悪役令息の僕とツレない従者の、愛しい世界の歩き方

ばつ森⚡️8/22新刊

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1巻

1-1

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 僕の足が走り出した。
 口からひぐっと音が出て、やっと意識が追いついて、僕は僕自身が走り出したことに気がついた。
 信じられない。まさかあんなことが起きるだなんて。
 踏み出したそばから、廊下が崩れてくような感覚がして、必死で走り続ける。
 僕の後ろには、閉ざされた金縁きんぶち豪奢ごうしゃな扉があって、その中には僕のすべてが詰まっていた。

「ふびっ」

 卒業舞踏会のおこなわれているホールへ繋がる、長い廊下の天井には、この国の歴史を描いた美しい絵が掲げてある。
 大きな窓にかかる青いカーテンには、寝ぼけたソルボン先生が魔法で焦がした跡がある。いつも通るたびに笑っちゃったその跡も、もう、見ることはない。

(……嘘)

 そして、だんだんと、理解する。
 ぐっと足を踏み込むと、僕のとうもろこし色の髪がなびいた。唇を噛みしめながらうつむくと、海色の瞳から涙がこぼれた。

(婚約破棄――?)

 さっきまで婚約者だったこの国の王子――アルフレッド。
 自信たっぷりな彼の黄金色の髪と、彼が治めるきらきらしたこの国の未来が頭に浮かぶ。その隣には僕が立つんだとばっかり思ってたけど、どうやらそうじゃなくなったらしい。
 僕に婚約破棄を告げたアルフレッドの腕には、ちょこんとたおやかな手が添えられていた。
救世きゅうせい神子みこ』として神殿が召喚した黒髪の少年――マシロ。突然異世界にやってきて戸惑う彼に、アルフレッドは優しくこの世界のことを教えてあげたのだ。
 マシロに見せるような彼の笑顔を、最後に見たのはいつだろうと考えてみたら、それはとても遠い昔のことだった。恋人のように寄り添う二人を見ると、どっちが邪魔者かなんて明らかだ。

(……なんで、気がつかなかったんだろう)

 てっきり一緒に国を支えていくんだと思ってた。
 でも、今さら気づいたところでもう遅かった。
 というか、僕はこの国に繁栄をもたらすと予言された神子みこに、子どもっぽい嫌がらせまでしてしまった。まずい。国を危険にさらした罪は国家反逆罪だろう。
 アルフレッドの言葉が頭に浮かび、僕はぐぐっと奥歯を噛みしめた。
 ――エマニュエル・レーフクヴィスト。我が婚約者たるお前に与えていた特権を剥奪し、お前個人の財産は没収。国外追放にする!
 国のために頑張ってきたのに、こんなことになるなんて。
 ほんの少し前、僕はその場で倒れそうなのをぐっとこらえて一礼し、背筋を伸ばして卒業舞踏会をあとにした。だけど、会場の扉を閉めた途端に、そんな虚勢はぺしょっとつぶれた。

「っぐ」

 走っているうちに、月明かりの差す廊下が、海の底みたいにゆらゆら揺れる。慣れ親しんだ学びを、いつもの感覚だけを頼りに走る。
 青い絨毯じゅうたんの敷かれた階段を降り、校舎の外につながる大きな扉にぶつかって、転がるように飛び出した。中庭の芝生を走ってるせいで、新調した白い靴は一瞬で泥だらけだ。
 足がもつれ、もう何度も転びそうになってる。誰かが今の僕を見たら、ワイルドボアが命からがら逃げてる姿を思い浮かべるかもしれない。
 手入れの行き届いた庭木の間から、外界と学園を隔てる金細工の大きなさくが見えてきたとき、未練がましく振り返ってしまった。
 夜の中に、白い建物が一つだけ、ぽわんと浮かびあがっている。
 あのホールは、ぜいを尽くした豪華な作りをしている。天井に浮かぶ大きなシャンデリアは、光魔法によって夢のように輝いて、深い青色の絨毯じゅうたんは、まるで夜空みたいに広がる。僕はあの場所で踊るたび、星にでもなったような気持ちになったのだ。

「ひぐっ」

 戸惑う学園の門兵の横を抜け、僕は街の石畳を踏みしめる。下ばっかり見てるから、王都の人たちの様子はわからない。
 でも明らかに貴族だってわかる白いフロックコートを着て、必死に走っている僕は、きっとすごく滑稽に見えているだろう。
 大通りを抜け狭い路地を通り、ただまっすぐに走る。目的地なんてない。

