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3. と、はぐれる

84 ネル・ハミルトン

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※ネル視点です




 

「……あ、、そう、だよね」

 走り去るソーマの後ろ姿を見て、僕は、声もかけることができずに、佇んでいた。
 自分が、『吸血鬼』だなんて、とっくの昔にわかってた。でも、それを、今のソーマには知られたくなかったんだと、気がついた。
 どうして自分が吸血鬼なんてものになってしまったのか、どうにかして避けることはできなかったのか、僕は何度も考えて、何度も、自分には無理だったと思った。おかしいと思っていても、逃げたいと思っていても、どうにかしなくちゃいけないと思っていても、本当に逃げる勇気はなかったのだ。
 ソーマが本当に逃げようと言ってくれたあの日まで、僕は、逃げたいと願いながらも、それができずにいた。あの屋敷の外の世界をあまり知らない『ソーマ』のこと、本当は、笑う資格なんて、なかった。

(僕だって、あの屋敷の中で、生きてたから……)

 あの屋敷を出てから、三百年が経っても、僕の意識は、結局あの屋敷の中にいた時のままだ。呪われた因果の檻の中で、生かされているだけだった。
 屋敷に出入りする人間を管理するために、庭師だって、外部への接触は最小限にされていたはずだった。同じように、あの広い屋敷の中の、あの小さな世界の中で生きてきたはずなのに、『ソーマ』は、自由で、憧れた。
 再会した時は、本当に驚いて、でもその時も、逃げ出すソーマを、僕が追うことはなかった。
 ソフィアに言われてたことのせいもあったけど、声をかけることすらできなかったのは、多分、――。
 怖かったのだ。ただ、――怖かった。

 心のどこかで、ソーマなら、僕が吸血鬼だとわかっても、怖がったりしないんじゃないかって思ってた自分がいて、でも、おぞましい存在である自分のことを思えば、あれが当たり前の反応だった。動揺してただけかも、と、少し思うけど、あれで、よかったはずだった。
 振り払われた手を、ただ、見つめる。
 傷一つない、綺麗な手だ。どんなに、自分の体を傷つけても、死ぬことは、ない。心臓を突き刺したこともある。首を、切り落としてみたことも、ある。それでも、すぐに戻る。


 僕は、――ただの、化け物だった。


 呪いだとか、悪霊だとか、そういうんじゃない。触れれば、人を殺し、魂を呪い、その踏み躙られた命の上に、僕は、立っている。黒百合教が千年もかけて集めた、何千もの命を、いや、もしかしたら、何万かもしれない。その命を喰い殺した、ただの化け物だった。
 バカみたいに震えてる手を見ても、もう長い年月の間に枯れた涙は、もう、出ない。

(死にたい。ずっと、死にたい……あの日から、ずっと)

 誰もいなくなった中庭で、腰を下ろして、膝に顔を埋めた。
 ずっと……、そう思って、でも、本当に「ずっと」だったかと、考えて、しまうのだ。
 再会したソーマが、視界に入るだけで、胸が高鳴った。三百年前以来、はじめて、また、普通に生きているような気持ちになった。ソフィアが、言っていたように、気づけば僕はまた、ソーマのことを、好きになってしまっていた。彼女のことを思い出すと、ふっと優しい笑みが溢れた。彼女の言った通りだった。

 ――「ハア? 舐めてんの? 私の弟を愛おしく思わない奴なんて、この世にいないから」

 その時は、すごいブラコンだなと思っていたけど、本当に、言われた通りだった。
 ソフィアのことがあってから、通蝶をソーマにつけて、こっそりと見守っていた百年間、たまに近くまで行ってみるだけで、その優しさも、強さも、何も変わっていないんだと思った。癖の強い姉の影響なのか、若干、違うところもあるような気がしたけど、『ソーマ』の魂を、感じていた。
 リズヴェールで、まさかの二度目の再会をしてしまった後も。最初は、長い間一人でベスィに怯えていたせいで、少し不安そうに見えたけど、やっぱりソーマは、ソーマだった。
 相手がベスィであろうと、送る度に心を痛めて、その未練に引きずられて、苦しんでいる様子を見たら、放ってなんておけなかった。
 怖がりなくせに、優しいソーマが、ベスィや吸血鬼に惑わされないように、感情移入しないで欲しくて、ずっと、口うるさく言ってきた。

