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1巻

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 どうやらそれは違ったらしい、ということを、玉座の間に足を踏み入れた瞬間に理解した。開口一番、国王にそう怒鳴られたからだ。
 いつもなら深く頭を下げているはずの貴族たちや兵士が一人もいないことに首をかしげながらも、アルフレッドはおずおずと赤い絨毯じゅうたんを踏みしめ、玉座の前に向かった。
 そびえ立つ白い円柱をいくつも通りすぎながら、その静けさにアルフレッドは眉を顰めた。
 ちらりと壇上を見ると、国王は額に血管を浮きあがらせ、まるでオーガのような顔でアルフレッドを睨んでいた。アルフレッドと同じ、王者の風格ある黄金色の髪は逆立っているようにすら見える。
 いつも余裕のある笑みを浮かべている姿からは想像もつかない怒りように、アルフレッドは目を丸くした。

「父上……いえ、へ、陛下、お顔がオーガのようですよ」
「オーガのようにもなるだろう! お前はなぜ! なぜ、第一王子でありながら、男の婚約者を与えられたのかと考えたことはなかったのか!」

 はて、とアルフレッドは首をかしげた。
 元婚約者であるエマニュエルは、レーフクヴィスト公爵家の長男で、幼いころは天使のようだと騒がれ、少し成長してからは月の女神のようだと称される美貌を持ち、王子の婚約者として不足のない存在であった。
 王子の婚約者が男性であることは、歴史的に見れば異例かもしれなかった。
 だが、この国では男性同士の結婚が認められており、特殊な実を使えば妊娠だって可能なことを考えれば、それほどおかしなことではない。
 なにより、王都で一番と評されるほどの美貌のエマニュエルである。だからアルフレッドの婚約者として選出されたのだと、彼は思っていた。

「その様子では、考えたことはなかったのだな……その上、有力貴族令息の財産を没収し、国外追放だと? そこまでしなくてはならないなど、エマニュエルは一体どんな罪を犯したというのだ」

 失望した態度を隠すこともなく、国王は額に手を当て、がっくりと肩を落とした。
 しかし、アルフレッドには、きちんとした理由があった。
 たしかに、アルフレッドが言い渡した沙汰は厳しいものだったかもしれない。だが、周りの人間は知らないだろうが、あの虫も殺さぬような見た目に反して、エマニュエルは思いのほか図太い性格をしているということを、幼なじみであるアルフレッドは知っていた。
 風に吹かれただけでよよとくずおれそうな雰囲気なのに、実は、鼻息で妖精を吹きとばすようなやつだと知っている者は少ない。
 だから、徹底的に罪をわからせる必要がある、とアルフレッドは思ったのだ。それにどうしても許せないことがあった。

「父上! エマニュエルは救世の神子であるマシロの靴に、ミミズを入れたんですよ! 神子みこの心を乱すなど、国を危険にさらしたも同然。国家反逆罪です!」
「み、みみず……」

 国王は、肩をがっくりと落とした状態からさらに体を沈ませ、頭を抱え、うずくまる勢いだった。
 マシロは、見ると失神するほどミミズが苦手なのだ。それを知ってか知らずか、靴に入れるなど、アルフレッドにしてみれば、想像を絶する悪事であった。
 アルフレッドは、ようやく父に深刻さが伝わったのかと安堵した。それに、エマニュエルがしたことは、ミミズだけではないのだ。
 アルフレッドが目撃したのはミミズだけだったが、マシロが言うには、さまざまな嫌がらせを日常的に受けていて、恐ろしくて眠れないのだという。
 マシロはいつも元気にしているが、本当は繊細なことをアルフレッドは知っていた。小刻みに震えながらあの小さな手ですがりついてきたときには、守ってやらねば、と奮起したものだ。

「アルフレッド。救世きゅうせい神子みことはいっても、あれは神殿が言っていることだ。本当にどれほどの力があるのかは、私にはわからない。それでもエマニュエルを、あのように罰しなくてはいけないほどの事態だったのか?」
「はい、深刻な事態でした。とても大きなミミズでした」
「み――いや、聞きなさい。あれには幼いころより、ずっと王妃教育を施していたのだぞ。そのような人間を野に放ち、エマニュエルの持つ情報を悪用しようとする者が近づいたらどうするんだ。ただでさえ、あの美貌だ。路頭に迷っているエマニュエルを手に入れたいと思うやからは、星の数ほどいる。国を危険にさらしているのは、一体誰だ」