「っび」

 自分の泣き方がこんなにみじめったらしいものだったなんて、今日の今日まで知らなかった。それでも次から次へあふれる涙は、止まらない。
 ――だって。
 ――だって!!
 いつの間にか、目の前には水たまりがあった。ちゃんと視界には入ったが、僕の注意力なんてものは、もうとっくになくなってしまっていて、僕は水たまりを躊躇ちゅうちょなく踏み、そのまま滑った。
 視界が傾き、体が宙に浮いた。僕の目は路地裏の汚い壁を映し、民家の軒下を映し、綺麗な星空を映した。
 ドンッと鈍い音を立てて、僕の背中が地面が打ちつけられるまでの間、いろいろなことが走馬灯のように、脳裏をかけ巡った。
 ――だって、だって……

「ずぎだっだんだよおおおおおお」


          ◇ ◇ ◇


「また転んでるんですか?」
「――え?」

 路地裏で夜空をあおいだままぐずぐずと泣いていた僕の前に、見知った顔が現れた。
 気だるそうな、色っぽい夜空色の瞳と、男らしい厚みのある唇。無造作に流している黒髪は、額にかかる一筋まで屋敷の侍女の心を揺らす。仕事はなんでもそつなくこなし、いつも文句を言いながらも僕のそばにいる。
 相変わらずつまらなそうな顔で見下ろしているのは、僕の従者だった。

「ケイト……」
「ほら、鼻水拭いて。行きますよ。どうせ国外追放とか言われたんでしょう? だから、あんな子どもっぽい嫌がらせ、やめとけって言ったのに」

 ケイトが差し出したハンカチで、チーンと鼻をかむ。
 たしかに、僕がマシロに嫌がらせをしようとしたときに、「やめといたほうがいいですよ」と何度かおざなりに注意されたのを思い出した。止めるならもっとちゃんと止めてくれればよかったのに。
 でも、世界中が敵のような気がしていた今、こうして僕の前にいるケイトを見て、びっくりするほど安心していた。

「け、ケイト……ひぐっぐびっ い、一緒に、ぎでぐれるのか?」
「……泣き方えげつないですね」

 僕がずびずび鼻をすすっているのを見て、ケイトは牛乳を拭いた雑巾ぞうきんを部屋で見つけたときみたいな顔をした。そして、ため息をついた。

「オレがいないと困るでしょ? 夜トイレに行くのだって、怖がってるのに」
「そ、そんなわけあるか!!」

 そんな子どもみたいなこと、と憤慨すると、水たまりがパシャンと音を立てる。なんだか自分が本当に駄々をこねている子どもみたいな気持ちになった。うっ、と動きを止めてしまった僕を見て、ケイトが肩をすくめる。

「ほら、どうするんですか? 行くの? 行かないの?」

 答えなんてわかっていて、にやにや僕を見ているケイトを、キッと睨む。
 それでも僕は、「行くよ」と言って差し出された手に、自分の手を重ねた。
 本人の冷めきった表情とは裏腹に、あたたかく大きな手だ。ケイトの手は綺麗だな、といつも思っていた。
 ぐいっと引かれて、起こされる。
 ケイトは流れるような動作で、泥だらけの僕をブランケットでぐるぐる巻きにすると、そばにあった荷馬車の御者ぎょしゃ席に座らせた。
 そんな場所に座ったことなんてなかったけれど、隣にいる男が余裕綽々よゆうしゃくしゃくな笑みを浮かべているのを見て、なんだか新しいなにかが始まるような気持ちになった。
 だけど。