(それでも、ソーマは優しいから……)

 もう死んでるんだからしょうがない! と、言って、ベスィを送る道具をいくつも作り、「ガンガンっちゃって!」と言う、姉とは、違うのだ。あれはあれで、優しさであることもわかっているけど。あれほど開き直ることができれば、ソーマだって苦しくなかったかもしれない。
 どうしても気持ちを考えてしまうソーマは、そうは行かないのだ。
 包み込むような優しさは、『ソーマ』もソーマも、そっくりで。本当に、転生なんていう、そんな御伽噺みたいなことがあるなんて、と、信じられない気持ちでいっぱいだった。前世と一緒くたにしてはいけないと思ってたけど、ソーマは、無意識のうちに、を守ってくれてるみたいで、すぐに、抱きしめてしまいたくなって、一生懸命、耐えた。
 一緒に話すことができるだけで、一緒に歩いているだけで、僕は、毎日、枯れたはずの涙が溢れ出しそうで、意地悪を言うのに必死だった。

「逃げられちゃったな……」

 当たり前のことだった。ずっと、そうして欲しいと思っていたし、ずっと嫌われたいと思っていたのに、じわっと暗い気持ちが、広がっていく。何も間違ってなんかいない。ソーマの反応は当たり前で、それは僕も望んでいたことだった。
 僕なんかと関わらない方がいい。何も知らない間に、救ってあげたかった。
 でも、こうして本当に逃げられて、はじめて、自分の浅ましい気持ちが浮き彫りになった。

「あー……僕は、なんで、ソーマと一緒にいたいだなんて思っちゃってたんだろ」

 気が付かない間に、すっかりソーマと離れたくなくなっていた。
 本来の自分の計画を、思い出せよ、と思う。
 本当は、ソーマが何も知らずに田舎にいる間に、どうにかレンを捕まえるつもりだった。もう、計画は、ほぼ完成していたのに、まさかソーマがリズヴェールに戻ってきちゃうとは思わなかった。でも計画が全部終われば、ねじ曲がってしまったソーマの魂をどうにかする予定だった。でも、一緒に過ごしてみれば、ちゃんと別れが来るってわかっていたのに、僕がしっかりしなくちゃって思っていたのに、別れるなんて、できそうになかった。

「だから……これで。これで、よかったよ」

 自分に言い聞かせるように絞り出した声は、頼りなく、震えていた。
 ソーマとは、もう会わなくても、課長が守ってくれるだろう。計画も終盤だから、レンの捕縛も、特殊警務課がどうにかしてくれるはずだった。競馬場のベスィは殲滅したし、ここに近づく時に、手当たり次第に、殺せるだけ、殺した。
 長い三百年だった。でも、あからさまに人間に害を為してきたレンが捕縛されたら、女帝陛下の憂いも晴れるだろう。僕の役目は何かな……と、考えて、もう、そんなに大したこともないなということに気がついた。

(ただ……死ねないだけだ。万が一、未来でレンがなんかしないように、レンと僕を殺せる方法が見つかるまでは、僕もきっと地下牢にでも入れられるんだろうけど)

 もうとっくの昔に失ってしまった愛しい人を、また、失ってしまった。
 僕には、生きる希望なんて、あっては、いけないんだった。それを、思い出した。
 早くこんなところ立ち去って、課長に連絡をしなくちゃと思う。だけどその時、――上から、懐かしい声が降ってきた。

「…………久しぶり。おにーちゃん」

 そんな呼び方をされた覚えはなかった。というか、ほぼ三百年ぶりに聞く、声だった。
 反射的に、怒りのままに、ヒュンッと剣を振るい、レンの首を落とした。でも、それが意味を為さないことは、知っていた。そのまま、数度、体を斬りつける。でも、それも意味がないことも知っていた。
 ぼうっとする頭で、早く立ち去らなくては、と、思う。
 僕は、生まれた時から、レンの身代わりだった。神になるべく育てられたレンの、影武者でしかなかった。こんなにそっくりな顔をしていても、本人だって、血が繋がってるとは、思ってないだろう。