 嘆くような国王の言葉に、アルフレッドはハッと動きを止めた。
 エマニュエルに自分のしたことの非道さをわからせるため、最善の手段を選んだつもりだったが、野に放ったあとのエマニュエルのことをまったく考えていなかった。
 どうせ図太く生きていくものだとばかり思って、周囲に与える影響まで考えが及ばなかった。

(しまった! あんなやつを野に放ったら、さらに図太くなって、もはやゴブリンにでもなって、俺やマシロに復讐をしにくるやもしれん! 情けをかけてしまったが、やはり極刑にすべきだったか……いや、しかし……それはさすがに)

 アルフレッドの体に震えが走った。
 だが息子が青ざめる様子を見て、国王はほっと息をついた。ようやくアルフレッドが自分の過ちを理解してくれたと思ったのだろう。

「そうでなくてもエマニュエルには……いや、今のお前に伝えても仕方のないことだ。お前は、次の王としての自覚が足りない。もう少し冷静な判断ができるようになるまで、経験を積みなさい」
「そ、そんなことは! ですが、父上! 私は魔法学園を首席で卒業しました。これを機に、マシロと結婚をしようと考えて……」
「アルフレッド! その神子みことやらとの関係を、認めるわけにはいかない。お前がどうしてもその者とやらと添いとげたいというのならば、なによりも先に、エマニュエルの件をどうにかしてこい」

 国王はそう言い放ち、もう話は終わりだと言わんばかりに、首を振りながら眉間に手を当て、「そんな!」と食い下がろうとするアルフレッドと目を合わせることはなかった。
 アルフレッドはなす術もなく、退場させられた。
 バタン、と玉座の間の大きな金縁きんぶちの扉が、重々しく閉じる。

「ああ――本当に、なんていうことを……」

 という国王の嘆きの声は、アルフレッドには、もう届かなかった。


「アルフレッド、陛下はなんだって?」

 玉座の間から出てきたアルフレッドを見つけて、黒髪の少年、マシロが嬉しそうに駆け寄った。いつもは癒されるはずの、可憐に咲く花のような笑顔を見て、アルフレッドの胸は痛んだ。
 本当ならば今日、国王に婚姻を認めてもらおうと思っていたのだ。しかし、エマニュエルのことがあったせいで、彼にいい報告はできそうにない。
 アルフレッドは重い口をひらき、そのことをマシロに告げた。

「……そうだったんだ」

 マシロは少しだけ寂しそうな表情を浮かべたが、怒ることはなく、明るくアルフレッドを励ました。
 悲しい思いをしたはずなのに、とアルフレッドは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。エマニュエルという脅威が去り、マシロはようやく結ばれることを期待していただろうにと、アルフレッドは肩を落とした。
 やるせない気持ちになりながらも、アルフレッドのためにおやつを持ってきたというマシロと共に、王城の中庭へ向かって歩き出した。

「え? エマニュエルさんを捜しに行くの?」
「ああ――その件が片付かなければ、マシロと結婚はできないと言われてしまった。すまない」
「まだ王都にいるのかな?」
「いや、国境の兵士が、エマニュエルの出国を確認している」

 たしかに国外追放を言い渡したが、卒業舞踏会から数日も経たぬ内に出国するなど、アルフレッドは想像していなかった。
 実のところ、玉座の間を出る際に兵士に手渡された記録を見て、愕然としたのだ。
 国外追放を言い渡されてすぐに向かわなければ、あのタイミングで出国できるはずがない。本当にふてぶてしいやつだ、とアルフレッドは苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
 しかし、国内にいるのならともかく、すでに出てしまったとなると、そこから先の足取りを追うにはかなりの労力と時間がかかる。
 国内なら兵士を動かせるが、国外では、他国の目があってそうはいかない。少人数で向かうしかない。

(くそ。どうして俺は、アレを野に放ってしまったんだ!)

 庭園へ出て、中庭の美しい花々が見え始めても、アルフレッドの心には暗雲が立ちこめていた。
 学園生活が終わり、エマニュエルという障壁もなくなり、ようやく、四六時中マシロと過ごす甘い生活が始まると思っていたのに。
 アルフレッドが悔しそうな表情をしているのを見て、マシロは口角を上げて話しかけた。

「ねえ、もしかして、僕、アルフレッドと旅に出られるのかな?」
「――え?」
「だってエマニュエルさんを捜すのって、違う国に行くんでしょ? 僕も、行ってみたい! アルフレッドと一緒に!」

 マシロはなんて前向きで、いじらしい神子みこなんだろう、とアルフレッドは感極まった。
 結婚相手がこんな前向きで素敵な人であれば、自分の人生は本当に素晴らしいものになるに違いない。

(なんとしてでも、エマニュエルがゴブリンになって復讐に来る前に! きちんとあいつに引導を渡してやらねばなるまい!)