「芋虫みたいに転げ落ちないでくださいよ」
「お、落ちるわけないだろ!」

 訂正。にやにやした顔で僕を見ている男に、イラッとした。
 とにもかくにもこうして、いけすかない従者とともに、僕の国外追放生活は始まったのだった。


「だ、ダンジョンに挑む?」

 ケイトがそう言い出したのは、馬車で数日揺られ、隣国との国境を越えたあとだった。
 理由はよくわからないが「今はとにかく距離を稼ぎたいんで」と言われて、馬車で出せるであろう最大の速度で国境を越えた。
 僕はこの国から出たことがなかったから、正直に言うと胸が高鳴っていた。だが、まさか荷馬車の御者ぎょしゃ席に座って出国することになるとは、思わなかった。
 国境の兵士たちにはまだ婚約破棄のことは伝わっていないようで、ケイトが用意してくれた平民の格好をしている僕が「秘密の旅行なんだ」と言って貴族の身分証を見せても、にこやかに通してもらえてほっとした。
 何百年も鎮座する石造りの国境の壁は分厚く、もうこの国に戻ることはできないという現実感が、急にのしかかってきた。
 父や屋敷の者たち、お世話になった恩師たちの顔が浮かび、やるせない気持ちになってしまう。国境の壁の中に入ると、暗がりが永遠に続くような気がして不安が徐々に大きくなっていく。
 思わず隣を見ると、相変わらず無愛想な顔をしているケイトが「見て」とでも言うように、指で上を示した。その途端、視界がひらけた。

「……わあ!」

 ――次の瞬間、きらめく世界に僕たちはいた。
 無数に広がる星たちが、暗闇の中にいる僕のことを優しく照らしていた。キンと冷えた三月の空気は、美しい星の光をそのまま伝えてくれる。
 目を輝かせて空を見ていると、ケイトが珍しく優しい声で呟いた。

「大丈夫。オレがいますから」
「ケイト……」

 ケイトはすぐに前を向いてしまったけど、また涙があふれそうになった。
 ガタゴトと揺れる馬車の音が響く。しばらくして、「邪魔なんで、後ろで寝ててもいいですよ」と言われムッとした僕は、意地を張ってケイトの隣でずっと、その魔法みたいな空を眺めていた。
 そんなこんなで、連日の馬車移動で尻を痛め、ケイトに哀れむような目で見られたこと以外は何事もなく、順調に国外生活を始めていた。
 そして、しばらく揺られたあと、僕の頭に一つの疑問が浮かんだ。

「ケイト。僕たちは一体どこに向かっているんだ? 当てはあるのか?」
「特にありませんね」

 なんと、当てはないようだ。僕は困惑した。
 僕は蝶よ花よと育てられてきた生粋きっすいの貴族――だった。
 男でありながら、アルフレッドの婚約者に選出された僕は、王妃教育という名目で、ありとあらゆる教養を学ぶことに時間を費やしていた。
 算術や歴史、語学といった学問はもちろんのこと、各国の作法、ダンス、社交。国内外の貴族の名前だけでなく、顔、役職、生い立ち、隣国のハゲた外相の頭の毛の数まで覚えさせられる勢いで、叩きこまれた。今やそれらはなんの役にも立ちそうにはないが、とにかく、僕は世俗的なことから遠ざけられてきた元貴族なのだ。
 その僕が世界に丸裸で放り出されたというのに、唯一頼っている平民の従者が、まさかのノープランだなんて。

「か、金はあるのか」
「行き先を聞いた直後に金の話だなんて、意外とがめついですね。さすがは元貴族」

 ……そ、そんな言い方しなくていいと思う。
 しかし、元貴族の僕にだって、当てもない旅なのだとすれば金が必要なことくらいわかる。
 その心配は、現実的で建設的である、と讃えられるべきであって、『がめつい』だなんて悪徳商人のように言われるのは腑に落ちない。
 僕がムッとしていると、「ダンジョンで金を稼ぎましょう」と、ケイトが言い出した。「は?」と思わず聞き返した僕の声は、心なしか弾んでいた。
 ――だが。

「エマ様は魔法使えますよね? 剣はへっぽこだけど」
「おい」

 だから、そんな言い方しなくてもいいと思う。
 ケイトに『馬車の揺れでお尻を痛めた、がめついへっぽこ』だと思われていることが判明したショックで、「金がないなら、ダンジョンに挑もう」という、とても晴れやかで前向きな気持ちが、しぼんで消えた。
 旅を始めてからというもの、このいけすかない従者がバカスカ投げてくる弾で、僕の心は穴だらけになっている。どうやら僕は打たれ弱いのかもしれない。
 身体を丸くしてねていると、ケイトが棒つきの飴を差し出した。

「メロン味ですよ」
「本当か!」

 しぼんでいた「ダンジョンへ挑もう」という前向きな気持ちが、浮上する。
 王妃教育でへこたれていたときから、亡くなった母上が大好きだったメロンには、いつも救われていた。人を幸せにできる果実だと思っている。
 顔を緩ませてメロン味を堪能する僕を、ケイトが白い目で見ていることも、今はまったく気にならない。
 ――メロンは偉大である。


