。肩幅はしっかりあるのでただ細いだけには見えない。

「さっそくだけど、このあとミーティングいいですか?」
「説明はもう終わったからさっそく頼むよ」
 課長は席を立ち、その代わりに怜央くんが正面に座った。真正面から見ても彼の顔がよく整っていることがわかる。

「俺の担当してくれてた事務さんが辞めちゃったからその引継ぎなんだけど」
「怜央く……有馬さん、営業なんだね」
「まあね」
「向いてそう。昔から人気者だったし」

 怜央くんは小学生の時かは可愛らしい容姿でみんなに人気だった。中学生の時も。そしてピークは高校生の時だ。顔立ちは「可愛らしい」から「かっこいい」に変化し、誰にでも隔たりなく優しいので、女子生徒から絶大なる人気があった。そのせいで男子には妬まれるかと思いきや、男子にも優しくて、その笑顔でみんなイチコロだった。つまり男女ともに好かれていた。一方で幼なじみである私は平凡すぎて、女子生徒からの妬み嫉みはよくあった。同じ学年だけではなく後輩や先輩からまでも怜央くんのことを教えてほしいと言われたり、ラブレターを渡してほしいというのはもちろん、陰口を叩かれたり酷い時には上履きを隠されたりもした。

 ただの幼なじみなのに、と何度か泣いた覚えがある。
 当時怜央くんのことを好きだっただけに。

「人気者って、そんなことないよ。今だって苦労して契約とってる」
「……そっか……」
 と言いつつも、先ほどから女性陣の視線が突き刺さっている。転職1日目からの不穏な空気を気にしている間にも怜央くんは丁寧に業務について説明をしてくれている。基本的なことは前の会社と同じみたいでほっとした。
「以上かな。あとはやっていくうちに教えるよ」
「はい。ありがとうございます」
 二人で席を立った。私は今日パソコンの設定や自席での研修があると聞いているので、自分の席へ戻ろうと慣れないオフィスを見渡すと、二人の女性がニコニコと微笑みながらこちらに近づいてくる。

「失礼しまーす。手島さん、有馬くんとお知り合い?」
「え、あ、はい」
 名前も知らない女性に声をかけられる。怜央くんと話している最中にじろじろと見てきた人たちだ。
「幼なじみなんです」
 私が応える前に、怜央くんが彼女たちに微笑んだ。
「そうなんですか! 有馬くんの小さい頃の写真見せてほしいな~学生時代のでも!」
「有馬くん全然見せてくれなくて~」
 ふたりの女性がしなをつくる。
「えっと……」

 小さい頃の写真といってもアルバムが置いてあるのは実家だ。小中高の頃の写真なんてアルバムにしか残っていない。どう断ろうかと考えあぐねていると怜央くんがまた先に口を開いた。
「ちょっとやめてくださいよ、恥ずかしいな」
 怜央くんは自分の口を手で覆い、顔をそらした。頬がわずかに赤くなっている。
「かっ……」
 女性の先輩が揃いも揃って口を覆った。頬を朱に染めてきゃあきゃあと騒ぎながら戻って行った。写真よりも満足感のあるものが見られたのだろう。その場が一気に静かになる。

「ほら、相変わらずモテてる」
「そんなことないって」

 怜央くんは物腰の柔らかさから学生時代からよく女の子に告白をされていたが、社会人になってもそれは変わらないのだろう。天然なのか計算なのか、優しいくせに告白を受け入れたのは見たことがない。けれど女子から恨まれたりもしない。それほど断るのが上手なのだろう。
「手島さん、今日はとりあえず他にやることあるだろうから、明日からじっくりよろしくね」
「ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!」
「大げさだね」
 ふわりと微笑んだ怜央くんの表情は少し幼くて、甘い。



 午前中はやることが多く、緊張している暇もないほどあっという間だった。パソコンの設定と、もろもろの手続き、それから社内研修。そうこうしているうちにお昼休みのチャイムが鳴る。オフィス内の人たちはそれぞれ動き出す。ランチバッグを持って外に出て行く人や、フリースペースにある電子レンジでお弁当を温める人もいる。デスクでカップ麺を食べている人もいた。
 私は朝寄ってきたコンビニでサンドイッチとスープを買ってあったので自席で食べることにした。たまごサンドイッチを一口かじりながら、スマートフォンを取り出した。今日こそはやく眠りたいが、しばらく安眠は望めない。でも行く場所もなく、イヤホンをしていても聞こえてくる薄い壁に高い声。あれが毎日続くのは耐えられない。
 スマートフォンの画面をすいすいとスクロールしていく。

「なに真剣に見てるの?」
 背後から声をかけられて振り向くと、怜央くんが立っていた。手に持っている紙コップからはコーヒーのいい香りがした。

「……ちょっと、引っ越し先を」
「へえ、引っ越すの?」
 隣の席が空いていたので怜央くんは隣に座り、頬杖をついて私をじっと見る。

「お隣さんがね……」
「なにか問題?」
 怜央くんに心配そうに覗き込まれて、言いづらい内容なので小声になった。
「……夜の、女の人の声がすごくて」
「ああそれはそれは」
 怜央くんは困惑のあと、苦笑いをした。