 絶対にマシロを幸せにすると、アルフレッドは再度、心に誓った。そして、これからの旅のことをマシロと話した。

「そっか、だとしたら、一度エマニュエルさんの屋敷に行ってみない? たしか、従者だった人がいたでしょ? なにか知ってるかもしれないよ」
「ああ! そうだな!」

 マシロの聡明さに、アルフレッドは感心した。救世きゅうせい神子みこと呼ばれるくらいだ。国だけでなく、その国の頂点に立つ自分も、救ってくれる。
 王都での甘い生活は延期になってしまったが、一緒に旅ができるなら楽しいかもしれない。少人数で行くなら、あいつらに声をかけないわけにはいくまい、とアルフレッドは仲間たちの顔を思い浮かべた。

(マシロとの結婚のためにも、早々に旅の準備に取りかからなければ)

 いていたアルフレッドは、マシロがぽつりと呟いた言葉には気がつかなかった。

「……早く、会いたいな」
「ん? 今なんか言ったか?」
「ううん。ね、これ、一緒に食べよ」

 二人は、花々が咲く庭園の一角のベンチに腰を下ろした。
 おやつにとマシロが持ってきたバスケットの中には、焼き菓子と一緒に、丸くくりぬかれた果物が入っているのが見えた。ただの果実だというのに、マシロの手にかかれば、なんでもかわいらしい存在になるものだな、とアルフレッドは感心した。
 その中に、薄緑色のメロンの玉を見つけて、アルフレッドはそれを見ながら内心で決意を固めた。

(首を洗って待っていろ。――エマニュエル)


          ◇ ◇ ◇


「――え!? 婚約、破棄……?」

 テオドール・セルジュは、王都の商会ロビーで驚きの声を上げた。
 目抜き通りに位置するその商会の中は、まるで貴族の集う応接室のようなしつらいだ。
 朝だというのに薄暗い室内に、魔導灯の明かりがぽわんと浮かぶ。革張りのソファでくつろいでいた上品な身なりの紳士たちが、彼の大きな声に振り返った。
 ハッとしたテオドールは、「申し訳ない」と美しく一礼し、振り返った人々に人好きのする笑顔でにこっと微笑んだ。
 長めの髪を雑に結いあげ、服も着崩してはいるが、育ちの良さは一目瞭然だった。甘い顔立ちの男で、不思議な青紫色の瞳は、どことなく夜を想像させる。
 話し相手の若い男は、商人らしい高さのある帽子を被り直しながら、らしいよ、と頷いた。

「アルフレッド殿下は神子みこ様と結婚するって噂で。ほら、王立魔法学園が卒業式だっただろ? そのとき発表されたらしい」
「え? え、ごめん。ちょっと待って、え?」

 帽子の男の補足にテオドールの理解は追いつけないようで、混乱したままだ。

「いや、わかるよ。俺らもすごいびっくりしたし。でも一番驚きなのは、エマニュエル様が国外追放になったことだよ……」
「な……!?」
「あと、これは違う人かもしれないけど、泣きながら街を走ってた貴族がいたって噂もあるよ」

 その言葉を聞いた瞬間、テオドールは目を見開いた。だが帽子の男は気がつかなかったようで、そのまま話し続けた。

「お前んち、レーフクヴィスト公爵家に出入りしてただろ? エマニュエル様ってどんな感じの方なの?」

 焦っていることに気がつかれなかったのをいいことに、テオドールはいつもの調子を装い、へらへらと笑った。商人は感情を悟られることや、不用意にプライベートな情報を知られることを、避けなくてはならないのだ。

「……え、あー、まあ、普通のお坊ちゃん。すっごい綺麗だから、いつもかわいいなあって思ってた……って、あれ。もしかして、今、オレにチャンス回ってきてる?」
「ぶっ。ほんと調子いいな~。傷心のお貴族様のこと慰めてあげる? 王都の門から、夜なのにペルケ王国の方角に抜けてった馬車がいるって聞いたから、それかもよ」
「うそ。オレ、これからペルケ王国のほうに商談なんだけど!」
「お前に慰められたら、エマニュエル様もほだされちゃうかもな」

