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01 とある町人のエピローグ
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※※この話は、非人道的な描写を含みます。地雷回避は自己責任で!
「――嘘だろ」
咄嗟にオリバーの口をついて出た言葉は、風音みたいにすかすかだった。自分が尻もちをついたことにも気づかずに、目の前に広がる信じられない光景を凝視した。
オリバーの前には鮮やかな紫と黒の縞模様。
その毒々しい色合いの毛が生えた、自分の胴体よりも太い足――それが8本。
それから、ギラギラとした濁った黄色の目玉――なんとそれが、8個。
カサリ、カサリ、と藁をこするような独特の音。その音がゆっくり、ゆっくりと近づいてきている。大きさで言えば、おそらく〝 キングスパイダー〟。でも、こんな変異種は見たことも聞いたこともない。
――だが。
こんな小さな村の、小さな森の、なんでもない洞穴に、住んでいるようなモンスターではないということだけは、しがない町人のオリバーにもわかった。
明らかに異常事態だった。
フシューフシューと空気が漏れるような音がして、生あたたかい息が正面から吹きかけられると、むわっと腐った卵のような匂いが広がった。目の前の巨大な蜘蛛が、自分という獲物に狙いを定めたのだとオリバーは理解した。
むき出しの岩肌に尻もちをついたまま、状況を理解できないオリバーの頭は現実から目を背けるように、さきほどまでそこにあったはずのささやかな日常を思い出していた。
そばかすのある平凡な顔に、どこにでもある茶色の髪、焦げ茶色の瞳。
デフォルトで下がっている眉尻に、ぼんやりとした印象の目。オリバーは自分で鏡を見ても「弱そー」と思うような、しょぼい外見をした普通の青年であった。
オリバーは小さな町の役場で、毎日毎日なぜか自分のところに降って来る雑用の山を片付けながら、上役に今日も今日とてやっかいごとを押しつけられた。
終わらせなくちゃいけない書類が山積みだっていうのに、なんで隣で暇そうにしているやつに頼まないんだよ、と内心ため息をつきながらも、貴族の男に文句も言えない。たとえそれが破産寸前の貴族でもだ。
そうして、働いている町の小さな役場から税収を確認しに、近隣の小さな村――アッカ村まで行くことになったのだった。
そして、不運にもそこでもオリバーは雑用を引き受けることになる。
ちょっと気になることがあるからと「森の中を調べてくれないか」と村長に頼まれ、断ったのにねばられ、渋々森へと足を踏み入れた。断ったのにだ。それがオリバーである。
なんの変哲もない森だとオリバーは思った。
別段変わった様子もなく、強いモンスターの気配なんてまったくなかったし、動物たちも平和そうに見えた。わざわざ自分に様子を見に行かせるだなんて、どんな事態が広がってるのかと思っていたが杞憂だった。
そろそろ帰ろうとオリバーが思ったとき、小さな洞穴を見つけ、なんとなく覗いてみた。
――それが間違いだった。
いや、もうどこからが間違いだったのかはわからない。
不運だ不運だとは感じていたが、毎日そこそこ頑張って生きてきたのになー、とオリバーは思った。
恐怖で体がぴくりとも動かせないわりに、頭は異常に冷静だった。
(あの盗賊のナイフのような牙で噛みつかれて、血の一滴まで吸い尽くされんだろうな……)
そんなことを思い、オリバーは目を閉じた。
――しかし。衝撃は襲ってこなかったが、代わりに声が聞こえたのはそのときだった。
規則的な蜘蛛の息づかいだけがただ聞こえる、静かな洞穴に声が響いた。
人間の――声だ。
「――悪いな。まだ『準備』できてないんだ」
キングスパイダーの後ろから聞こえたのは、この状況にまったくそぐわないあっけらかんとした声色。
動きを止めたキングスパイダーの横から、カツカツと漆黒の衣装につつまれた少年が現れた。
――子ども?