          ◇ ◇ ◇


「へえー。じゃあ、は本当に神子みこを選んだんですか」

 早朝の爽やかな空気の中、ケイトがつまらなそうに呟いた。
 僕たちは、隣国ペルケ王国のダンジョンを目指し、国境を越えてしばらく進んだ小さな湖で休んでいた。そこかしこから聞こえてくる鳥たちのさえずりは、僕の心を穏やかにさせてくれる。
 木々に囲まれた、見渡せるくらいの湖で、水の中からも木がえていて幻想的だ。
 洗濯した服を木の枝に丁寧に干している僕の従者をぼんやりと眺めながら、僕の尻は今、深刻な問題を抱えていた。
 僕はなにも問題なんてありませんよといった顔で、ごくごく自然に木に寄りかかって立っている。
「座ってていいですよ?」という優しい従者の心づかいがつらい。
 ちなみにケイトが『あの男』と言うときは、大抵がアルフレッドのことを指している。ケイトはアルフレッドのことを好きではないようで、名前を口にすることはない。
 一国の王子であるのだから、本来は主人である僕なんかよりも、よっぽどうやまわなくてはいけない相手である。だが、ケイトは僕の従者になったときからずっと、その姿勢を崩さないのだ。
 思わず、最後に見たアルフレッドの様子を思い出し、幼いころから一緒に育ったのにな……と、胸の内にじわりと痛みが広がった。さすがにつらいと思いながら、そっと胸をでたとき、ふと気がついた。
 先ほどから妙に上機嫌で、によによと妙な笑いを浮かべて、僕の白いフロックコートを干している従者を見て思う。
 ……というか。

「なんでお前はそんなに嬉しそうなんだ」
「え?」

 僕の声を聞き、ケイトがきょとんした顔で、僕を見た。
 だが、すぐケイトの顔から笑顔が消え、嫌そうな声で言った。

「別に嬉しそうになんてしてませんよ。それより、そんなとこでぼけっとしてるなら、湖で頭でも冷やしたらどうですか」

 そ、そんな言い方ないと思う。
 まださほど暖かくないこの時期に、湖で水浴びをしろというのだろうか。ぽかんとケイトを見ていたら、急にいじわるそうな笑顔を浮かべて僕を湖の岸まで押す。
 湖は近づくと底が見えるほどに、水が透き通っていた。
 日の光を浴びて湖面がきらきらと光る。もしかしてケイトは、僕にこの景色を見せて元気を出させようとしてくれたのかもしれない。
 それなら感想を言わなくては、と口をひらいた途端――後ろからにゅっとケイトの腕が伸びてきた。そして、器用な指がするすると僕のシャツのボタンを外していく。

「綺麗な景色だ――え!? ……な、なんだケイト!!」

 慌てているうちに、パサリとシャツが落ち、流れるようにズボンまで落とされた。
 そして――湖に突きとばされた。

「うわっ……お、おい」

 バシャンと大きな水音が響き、僕は浅瀬に手をついた。水の冷たさに驚きながら顔を上げると、いつの間にか服を脱いでいたケイトの綺麗な腹筋が目の前にあって、僕はぱちぱちと瞬きをした。

「服の次はエマ様の番ですよ。湖で丸ごと洗って差しあげます」

 そう言うと、ケイトは僕の手をぐっと掴んでどんどん湖の中に進んでいった。比較的あたたかな天気とはいえ今はまだ三月だ。水温は低い。

「あはは。びしょびしょですね。さすがに冷たいな」
「……け、ケイトがやったんだろ!」
「えー? 昨日は風呂に入れなかったからいいでしょ」

 はしゃいでいるケイトが珍しくて、それ以上文句は出てこなかった。振り返ったケイトがふんわりと微笑んだ。

「な、なに……」

 正直に言うと、ケイトの半裸をはじめて見た僕は、目のやり場に困っていた。
 ずっと僕に付いていたのに、まるで騎士のように鍛えぬかれたケイトの体と、自分の体の違いに驚いてしまう。直視できないでいると、ケイトが不思議そうに僕を見た。