 あはは、と笑い声の響く中、なに食わぬ顔で会話を終えると、テオドールは商会を出た。
 そして、大通りに出るや否や、テオドールは全力で走り出した。
 風のような速さで、商会の裏に待たせていた自身の愛馬に跳び乗ると、旅支度もしないまま一目散に、国境を目指した。
 商会の中での軽薄そうな様子とはうってかわって、テオドールが深刻な表情で、小さく呟いた言葉は、焦燥と不安にあふれていた。

「――エマ……」


          ◇ ◇ ◇


「さ、さすがにかわいいですね」

 白いローブをかぶり、腰に剣を差した僕を見て、ケイトは目を丸くした。なかなか人を褒めないケイトにそう言われると、僕もやぶさかではない。
 ペルケ王国最大のダンジョンの近郊の街は、王都のように整備されているわけではないが、さまざまな店や宿屋が立ち並んでいる。
 地下五十階層以上にも及ぶというダンジョンには、いにしえの賢者の知恵が眠っているそうで、いまだ解明されていない階層へ挑む冒険者たちはあとを絶たない。
 通りには、大きな武器を構えた猛者たちが練り歩き、行商人たちが大きく声をあげ、街は活気にあふれていた。山間やまあいにあるせいか、空気が澄んでいて気持ちがいい。
 ダンジョンに挑むために、僕たちもダンジョン近くの街で装備を改めることにしたのだった。
 立ち並ぶ店のうちの一つに入ったケイトが手渡してきたのは、美しい白いローブ。そんな汚れそうな色のものを着ていたら、ダンジョンで僕が転んだらおしまいだ。
 僕の転ぶ頻度をケイトが知らないわけはないのに、どうしたんだろうか、と震えながら袖を通すと、理由はすぐにわかった。
 これは、ユニラ、という非常に防御力の高い毛に覆われたレアモンスターの毛で編まれた、最高級品だ。僕がいくら転んだところで怪我をしないように、とケイトはこれを選んでくれたのだろう。
 だが……

「この金は、どうやって調達したんだ?」
「また金の話ですか。かわいい顔して、金金金ですね」
「っ……! し、しかし、このローブは、一介の従者が買える値段ではないだろう」
「細かいことはいいんですよ。大人は金を持ってるもんです」

 大人というが、ケイトはまだ二十代半ばのはずだ。こんなにあけすけに話しているが、ケイトは僕の屋敷で働くようになって、まだ三年ほどしか経っていない。
 屋敷の近くで、働き口がないのだと呆然としているのを見かけ、僕が雇ってからの付き合いだ。
 本人は平民だと言っていたが、読み書き、礼儀作法もしっかりしていて頼りになるので、あそこで出会ってよかったな、と思っていた。
 この旅の準備だってそうだ。
 僕は、卒業舞踏会であんなことが起きるなんて予想だにしなかったが、ケイトはおそらく、なにか感じるものがあったのだろう。
 僕が考えもしないようなことに、気が回る。だから、もしものために馬車を用意してくれていたのだと思う。
 本当に頼りになる従者だ。あのとき出会えた偶然は、いまや僕の命を救う出会いとなった。
 だから「荷馬車じゃなくて、せめて馬車にしてくれれば、僕の尻はこんなに痛むことにはならなかったのに」という文句は言うまい。
 そして荷馬車には、僕がおじい様からいただいた年季の入ったトランクが積んであり、その中には、僕が大切にしていたものばかりが入っていた。
 財産はすべて没収と言われていたから、本当はこんなこと許されないはずだが、母上の形見の指輪や、幼いころから大切にしていたクマのぬいぐるみを見たとき、僕は泣きそうになってしまった。
 ケイトと国外追放生活を始めた直後のことを思い、目頭が熱くなったそのとき、ふと、僕は思い出した。
 僕の大切なものは、大体トランクに詰められていたけれど、机に飾っていたピンク色のブタの置物が入っていない。
 僕のお気に入りで、毎日ハンカチで磨いていたことは、ケイトだって知っているはずだ。
 ケイトが「鼻毛のえた、大きな鼻の中年男性が、笑い泣きしながら、紫色のよだれをたらしているように見える」と言って、毛虫でも見るかのような顔をして嫌がって、ことあるごとに「売りましょう」と言ってきたあのブタ。
 たしかにあれは、顔はおもむきのある顔をしているが、希少な宝石と鉱石でできた芸術品で、実は小さな家なら買えるほどの値段がつくのだ。
 そのブタが見当たらない……って、ま、まさか!