艶やかな黒髪、透き通るような煌めきさえある美しい双眸、忌み嫌われる『黒』の色を持ちながら、その姿はまるで天使のような美しさだった。雪のように白い頬はふっくらとまだ幼さを残していて、成人していないようにも見える。
少年はまるで犬でも撫でるかのように、キングスパイダーの脚の毛をふさふさとなでながら、反応をすることすらできないオリバーを不思議そうに見ていた。
――〝 天使〟……と思いかけて、オリバーはすぐに思い直した。
「あ、――悪魔」
どこか気だるそうな、眠そうな顔をしていた少年は一瞬きょとんとした顔で動きを止めると、チッと大きく舌打ちをした。
「初対面の人間に対して随分だな」
「――あ、い、いえ、ちがっ……違くて」
「悪魔ね。まーどうなんだろ?じゃあ、お前。ちょうどいいし――」
あ。――これ知ってる、とオリバーは思った。
だいたいオリバーのことを使い倒そうとするやつは、はじめこんな顔をする。嫌なやつっていうのはどこにでもいて、大概オリバーのことを見下して、いろんなことを押しつけてくる。ちょうどいいやつを見つけた、都合が良さそうだ、弱そー、周囲はだいたいオリバーに対してこんな顔をする。自分みたいなやつは誰かに使い潰される人生なんだろうなあ……と、なかば諦めのような気持ちで生きてきたのはたしかだ。
だけどこれは、絶対に、だめなやつだ。
オリバーの本能は悟った。
今までのささやかだけど、幸せだった普通の日常。いつか自分みたいな男でもいいと言ってくれる、素朴な村娘がいたら結婚したいなあ、と願っていた夢。
それらはもはや、――風前の灯火だということを。
からからに乾いていたはずのオリバーの喉が、ごくりと鳴った。
悪魔は微笑みながら言った。
「死ぬまでこきつかってやる」
放たれた残酷な言葉に反して、彼の姿は壮絶なまでに美しく、儚げですらあった。悪魔に魅入られた、という言葉がオリバーの頭に浮かんだ。
とにかく、オリバーの人生は、命は、――。
こうして〝 悪魔〟に握られたのだった。
「――嘘だろ」
咄嗟にオリバーの口をついて出た言葉は、風音みたいにすかすかだった。自分が尻もちをついたことにも気づかずに、目の前に広がる信じられない光景を凝視した。
オリバーの前には鮮やかな紫と黒の縞模様。
その毒々しい色合いの毛が生えた、自分の胴体よりも太い足――それが8本。
それから、ギラギラとした濁った黄色の目玉――なんとそれが、8個。
カサリ、カサリ、と藁をこするような独特の音。その音がゆっくり、ゆっくりと近づいてきている。大きさで言えば、おそらく〝 キングスパイダー〟。でも、こんな変異種は見たことも聞いたこともない。
――だが。
こんな小さな村の、小さな森の、なんでもない洞穴に、住んでいるようなモンスターではないということだけは、しがない町人のオリバーにもわかった。
明らかに異常事態だった。
フシューフシューと空気が漏れるような音がして、生あたたかい息が正面から吹きかけられると、むわっと腐った卵のような匂いが広がった。目の前の巨大な蜘蛛が、自分という獲物に狙いを定めたのだとオリバーは理解した。
むき出しの岩肌に尻もちをついたまま、状況を理解できないオリバーの頭は現実から目を背けるように、さきほどまでそこにあったはずのささやかな日常を思い出していた。
そばかすのある平凡な顔に、どこにでもある茶色の髪、焦げ茶色の瞳。
デフォルトで下がっている眉尻に、ぼんやりとした印象の目。オリバーは自分で鏡を見ても「弱そー」と思うような、しょぼい外見をした普通の青年であった。
オリバーは小さな町の役場で、毎日毎日なぜか自分のところに降って来る雑用の山を片付けながら、上役に今日も今日とてやっかいごとを押しつけられた。
終わらせなくちゃいけない書類が山積みだっていうのに、なんで隣で暇そうにしているやつに頼まないんだよ、と内心ため息をつきながらも、貴族の男に文句も言えない。たとえそれが破産寸前の貴族でもだ。