「え、なんですか?」
「……あ、アルフレッドの肌だって見たことないんだ。あまり他人の体を見るのには慣れてな……」

 そう言いかけたとき、不意に両頬が包まれた。え? と顔をあげると、すぐ近くにケイトの顔があった。
 自分の頬に重ねられたケイトの手の温度が伝わり、ぶわっと顔が熱くなる。思わずケイトの手首を掴むが、びくともしない。
 自分のことを見つめる夜空色の瞳には、水色に輝く湖面と僕だけが映っていた。ケイトが、ゆっくりと話し出す。

「エマ様」
「な、なんだ!」

 思わず眉間に皺を寄せた僕が次の言葉を待っていると、ケイトが無表情のまま呟いた。

「――あんな男のことなんて、早く忘れちゃえばいいのに」
「……え?」

 目を瞬いた僕を見て、ケイトが、ふっと笑う。そして僕の耳元に口を近づけて、もう一度ささやいた。

「オレが――忘れさせてあげましょうか」
「……っっ」

 その声の熱っぽさに、肩がビクッとして、胸の中がさざめいた。どっどっ、と心臓の音が速くなる。
 少し屈んだまま目の前で止まっている、真剣な顔のケイトから目が離せなかった。
 しかしすぐに、ケイトは意地悪そうに目を細め、口角を上げた。

「……なんて、冗談ですよ。エマ様、変な顔」

 そこで僕は、はくはくと口を開閉しながら、ようやくからかわれたことを理解した。
「忘れたほうがいいと思うのはほんとですけどね」と言ってきたので、ムッとして文句を言おうと思った――そのときだった。
 静寂の中にあった湖で大きな波音がした。
 とてつもない音のしたほうへ目をやると、見たこともないほどの巨大な魚が跳びあがっていた。
 陽の光に照らされ、キラキラと輝くうろこの一枚一枚が、僕の頭ほどの大きさに見える。突き出した下顎したあごに並ぶ牙は、まるで天を刺すやりのように太く長い。ギョロリとした無機質な赤い瞳と目があったような気がして、僕は凍りついた。

「ま、まさか……!」

 僕たちの前に姿を現したのは、湖で水浴びをする旅人を湖の中に引きずり込むという噂の、巨大魚モンスター、ゴライアスだった。
 ヒヤリと悪寒が背筋を走りぬけた。僕たちはなんの武器も持っていない。魔法なら武器がなくても使えるが、僕もケイトもすっぽり湖に浸かってしまっている。今雷魔法を使ったら、自分たちにも被害が出てしまうだろう。

「た、大変だケイト……あれは!」

 なにか魔法を準備しなければ、と焦っていると、隣にいる従者の低い声が聞こえた。

「やっと出たか……ゴライアス」
「へ?」

 学園で講習を受けてないケイトは、きっとモンスターに怯えているはずだと心配した僕を、ケイトは振り返ることはなかった。そして、驚いたことに、ケイトははっきりこう言ったのだ。

「食べましょう」

 ――は?

「あれをやっつけたら、朝飯は焼き魚ですね。よかった」
「よかった!?」

 想像していた反応と違うケイトに驚いている間にも、ゴライアスは大きな水飛沫しぶきを立てて、ものすごいスピードで突進してきていた。

(まずい。水中で魚系のモンスターと戦うのは完全に不利だ……!)

 ケイトがなにを考えているのかはわからないが、とにかくなにか魔法を打ってゴライアスを倒さねば、と身構えた瞬間だった。
 ケイトの腕が僕を守るように、僕の前を遮った。同時に視界の端に、黒いもやのようなものを捉え、思わず僕はケイトの顔を凝視した。

「え!」

 ケイトの左手の中に、ぐるぐると渦巻く黒球が出現したのは一瞬だった。シュウウウと鋭い風のような音を立てて黒い軌跡を描き、その黒球がどんどん収縮する。
 その直後、ピンッと指先で弾かれるかのように、黒球が凄まじい速さでゴライアスへ向かって行った。黒球の勢いがとんでもなく速いせいで、黒球が通った跡に高い水飛沫しぶきが立つ。
 少ししてドンッという音がしたかと思うと、ゴライアスが空中に投げ出された。

「ええッ!?」

 放り出されたゴライアスは、突如現れた黒い雷に撃たれて、空中に浮いたまま痙攣けいれんする。
 僕など見向きもせず、ケイトはまるで屋敷でくつろいでいるかのような口調で話しだした。