「――お前、僕のブタを売ったわけではあるまいな」
「……」

 なんということだ。
 普段、「にやにやしている」か「嫌そうな顔」か、どちらかしかしないケイトが、明らかに「まずい」という顔をして、僕から目をそらした。

「そ、そんな……」

 サアッと僕の体から熱が消え、指先に震えが走った。
 あのブタはたしかに、おじい様にいただいただの、母上が嫁入りの際に持ってきただの、そういった僕に縁があるものというわけではなかった。
 僕が単純に気に入って、うちに出入りしている商人から買い取っただけである。それにケイトは、僕の今後を考えていろいろ準備してくれたのだから、文句を言うのは傲慢だ。
 それはわかる。
 わかっている。
 ……頭ではわかっているのだが、涙がうるっと視界を揺らすのを感じた。
 ケイトが一瞬慌てて、そして「あ!」となにかを思いついたような素ぶりをして、口をひらいた。

「あのブタは、エマ様のお命をお守りするために、身を挺してくれたのです」
「おい、美談にしてまとめようとしたって、そうはいかないからな」
「チッ」

 明らかに舌打ちが聞こえた。
 たしかに、僕はもう貴族ではないけれど、そんな態度を取らなくたっていいと思う。ケイトがあのブタを嫌いなことは知っていたが、僕はあれを大切にしていたのだ。
 僕の背中はだんだん丸くなり、膝が曲がり、最終的に、地面にうずくまった。ブタを売られたという喪失感よりも、ケイトに舌打ちをされたという事実が、僕の胃をじわじわと痛めつけていた。
 剥き出しの地面から土の匂いがする。地面につきそうなほど小さく丸くなっている僕の前に、ケイトは例の物を取り出して言った。

「メロンプリン味です」
「め、メロンプリンだと!」

 なんということだ。
 僕の好物の二大巨頭である『メロン』と『プリン』のコンビネーションだと。そんな夢のような食べ物が存在していいのだろうか。いや、いい。いいに決まっている。僕が許す。いや、許すだなんておこがましい。
 存在してくれてありがとう。ありがとう。
「扱いが楽な人でよかった」と、ケイトが呆れた顔でため息をついていたが、そんなことはまったく気にならなかった。
 ――メロンとプリンは、偉大である。


          ◇ ◇ ◇


「こ、これが、有名なペルケ王国のダンジョン」

 翌朝、僕とケイトは、ついにダンジョンの前に立っていた。
 崖下にぽっかりと空いた岩肌がむき出しの入り口は、一見なんの変哲もない洞穴だ。
 看板にそう書かれていなければ、大きな洞穴だな、と思い、通りすぎてしまうほどにありふれた外観だった。かなり早朝に訪れたので、人影も見当たらない。
 僕のダンジョン歴は、魔法学園の実習で一度行ったくらいで、ほぼゼロと言っていい。ケイトだって、朝から晩まで毎日僕につきっきりで従者をしていたことを考えると、ダンジョン経験が豊富であるとは思えなかった。
 装備を整えるには整えたが、僕とケイトはこうして、ほぼダンジョン初体験同士で、巨大ダンジョンに挑むことになってしまった。
 一歩、ダンジョンの土を踏みしめてふと思う。

「ケイト。よく考えてみれば、三階層程度のものから試したほうが、よかったのではないか」
「まだ一歩しか進んでないですよ。エマ様は、とんだ腰ぬけですね」

 ……そ、そんな言い方しなくていいと思う。
 ケイトの中での僕の評価がどんどん下がっていく。下がりに下がった僕の評価は、いまや、『尻を痛めたがめついへっぽこ』の上に、腰ぬけである。
 まだ、美しい朝の光が木々を照らしているというのに、僕の心は、月のない夜の闇のように真っ黒に染まった。
 もしかして、また棒つきの飴を手渡されるのではないか、とちらりとケイトを覗き見ると、呆れた顔で言われた。

「食べながら歩くと怪我するんで、飴はあげませんよ」

 彼の言いようは子どもに対する注意でしかなかった。
 僕はもう王立魔法学園を卒業した十八歳である。決して、棒つき飴などで喜ぶこともなければ、それがほしいと従者のことを覗き見ることも、まして、その棒つき飴を食べながら歩き、すっ転んで怪我をするなんてこともないはずである。
 あまりの情けなさに僕の視界が涙でにじんだ。
 ハアというため息とともに、ケイトが、ガシガシと髪の刈り上げられた部分をかく。