そうして、働いている町の小さな役場から税収を確認しに、近隣の小さな村――アッカ村まで行くことになったのだった。
そして、不運にもそこでもオリバーは雑用を引き受けることになる。
ちょっと気になることがあるからと「森の中を調べてくれないか」と村長に頼まれ、断ったのにねばられ、渋々森へと足を踏み入れた。断ったのにだ。それがオリバーである。
なんの変哲もない森だとオリバーは思った。
別段変わった様子もなく、強いモンスターの気配なんてまったくなかったし、動物たちも平和そうに見えた。わざわざ自分に様子を見に行かせるだなんて、どんな事態が広がってるのかと思っていたが杞憂だった。
そろそろ帰ろうとオリバーが思ったとき、小さな洞穴を見つけ、なんとなく覗いてみた。
――それが間違いだった。
いや、もうどこからが間違いだったのかはわからない。
不運だ不運だとは感じていたが、毎日そこそこ頑張って生きてきたのになー、とオリバーは思った。
恐怖で体がぴくりとも動かせないわりに、頭は異常に冷静だった。
(あの盗賊のナイフのような牙で噛みつかれて、血の一滴まで吸い尽くされんだろうな……)
そんなことを思い、オリバーは目を閉じた。
――しかし。衝撃は襲ってこなかったが、代わりに声が聞こえたのはそのときだった。
規則的な蜘蛛の息づかいだけがただ聞こえる、静かな洞穴に声が響いた。
人間の――声だ。
「――悪いな。まだ『準備』できてないんだ」
キングスパイダーの後ろから聞こえたのは、この状況にまったくそぐわないあっけらかんとした声色。
動きを止めたキングスパイダーの横から、カツカツと漆黒の衣装につつまれた少年が現れた。
――子ども?
艶やかな黒髪、透き通るような煌めきさえある美しい双眸、忌み嫌われる『黒』の色を持ちながら、その姿はまるで天使のような美しさだった。雪のように白い頬はふっくらとまだ幼さを残していて、成人していないようにも見える。
少年はまるで犬でも撫でるかのように、キングスパイダーの脚の毛をふさふさとなでながら、反応をすることすらできないオリバーを不思議そうに見ていた。
――〝 天使〟……と思いかけて、オリバーはすぐに思い直した。
「あ、――悪魔」
どこか気だるそうな、眠そうな顔をしていた少年は一瞬きょとんとした顔で動きを止めると、チッと大きく舌打ちをした。
「初対面の人間に対して随分だな」
「――あ、い、いえ、ちがっ……違くて」
「悪魔ね。まーどうなんだろ?じゃあ、お前。ちょうどいいし――」
あ。――これ知ってる、とオリバーは思った。
だいたいオリバーのことを使い倒そうとするやつは、はじめこんな顔をする。嫌なやつっていうのはどこにでもいて、大概オリバーのことを見下して、いろんなことを押しつけてくる。ちょうどいいやつを見つけた、都合が良さそうだ、弱そー、周囲はだいたいオリバーに対してこんな顔をする。自分みたいなやつは誰かに使い潰される人生なんだろうなあ……と、なかば諦めのような気持ちで生きてきたのはたしかだ。
だけどこれは、絶対に、だめなやつだ。
オリバーの本能は悟った。
今までのささやかだけど、幸せだった普通の日常。いつか自分みたいな男でもいいと言ってくれる、素朴な村娘がいたら結婚したいなあ、と願っていた夢。
それらはもはや、――風前の灯火だということを。
からからに乾いていたはずのオリバーの喉が、ごくりと鳴った。
悪魔は微笑みながら言った。
「死ぬまでこきつかってやる」
放たれた残酷な言葉に反して、彼の姿は壮絶なまでに美しく、儚げですらあった。悪魔に魅入られた、という言葉がオリバーの頭に浮かんだ。
とにかく、オリバーの人生は、命は、――。
こうして〝 悪魔〟に握られたのだった。
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