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3. と、はぐれる
70 赤い蝶
しおりを挟む「基本的には、この持ち場の右側が僕で、左側がソーマ。万が一、何かがあれば、合図を」
「わかった」
入場する前に、ネルと決めた合図。万が一、不測の事態が起きた場合、来るなの時は、赤い通蝶、助けて欲しい時は、青い通蝶をポケットの魔導具から上げる。魔道具自体は、手を触れるだけで発動するから、手サインよりもわかりやすいだろうということになった。
今や、ついに、競馬場に観客が入場し、レースが始まっていた。
俺の持ち場には、まだ、光る蝶は飛んでおらず、少し、ほっとしていた。やっぱりあの襲撃予告は、クラークさんたちが見つけた星の犯行だったんだろうか、そう思った時だった。
「あ!」
少し離れた場所に、ぽつん、と光る蝶が出現した。場所的観客の隙間を縫い、そこに向かう。ぼーっと人混みに紛れている、女性を見つける。確実に、その女性の頭の上に、通蝶が飛んでいた。一体、どうして突然現れたんだろう、と、思いながらも、コートの裾に隠しながら、すぐに銃口を向けた。音もなく、彼女は崩れ落ちる。周りの観客には気づいた様子もない。
ネルは気がついたようで、視線が合う。俺は「大丈夫」という意味で、頷いた。
(む、難しい……)
正直、そう思った。何が難しいって、ネルの剣とは違い、俺は銃を隠しながら霊送を行わないといけないとこだ。
もちろん、今日のために、短剣のようなものも渡されているのだが、できれば慣れている銃の方で送りたいと思っていた。こんなにもたくさんの人がいる中で、女帝陛下を守り抜くというのは、本当に難しいことだ、と思う。
ちらっと、貴賓席の方へと視線をやる。煌びやかな装飾の施された貴賓席の中でも、青い重厚なカーテンの引かれた席には、一際高い位置に置かれた椅子の上に座っている女帝陛下の影が見える。こんなに近くで、女帝陛下を拝むことがあるなんて……お墓の前で、姉さんに自慢しなくては、と思う。女帝陛下の近くには、二人の皇女殿下の姿も見える。カーテンに仕切られていて、顔までは見ることができないが、女帝陛下の、皇女殿下たちの、ドレスの裾が覗いていた。
(そんなこと考えてる場合じゃないか……)
先ほどから、レースに熱狂した人たちのすごい歓声で、鼓膜が破れそうになる。
こんなにたくさんの人を見たのは、はじめてかもしれなかった。
通路へと繋がる辺りに、またポッと通蝶が現れるのが見えた。ネルからはちょっと離れた場所だが、ネルの持ち場だ。すごい速さでそこへ向かっていくネルを確認し、自分の持ち場へと目を移した。
また1つ、ぎりぎり他の人の持ち場かどうか……という辺りに、通蝶が出現したのが見えた。ネルが今、走って行った方向とは真逆の方向だった。でも、俺の持ち場だ、と思い、急いで駆けつける。
またぼーっとしている男を見つけ、スッと胸に銀弾を撃ち込んだ。
キラキラと輝きながら天に舞うのを確認し、ネルの方を振り返れば、なぜか先ほどの辺りに、二つ蝶が浮かんでいた。通路に近いからなのか、なんなのか、こんなにも、定期的にポツポツと現れるのか……? と、首を傾げる。今は距離が開いてしまっているが、先ほどの位置まで戻ろうとして、踵を返す。その瞬間、――。
つい、焦ってつまづいてしまい、ボスッと前にいた人にぶつかってしまった。
「す、すみません!」
咄嗟に体を離そうとするけど、ガシッと抱きしめられるように、腰に腕を回され、え?? と、思わず見上げて、そして、俺は、凍りついた。そこには、黒いコートを着た、白髪の男。目には、――目隠し。
そして、にいっと嬉しそうに口角を上げたその男は、そっと、俺の耳元に口を寄せ、囁いた。
「見ぃつけた」
「――――え?」
ぞわわと、悪寒と不快感が背中を駆け上がった。
構えていた銃で、撃ち抜こうとして、だけど、思いとどまる。ベスィは貫通しないこの銃弾は、吸血鬼のことはきっと貫通する。今ここで、撃てば、周りの人たちに被害があるかもしれない。不自由な体勢のまま、そろっと腰の短剣に手を伸ばそうとして、釘を刺された。
「動かないで。ここにいる人間の全部が、人質だよ」
「っっ」
「ふふ。やっぱり、サーカスの子だったんだね。君とちょっと、話がしたいだけだよ」
どっどっどっど、と心臓が爆発しそうに脈打った。
嫌な汗がぶわっと噴き出す。話? 話って何? と、焦る。でも、言葉を交わしてはだめだ。なんとかしないといけない、そう思って、ダンッと思いっきり、男の、――レンツェルの足を踏み抜いた。だけど、レンツェルの腕の拘束は、少しも緩むことなどなく、唇を、首筋に当てられた。ま、まさか……! と、思い、思いっきり暴れる。このままじゃ、死んでしまう、その恐怖だけが頭の中をいっぱいにした。レンツェルの息が、かかる。首を滑っている唇に、死を感じた。
そして、――。
「それとも、――噛まれとく?」
そう、言われた瞬間。何かがチクッと指に刺さり、ぐらっと視界が揺らぐ。
なんで、どうして、と思いながら、ネルのいた方へと目を向けた。焦った様子の、だけど、見たこともないほど憎悪に染まった顔のネルが、こちらへ向かって走ってきているのが、見えた。
でも、思う。ネルになんかあったら、困る。それに、この会場の人たちにも、――。
(だめだ、来たら、だめだ……)
そう思った俺は、咄嗟に、ポケットの魔導具を撫でた。
そこには、俺とレンツェルのいなくなった場所に、赤い蝶だけが、舞っていた。
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