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リスティアーナ女王国編

26 悪役主従と勇者・前

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「……エマ?」

 聞き覚えのある声と一緒に柱の影から出てきたライナスの姿が目に入り、驚きすぎて呼吸が止まってしまうかと思った。
 ここが暗黒竜の神殿であることを考えれば、僕の想像を超えたモンスターがライナスにでも化けているのだろうかと思ったが、妖精王は慌てた様子はなく、ただ小さな声でつぶやいた。
 
「タイミング……!」
「え?」
 
 妖精王の言っている意味がよくわからず僕がぽかんとしていると、いつの間にかすぐそばまで近づいていたライナスの指が僕の頬を滑った。
 
「――エマ、なんで泣いてんの?」

 そう言われて、僕が今まさにたくましいヒゲの猛者にならんと決意する直前まで、泣いていたことを思い出した。ライナスはなぜか不機嫌そうな顔のまま、様子を窺うようにじっと僕のことを見ている。だけど、僕の頬に触れる指先はまるで大切なものに触れるようで、僕は目を瞬かせた。
 最後にライナスと別れたときはお腹が痛そうだったが、もう治っただろうか。アントンはどこへ行ってしまったんだろう。
 いろんな疑問はあれど、僕はたくましいヒゲの猛者になろうとしているというのに「泣いてるのか」などと心配されているようではいけないと思い、胸を張りながら答えた。
 
「な、なな泣いてるわけなかろう! それよりもライナス、一体どうやってこんなところに?」
「なにその変なしゃべり方。ていうかそれはこっちのセリフだよ。エマ、お前一体……」

 なにかを我慢しているような変な顔をしたライナスが考え込むように口にするのを聞きながら、僕はきょろきょろと辺りを見回した。アントンもこの辺りにいるのではないかと思ったのだ。
 それを察したらしいライナスがめんどくさそうに頭をかきながら、口をひらいた。

「……あー、ああ。あいつ遺跡とか好きだからその辺見てくるって。そっちこそ、――は一緒じゃないの?」
「そうか。こ、恋人は……その……」

 ライナスに今一番訊かれたくないことを尋ねられて、僕の胸にちりっと痛みが走った。
 それから、アントンとライナスの関係は僕がケイトとそうでありたいと思う理想の関係のような気がして、僕はぐっと奥歯を噛みしめた。

(いいなあ……)
 
 僕が森の中でおいしそうなメロンを見つけてその場を離れたくなくても、ケイトは「じゃあオレはその間に魚を獲ってきますね」と放っておいてくれるような、そんなお互いを認めあった関係であれたらよかったのに……。
 ライナスは全然関係ないのに二人の関係が羨ましくて、ライナスを見たままの僕の視界がまたじわっと海の底に沈んだ。
 それを見てびっくりしたような顔をしたライナスが、僕の目尻を指先で拭いながら訊いた。
 
「エマ。そいつに泣かされたの?」

 ライナスの声がどこか低いような気がする。
 いつの間にか僕の両頬をライナスが包み込んでいて、僕はびっくりして目を瞬いた。だけどその動作のせいでぽろっと涙がこぼれてしまい、さらに悔しい気持ちが広がる。「こら、近い。近いよ」と妖精王が僕の近くを飛びながらぼそぼそ言っているのが聞こえるが、ライナスはその手を離さずに僕に言った。

「エマはその恋人のこと、本当によく知ってんの?」
「え?」
「この前も今も置いてかれたんだろ。そいつ今なにしてんの?」

 ライナスはケイトと僕のことを知らないのだから、この質問にはなんの悪意もないはずだった。だがそう尋ねられて、僕は特大のネジを心臓にぐりぐりとねじ込まれたみたいな痛みを感じ、白目をむきそうになっていた。
 白目をむきそうどころかもはや泡でも吹きかねない危険な状態だったが、妖精王の言う通り、ライナスの顔がすごく近くて息がかかってしまいそうで、驚いた僕の黒目はなんとか定位置に戻った。
 顔がくっついてしまいそうなほど僕の近くにずいっと顔を寄せたライナスが、不機嫌な様子のまま尋ねた。

「ていうかさ……警戒心なさ過ぎない?」
「え?」
「俺が悪い男だったらどうすんの」

 片方の手がすりっと僕の耳たぶを撫でたので、ピクッと震えてしまった。
 そんな触り方はやめてほしいなと思うが、悪い男かどうかという観点でいうと危険察知要員妖精王が強く反応しないので、ライナスはかなり安全な分類に位置していた。
 
「……いや、ライナスは安全だと思うから」
「安全? それこないだも言ってたな」

 剣を教えたからそう思ってんのか? と言いながら、ライナスが首をかしげるのを見て、僕はハッと息を呑んだ。
 
(そうだった……!)

 そういえば僕は今の今まで、たくましいヒゲの猛者にならんと奮い立っていたのだった。そんなときに剣の達人であるライナスが目の前に現れたのだ。
 このタイミングは最高すぎだった。
 よく思い出してみれば、さっき妖精王も「タイミング」とつぶやいていたではないか!
 僕の心臓は高鳴る。今こそライナスに弟子入りを申し入れ、ケイトに頼ってもらえるような猛者への進化を遂げるべきときだった。そう思った僕がライナスに向かって口をひらきかけたとき、ライナスが言った。

「俺、そんなに安全じゃないよ。……教えてあげようか?」

 なぜか挑むような視線のライナスに艶っぽい声でそう言われて、僕の心臓がドキッと跳ねた。
 だけど、オシエテアゲヨウカという言葉を僕はしっかりと受信していた。僕が弟子入りを志願する前に、ライナスは察してくれたのだろうか。挑発的な態度は、これからの修行の危険性を教えようとしているのかもしれない。
 そうだ。よく考えてみれば、これからの道はつらく厳しい道のりになるはずだった。妖精王が危険判定をしないものだからうっかりしてしまったが、きっと恐ろしい修行を超えてその力を手にしたであろうライナスに「安全だと思う」だなんてどの口が言えたものか。
 僕の両頬に当てられていたライナスの硬い指先が、そっと僕の唇を撫でた。それはまるで僕の浅はかな口を責めているように思えて、僕の眉尻は自然に下がっていく。
 申し訳ない気持ちでいっぱいになった僕は、滲む視界でライナスのことを見つめながら、それでもこれからの希望にかけ口にした。

「教えて……ライナス」
「――――は?」
「え?」
 
 てっきり「わかった。覚悟はいいな。滝壺に突き落とすところからだー!」と蹴飛ばされるかと思っていたのに、ライナスは驚いたようで固まってしまった。心なしか頬が赤いような気もする。一体どうしたのだろうと思っていると、ライナスが言った。
 
「なッ! え、こ、恋人いるんじゃないのか?」
「恋人はいるけど……??? あ、だ、大丈夫だ!」

 聡明な僕は瞬時にライナスの言わんとしていることを理解した。
 恋人のために強くなりたいと言っていた僕のことを心配してくれているのだ。あれだけこれからの修行の危険性を伝えようとしてくれていたのに、ケイトのことまで心配してくれるだなんて、ライナスは本当は優しいのだ。だから妖精王もなにも言わないのだなと僕はすっかり安心した。
 僕は安心しきった笑顔を浮かべながら、ライナスに微笑んだ。

「今はライナスのことしか考えてないよ」
「……っ」
「ライナスのあんな激しい動きを見たら……もう、ライナスに教えてもらうことしか考えられなくて」
「な、な、……はあ???」

 なぜかどんどん赤くなっていくライナスの手が、僕の頬から離れたのがわかって僕は再び首をかしげた。
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