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2. と、暮らす
66 重い空気
しおりを挟む(恋人……いたんだ……)
あれからネルは、馬車の中でも、無言だった。
今日に限って、馬車での移動距離は長くて、俺たちの間には、重い空気が横たわっていた。
何を見るでもなく、ただ、窓の縁に肘をついて、外の景色を見ているネルは、一体何を考えているんだろう、と、思う。馬車の中に設置された魔導灯の光。あたたかみのあるその光に照らされたネルの横顔は、いつもみたいに、舞台のワンシーンのようだ。憂いを帯びた空色の双眸に、影を作っている長いまつ毛。すっきりとした鼻、整った眉。頬は、陶器のようになめらかだ。均整のとれた体躯、長い手足。
本当は気遣いのできる優しさも、扱いに慣れているかんじも、その強さも。
(いないわけ……ないか)
出会った時から、ことあるごとに、女の話もしていたし、さぞや華やかな生活をしているのだろうと、思っていた。でも、そんな経緯があったなんて、そんな、過去があったなんて、思いもしてなかった。
流石に俺だってわかる。
あれは、聞いたらまずいことだった。いや、……わからない。ろくに話したこともないと言っていたチェルシーが、知っているくらいの情報だ。もしかしたら、そこまで秘匿しているということでもないのかもしれない……。いや、それは、ただ、そう思いたいだけか。
でも、――。
(なんだろ……なんか、もやっとする)
よくわからないのだ。多分、たとえばザカリーさんが、恋人をレンツェルに殺されたと話していたら、俺はすごく、悲しい気持ちになったんじゃないかと思う。なんて悲しいことなんだって、レイナのことも思い出して、やるせない気持ちになっただろうと思う。
ネルの恋人が殺されたと聞いて、もちろん、衝撃だった。あの、レンツェルのことを話す時の、ネルの鋭い眼光は、憎しみの色なのだと、改めて思った。
だけど、その後に思ったのは、「まだ、その人のことが好きなのかな」という、疑問だった。
それは、あまり正しい反応ではないような気がした。
なぜか、心の中に、がっかりしたような気持ちが広がってしまう自分が、嫌だった。多分、これは『俺』の気持ちに、引き摺られているからなんじゃないか、とは思う。ただ、なんか自分が考えていることが、おかしいことはわかるのだ。
(へー……好きな人いるのに、俺と寝ちゃうんだー……とかさー)
それは今朝、俺がつい考えてしまった「誰にでも言ってんのかな」と呟いてしまった乙女心ベースの思考に、他ならなかった。というか、まさにそれだった。
おかしいということだけは、わかる。だけど、止まらないのだ。あれは治療だと分かっていたし、散々嫌がっていたというのに、あの例の『僕も』の一言で、俺の心は、おかしなことになっていた。
それは偏に、あの『僕も』と言った時のネルの表情が、ものすごく切なくて、苦しくて、泣きそうで、なんだかそれは、本当の、本当に、俺のことを好きみたいな、そんな表情だったように思ったからだと、思うのだ。あの顔を見た後から、あの言葉を聞いてしまった後から、俺は、おかしいのだ。
(……これは、明らかに、ベッドの上の睦言に絆されている状況……!)
俺は、今朝の泣いていた女性を諭していた女性に、相談したいほど、動揺していた。一思いに、ズバンッと、「そんなの信じるなんて、アホか」と言われたかった。どうしよう、どうしよう、と、焦るあまり、じわっと変な汗が出てきた。
よく考えてみれば、俺の恋愛経験はゼロだった。そして、唯一手がかりとなるものは、おかしな夢で、その夢を見ているのは、恋愛経験ゼロの俺だった。明らかに、話はそこで終了であった。
(あー…俺、もしかして、すごく手軽いのでは?)
好き、と言われたわけですらない。ただの、あの三文字で、『僕も』という言葉だけで、俺は、ネルのことばっかり考えてしまうようなマインドセットになっているのだった。そして、ついに、過去の恋人にすらも、「へー」みたいな、穿った見方をしてしまっているのだ。
それが悲劇であることを、分かっていながら、どこかで、今、その恋人がネルの横にいないことを、――
(えー……俺なんでこんな……、ほっとしたみたいな。なに、これ)
すごく、嫌な気持ちが広がる。別に、ネルのことを好きなわけでもないはずなのに、ネルの恋人がいたら、もやっとして、いないと聞けば、ほっとして。こんなのは、明らかにおかしな反応だった。俺が『俺』であるみたいで、なんだか知らない意識に、乗っ取られてしまったような、怖さもある。
正直、気が重かった。
さっきから視線を感じているだろうに、俺のことをチラリとも振り返らない、ネルのことを見て、小さく痛む、胸のことも。これから、昨日よりもさらに多くのベスィを送らなくてはいけないことも。
――その後に、待っているであろうことも。
(別に好きな奴のことでもないのに、……やな気持ちだな……)
ガタンと音がして、馬車が止まった。
ここ? と、外を見れば、辺りは墓地だった。リズヴェールの外れ、夜のオールドヘイズに、人は、ほぼいない。昔から、忌避されている方角なこともある。どうしてこんなところにベスィがたくさんいるんだろう…と、首を傾げていたら、「吸血鬼の拠点はいくつかある。長く生きていること、人間にバレるわけにはいかないから」と、ネルが言った。
ふと、ネルの見た方向に目をやれば、ぽつんと、古い洋館があった。庭の木々の伸び方から見て、しばらく使われていないような雰囲気で、墓地の横に位置していることもあって、なんというか、吸血鬼が住んでいそうな場所だった。
まさか、あそこにレンツェルも住んでいたのだろうか……と、思う。そして、特殊警務課はそれを特定して、霊送をすることにしたのだろうか…とも思った。
「今日のベスィは、少し、手強いのもいると思うから。ぼうっとしてないで」
「……あ、ああ。わかった」
ネルは、いつもみたいにヘラヘラしていなかった。どこか冷たく、拒絶されているとわかる口調で、そう伝えられ、ぎゅっと胃が縮んだような感じがした。ネルの手には青白い剣先が、もうあった。氷みたいなその、繊細な煌めきに、ハッとして、自分も、懐から銃を取り出した。
今は、集中しなくてはいけないのだった。
ここ二日間は、人混みとスピードを、克服することを求められていた。今日は、まだわからないが、 明後日には、エリザベス杯なのだ。死んだ自覚のある、レンツェルの近くにいるベスィが出てきたら、と思うと、正直怖い。自ら、レンツェルの側にいるのだとすれば、きっとオルガさんのようには行かないだろう。
今は、ネルのことを考えている場合ではない。
集中すること……それだけだった。
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