「痛いなー。随分と、暴れてくれたみたいだけど、大好きなソーマには逃げられちゃったね。見てたよ」

 昔から、レンはよくしゃべる。
 生まれた時から、神として育てられているのだ。気高く、自分が頂点の存在であることを、疑っていない。はじめこそ、怯えて何もしていなかったようだが、百年ちょっと経った頃からは、犠牲がどんどん増えていくようになった。
 おそらく、黒百合教は方針を変えたのだ。そしてその頃から、レンは慈善事業を大々的に行うようになり、何も知らない女帝陛下から爵位を頂いた。そこからは、レンの行動は拍車をかけて、やりたい放題になっていった。
 無垢な人間を次々ベスィにしながらも、秘密裏に、永遠の命を金で売るようになった。
 別に、吸血鬼のような存在であっても、血を啜る必要などないというのに。レンは楽しんでいたのだ。多分、あの時に、――あの魔術陣の上で、レンの人間としての良心みたいなものは、消えてなくなってしまったのだと思う。
 久しぶりに見たレンを見て、ふと、思うのだ。

(レンは、死にたくなったり……しないのかな)

 目の前にあるのは、髪の色は違えど、そのまま写したような僕の顔で、その顔が、にやあっと、それはそれは嬉しそうに歪むのを見て、次は一体何を企んでるんだろう、と、訝しむ。
 でも、まるで心を読んだかのように、レンが言った。

「死にたいんでしょ。殺してあげようか」

 言われた言葉に、ドクッと心臓が跳ねた。
 普通の人間が言われたら、恐ろしい言葉であるはずのそれは、僕の中に、甘美な響きを以て、ことり、と落ちてきた。レンが言ってるんだから、そのままの言葉なはずはなかった。でもその言葉を聞いて、少しだけ、期待してしまった。
 多分、レンにとって、一番邪魔な存在は、僕なはずだった。レンはずっと、僕には死んで欲しいと思っていたはずだった。きっと、の自分の判断を後悔しているはずだった。もしかして本当に? と、ふらついてしまいそうな自分がいた。
 必死に思い止まる。

「死なないから、お前を捕まえるのに苦労してるんだけど」
「それが、できるんだな。長年の研究結果が出てさ。殺して、あげようか?」

 まさか、ソフィアが話していたイーライというベスィが、研究に成功したのだろうか。本当に、死ぬ方法が見つかったのだろうか。どくどくと、心臓が速く脈打っていった。嘘だろって思う気持ちと、でも、レンは僕に死んで欲しいだろうし……という考えがせめぎ合っていた。
 でも、ソーマのことを想う。僕が死んだら……と、考えて、いや、もう死ぬことができるなら、僕なんていない方が、ソーマの人生は幸せな気がした。今世も大変な目に逢ってしまったけど、来世では、幸せになれるかもしれない。

「……いや、そんな、そんな都合のいいこと」
「だって、僕はずっと、ネルに死んで欲しいと思ってたから」

 もしも、自分が冷静であれば、それは違うってことがわかったはずだった。
 レンはずっと僕に死んで欲しかったわけではない。多分、レンは、ずっと、僕に死ぬほど苦しい思いを、永遠にさせたいだけだった。
 でも、多分、思ったよりも、ソーマの走り去る後ろ姿に、動揺していて、僕は、冷静ではなかった。すっかり冷静でいるようで、レンがこのまま女帝陛下に捕縛されてしまえば、自分が死ぬ機会はもう巡ってこないなじゃないかだなんていう、自分の欲望だけにしがみついてしまった。

 そんな、わかりきった甘い悪魔の囁きに、――ふらついてしまうほどに。
 いや、でも、――と、思い、後ろに飛びのいた。その時、プスッと何かが僕の首元に刺さったような気がした。そして、ぐらっと視界が揺れた。後ろからボーガンみたいな変な魔導具を持った、墓場で会ったベスィが立っているのが視えて、咄嗟に剣を振った。だけど、そのまま、よろけた僕は、枯れた芝生の上にガクッと倒れた。
 声が聞こえる。

「かんにんな。すぐに回復されたら困るし、すごい量の睡眠薬なんやけど、けったいな薬ちゃうから安心してや」

 そして、視界が暗転した。

(…………ソーマ……)

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