「なにかあったら言ってよ。俺も手伝うから」
「うん、ありがとう」

 席を立った怜央くんはビジネスバッグとコーヒーを手にして立ち上がった。

「俺打合せして直帰するけど、今日は初日だし、定時で帰りなよ。パソコンは持って行くから、なにかあったらメールして」
「ありがとうございます。いってらっしゃい」

 にこりと微笑みうなずいて、怜央くんは背を向けた。

 見届けたあと物件探しを再開する。転職を機に引っ越してきたのでまだ数ヵ月しか住んでいないのにさっそく引っ越したい。このままお隣さんの情事が続くようであれば夜眠ることができない。

 怜央くんの言う通り残業せず会社を出た。一日目を終えて適度な疲労感が寝不足の眠気を誘う。本当はまっすぐ家に帰りたいところだけれど、冷蔵庫の中身がほとんど何もないのでスーパーかコンビニには寄りたいところだ。ぼんやりしたままスーパーに寄り最低限の買い物を済ませて、家路に着く。5階建てのマンションの3階に住んでいて、元気のある時は階段を昇るが、さすがに今日はエレベーターを使った。
 もうすぐ部屋に着く。そうしたらすぐに眠ろう。

「最低っ!」

 そう思っていたのに、エレベーターを降りてもうすぐ部屋だ、というところで高い声が耳をキンとつんざき、同時に肌を叩く音が響いた。

 思わず視線を向けると、隣の部屋のドアが開いていて、上半身裸の男性がうつむいている。後ろ姿しか見えない女性の肩がわなわなと震えていたので顔が見えなくても怒りが伝わってくる。先ほどの音は男性が頬を叩かれた音なのだと察知した。隣の部屋、ということは不眠の原因の部屋だ。毎日あれだけうるさかったのにケンカをするものなのかと感心してしまう。あまりに自分には縁のない世界だ。

「もう来ないからっ!」

 女性は荒々しく振り返り、私の横を通り過ぎていく。ヒールの音がカツカツと響く。嫌なところを見てしまった。気まずくてはやく部屋に入りたいのに今日に限ってカバンから鍵がなかなか出て来ない。

「あれ……紗江?」

 慌てながらカバンの中の鍵を探していると、聞き覚えのある声に呼ばれた。振り返るとそこには上半身裸の男性しかいない。でも彼は前髪の隙間からこちらを見ていた。しなやかな腕を上げて髪をかき上げると、その視線と目が合う。

「え……怜央くん?」

 今日再会した幼なじみがそこに立っていた。
「隣だったんだ。よろしくね」
 今女の人に頬をひっぱたかれたというのに怜央くんは平然と笑う。まさか怜央くんだとは思わず、ぼーっと眺めてしまう。彼が上半身裸だということに気づいて、慌てて視線をそらした。

「……うるさかったの怜央くんの部屋だったんだね」
「あーごめん。あの子声大きいんだ。あんなにうるさいのはもう今日限りだと思うから許してよ」
「今日限りって」
「さっき見たでしょ。あの子とは今日で終わり。セフレとは3回までって決めてるんだ」
「……」
 怜央くんの口から「セフレ」なんていう単語が出てきて呆気にとられる。高校生までの彼からはまったく想像できない。今日会社でだって、昔の優しくて穏やかで王子様みたいな怜央くんだった。たった数分で怜央くんへの印象が大きく変わる。女性に叩かれていたというのに悪びれもしない怜央くんが理解できない。

「……ひどすぎる」
「合意の上でも?」
「合意の上だったらあんなに怒らないでしょ?」
「……そうかな」

 怜央くんは無邪気な子どものように首を傾げる。身体の関係だけが嫌だからあんなに怒ってるんだと思うけど。本当にわからないんだったら相当な問題だ。

「もういいよ。明日からは聞こえなくなるんでしょ?」

 怜央くんの女性関係なんて私には関係ない。気分はすごく悪いけれど。でも今日限りということは今夜からあの声は聞こえないということだ。

「それは無理かなあ。だって発散させたいし」
「発散って……うるさかったら迷惑なんだけど」

 私が引っ越しまで検討していたことを知っているくせに。
 しないでとは言わないけれどせめて隣の部屋に聞こえないようにしてほしい。たとえばホテルへ行くとか。そう伝えようとしたら怜央くんは今までに見たことのない不敵な笑みを浮かべた。

「じゃあその代わり、紗江が発散させてくれる?」
「え」
「よろしく。明日の夜、うち来てね」
「え、ちょっと怜央くん!」
 名前を呼んでも微笑みながら手を振られ、怜央くんは部屋の中へ入ってしまった。

 いったいどういうことなのか頭がついていかない。
 優しい幼なじみだと思っていたあの男の人は、誰?


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