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乳房
しおりを挟む出逢ったのは、桜の花が咲く季節だ。
小学校の入学式の日だった。「桜」の名が付くその小学校の校庭は、満開の桜並木に包まれていた。
講堂で式が終わると、小さな新入生のおれたちは教室に詰め込まれた。おれの隣の席に座ったのは、中でも一際ちっちゃな女の子だった。おれはその子に名前を訊いた。
すると、その子がおれの方に顔を向けた。目が合った。おれの心を射抜くような、強い眼差しだった。
その瞬間——おれの心臓が止まった。
実際はそんなことはありえないのだが、確かにそう感じた。あんなに突然、心が身動きできなくなったのは、あとにも先にもあのときだけだ。
おれがなにも言えないまま、じーっと見つめていると、その子は怪訝な顔をして視線を逸らせた。
どうも名前は教えてくれなさそうなので、机の上に貼ってあった紙に書かれた、その子の名前と思われるひらがなを読んでみた。思いがけず、大きな声になってしまった。周りの者が一斉にこちらを振り向く。
すると、その子はますます不機嫌な顔になった。
最初は無視するような態度をとっていたその子も、そのうちおれの話を聞くようになり、時折笑みを見せるようにまでなった。つんとすました顔も彼女が持つ端正な顔立ちが際立って魅力的だが、まるで氷が解けるようにゆっくりとやわらいで愛らしくなっていく笑顔の方がやっぱりいい。
おれは彼女の興味を引くおもしろい話をして、なんとかその顔を引き出そうと努めた。
あの頃、おれはなんであんなにがんばれたんだろう。
平日は私立の中学を狙うような塾に通って勉強しながら、土日は地域の少年サッカーのチームにも入って練習に明け暮れていた。おまけに、ずーっと学級代表を任され、六年生のときには児童会長までやっていた。
毎晩へとへとになって布団にもぐりこみ、気がついたら朝を迎えていた。だが、たとえどんなに疲れていても、朝起きて、飯を食って、学校へ行き、彼女の顔を見ると、またどこからか力が湧いてきた。
どれもやめようと思ったことはなかったが、唯一やめたのはスイミングスクールだった。身体を動かすことが好きで体育は得意科目だったが、どういうわけか水泳だけはダメで、大人になった今でもほとんど泳げない。
゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜
ある日の放課後、教室の前に置かれていたオルガンをおれは一人で弾いていた。
弾く、と言っても習ったことがないので右手だけで、しかも当時アラサーだった音楽の先生が「ウルトラマンの中ではこの歌が一番好きなの」と言って、おれたちに歌わせていた「帰ってきたウルトラマン」だけだ。
しかし、それも完璧ではなく、いつも途中でメロディーがわからなくなっていた。
この日も同じところで止まった。
そこへ彼女がふらっと入ってきて、続きを弾きだした。オルガンを弾く彼女の指ではなく、少し得意げな笑みを浮かべた横顔を、おれはじっと見つめた。
彼女が「帰ってきたウルトラマン」を弾き終わった直後、おれは彼女の頬に軽く、自分のくちびるをくっつけた。
彼女がびくっとしておれの方を見た。その目が怒っている。
なのにおれは、反射的に彼女を引き寄せ、抱きしめてしまった。彼女は必死でもがいて、おれの腕の中から脱出しようと試みた。
だが、おれは痩せてはいるが男子の中では背が高く、女子の中でも小さな彼女が振り払えるような相手ではない。そのうちに観念したのか、おとなしくなった。
女っていうのは、本当に力のない生き物なんだな、としみじみ思った。
おれは彼女を抱きしめた手に、さらに力を込めた。
そのとき、生まれて初めて、自分の身体のあの部分が固くなるのを感じた。
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