「エマ様。とにかく行きますよ。宿屋に戻ったら飴あげますから」
「僕は子どもじゃ……」
「メロン『ショート』プリン味ですよ」

 なななななんということだ!
 僕の好物の二大巨頭『メロン』と『プリン』だけでは飽き足らず、それに『ショートケーキ』まで足したというのか。そんな想像を絶する食べ物が、この世に存在していただなんて……
 僕は十八年間、一体なにをしていたというのだ。

(い、一体、どんな味がするのだろうか……)

 恐ろしい。もはや、その食べ物は恐ろしい食べ物に違いない。
 一口食べたら、僕はもう、その棒つき飴を口から離すことができないのではあるまいか。他の食べ物が食べられなくなったらどうしよう。

「どうして青ざめてるんですか。もう、いい加減、二歩目を踏み出してください」

 心底呆れたような声でそう言ったケイトが、「飴は溶けてなくなるから大丈夫ですよ」と僕の心を読んだかのようなことを続けたので、僕はようやく三歩目を踏み出した。
 ひんやりとした洞窟の空気。
 少し湿っているような気がするのは、壁面を水がしたたっているからだろう。ぼんやりとヒカリゴケが岩肌を照らす中を進むと、大きな石造りの重厚な扉が現れた。
 僕が、ごくっと喉を鳴らすと、ギギギと低い音をたてて、扉がひらいたのだった。


「よおっし!」

 僕は、スライムにファイアを打ち込み、高らかに勝利の雄叫おたけびをあげた。
 このダンジョンはただの洞穴に見えた外側の印象に反して、重い扉の奥は石畳と煉瓦れんがの壁で作られた迷路のようになっている。
 この階層はスライムやゴブリンといった弱い敵が多く、初心者の僕たちには、安心できる階層なのだ。
 そんな中を、僕たちは魔法を使い、次々と敵を倒しながら進んでいた。
 この世界の魔法は、火・水・雷・風・土・光・闇の七元素からできている。練習すれば使えるようになる、火・水・雷・風・土とは違い、光魔法と闇魔法は生まれつきの適性が大きく関係し、使える者は限られている。
 特段珍しいというわけではないが、使える者は一目置かれたりする。
 僕は隣を歩くケイトを見ながら、ふと口にした。

「ケイトはどうして、そんなに高度な闇魔法が使えるんだ?」
「え?」

 魔法学園を卒業した生徒だとしても、ゴライアスのような大型のモンスターをあっさり討伐できるのは、かなりの魔法の使い手に限られる。
 僕の従者になるまでは市井しせいで暮らしていたのだろうから、魔法を勉強していたとも思えず、僕は不思議に思っていた。
 ケイトの答えを待っていると、じっと見つめられて、僕は目を瞬く。
 ケイトは考えるような素ぶりをして、それから、不敵な笑みを浮かべた。

「――秘密」
「……っ」

 僕はなぜか顔に熱が集まっていくのを感じながら、ぷいっと顔を背けた。
 なぜ魔法のことを質問しただけで、僕の胸はどきどきとしているのだろうか。腑に落ちないまま頬を膨らませていると、ケイトが困ったように笑いながら話し始める。

「ま、オレもよくわかってないんですよ」

 ケイトがそう言うのを聞き、僕は首をかしげた。

(よくわかっていない、とはどういうことだ?)

 たしかに、突然僕の従者になってしまったケイトである。
 適性があるといえども、きちんと勉強する機会に恵まれなかったのかもしれない。僕は王立魔法学園の卒業生として、そんなケイトを応援してあげたいというあたたかい気持ちになった。

「そうか。まあ、これから慣れていけばいいだろう」
「さっきからファイアしか打ってないのに、ずいぶんと先輩風吹かせますね」

 そ、そんな言い方ないと思う。
 僕だって、魔法学園を卒業しているんだ。
 剣が下手すぎるせいで、首席はアルフレッドに譲ってしまったが、剣術の授業さえなければ、それなりの成績を取っている。
 僕の背中は曲がり、膝が曲がり、気づけば僕は、いつもの丸まった姿勢になっていた。
 しかしその先はいつもと違った。
 丸まった拍子によろけて、ダンジョンの壁の煉瓦れんがに手をついてしまったのだ。
 ――そのとき。

(……ん?)

 僕が手をついた煉瓦れんがが、薄緑色に光ったような気がして、それに目をやる。

「あれ? そこ、なんかっ」


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