「レーフクヴィスト家の使用人は、みんな朝は忙しいんです」
「……は?」
「厨房の端にはパンのどっさり入ったバスケットが置いてあって」

 淡々と語り続けるケイトを見て、僕はもしかして、遠い異世界にでも飛ばされてしまったのかもしれないと思い始めていた。
 空中で黒い電撃に打たれているゴライアスと、パンの話を続けるケイトが、同じ世界にいるとは思えなかったからだ。
 僕はぽかんとしたまま、ゴライアスとケイトを交互に見た。

「そのバスケットのパンを、作業の合間につまんで食べるんですよ」
「け、けい……」

 ケイトが話している間にも、プスプスと魚の焼ける香ばしい匂いがしてくる。
 雷撃を与えていた黒い球体が、ゴライアスごと僕たちのいるほうへふわふわと飛んできて、僕の服が干してある木の近くに着地した。
 呆然とゴライアスを見つめていた僕に、にっこりとケイトが微笑んだ。

「ずっと、朝は焼き魚が食べたいなって思ってたんです。パンと一緒に」
「パンと、一緒に……」

 混乱した僕は、オウムのように繰り返した。
「じゃ、食料も手に入ったし、朝ごはんにしましょ」と、ケイトは再度僕の手を引き、ざぶざぶと湖の中を進み、先ほどの場所へ戻った。

「お、お前……今の、魔法は……」

 ――一体なんだ?
 そんな疑問を結局口に出すことはなかった。
「あ」と言ったケイトが、どこから取り出したのか石鹸を泡立て、わしゃわしゃと僕の髪を洗い始めたからだ。そして、洗い終えるとさっさと湖岸に上がってしまった。
 石鹼を落とすために冷たい水を頭から浴びて、僕は少しだけ冷静になった。この雑な扱いには、思うところがあった。

(せっかくの魚が冷めるのが嫌で、急いでいる……)

 もはや僕の中で、巨大魚モンスター・ゴライアスは『食用魚』という位置づけになっていた。
 のそのそと岸に上がると、一体どこから調達したのかパンとサラダが大きな岩の上に用意されていた。僕は、白目を剥いて横たわる巨大な魚を見て、恐ろしくも思ってしまった。
 ――朝ごはんの準備ができたんだな、と。
 ケイトが用意してくれた新しい服を着て、岩に腰を下ろす。
 用意されたフォークを取り、ゴライアスの身をおそるおそる口に入れようとしたとき、ケイトが小さな声で言った。

「大丈夫。毒なんて入ってませんよ」

 その一言で、「あ……」と思った。
 アルフレッドの婚約者になってから、僕はあたたかな物を食べたことがなかった。いつも毒味され、冷めた物を食べていたのだ。
 しかし今、目の前にあるのはあつあつの焼き魚で、さらにケイトがバターを乗せて、香辛料を振ってくれたおかげで、ふわりとおいしそうな匂いが漂い、ごくっと喉が鳴った。
 僕は逡巡しゅんじゅんしたのち、その身を口に放り込んだ。

「……おいしい」

 あんなに恐ろしい見た目だったのに、口の中に入れるとふんわりと柔らくて、驚きを隠せなかった。
 つい数日前まで公爵令息だった僕が、今は国外に追放され、ゴライアスを食べているだなんて、誰も知らないだろう。
 そう思ったら、なんだか笑えてきてしまった。
 卒業舞踏会の夜に、あんなに泣いていたのが信じられない。

(たしかに……こういうのは、ちょっと、楽しいかもしれない……)

 僕は、もぐもぐと口を動かしながら、そう思った。


          ◇ ◇ ◇


「なんてことをしてくれたんだ!」

 ヴァールストレーム王国の第一王子、アルフレッド・ヴァールストレームは、朝早く玉座の間に呼び出されていた。
 大声で叱りつけられ、アルフレッドはいつもは自信に満ちているエメラルド色の目を瞬かせた。
 卒業舞踏会でエマニュエルに婚約破棄をつきつけ、これでようやく肩の荷が下りたと思った矢先のことだった。
 てっきり卒業祝いの言葉か、あるいはマシロとの婚約についての話だろうと思い、晴れやかな気持ちで国王であり父でもある、ギルバート・ヴァールストレームに会いにきたのだ。


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kieiku
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