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2. と、暮らす
60 『ソーマ』
しおりを挟む「うわ。まただよ。こんな暗いところで本なんて読んでたら、そのうち影に溶けてなくなっちゃうぞ」
「溶けることができるなら、溶けたい」
「…………くっら」
『俺』は、この広い庭の中でも、一番木々が鬱蒼と茂っている場所に座る一人の男に、声をかけた。
ボサボサの薄茶色の髪を肩につくほどに伸ばしたその男は、顔も隠れてしまっていて、一体どんな顔の奴なのかもわからない。ただいつも、この薄暗い木陰で、分厚い本を読んでいる。まるで太陽になんて一度も当たったことがないかのような、青白い肌。髪の隙間から見えている唇も血色が悪い。
水を撒くのに邪魔だから、どいて欲しいといつも思っている。いつも薄汚れたシャツに、よれた茶色のパンツを穿いているが、着ているもの造形だけは貴族のもので、貴族なのか平民なのかもよくわからない。ただ、昼間から、こうして庭で座っていられるのだから、こいつは、この訳のわからないでかい屋敷に住んでる奴なはずだった。
(多分、なんか虐げられてる……貴族)
数度、見かけた雰囲気から、多少の暴言に怒るような奴ではないということはわかっていた。同じくらいの年頃なこともあって、つい友達に言うような口調で話しかけてしまったが、全く気にしたような様子もなく、じめじめ、うじうじ、と、まるでこの木陰のように、鬱蒼としている奴なのだ。名前も知らない。
「俺、暗いやつはあんまり好きじゃない」
「……奇遇だね。僕も、君みたいに何にも考えてなさそうな人は苦手だよ」
「ハア?!」
俺も俺だが、さらりと返されたその言いように、すぐに頭に血が上った。
でも、何も考えてなさそうっていうっていうのは、そんなに間違っていなくて、俺は、むむっと唇を噛みしめる。俺は、今日生きることに必死で、あんまり何も考えていない。今日食える飯があれば幸せだし、俺は、親父の代から、この訳のわからない屋敷に住み込みで働いてるから、恵まれてる平民だった。お貴族様のように、腹芸で食べてる人間からすれば、そりゃあ何にも考えてなさそうに見えるだろうけどな、とは思う。
でも、このもやしみたいな奴に、言い返されるなんて思っていなくて、少し驚いた。
「ああ。僕も毎日、庭に水を撒くだけの人間に生まれたかった」
「お前……喧嘩売ってんのか」
「はじめたのはそっちでしょ」
そう言われてしまえば、その通りで、言い返せなかった。このもやしは、ひょろひょろで暗そうな割に、口がよく回るな……と、眉間に皺を寄せた。でも黙っているわけにはいかなくて、ぐっと奥歯を噛みしめて、言い返す。
「お前こそ、いつもこんなとこで本読んでて、暇そうじゃん。仕事とかねーの?」
「してるよ。この家の仕事は、ほぼ僕が全部。休憩してるだけだから、話しかけないでくれる」
「……そこにいると、邪魔なんだよ。水かかっても知らないからな」
「わっ ちょっと! まっ」
この屋敷には、馬鹿でかい庭用に、井戸から水を組み取ってくれる魔導具があるのだ。俺はそれを大きなジョウロにや桶に入れて、庭中に水を撒く。一応断りは入れたのだから、と、腹いせまじりに、その男に向かって、思いっきり水を撒いてやった。
「っぶ! お、おい!」
びしゃあっと、頭から水を被った男が、慌てて声を荒げた。
普通なら、こんなことしたら、きっとクビだってことは俺にだってわかっていた。でも、はじめて声をかけた今日まで、実は俺は、こそこそとその男の様子を見ていたのだ。草木や花に、割と親切。それから、使用人にも幽霊のように無視されているのを見かけた。飯も、なんかパンと野菜くずのスープとかばっかりで、使用人が食べてるものみたいな雰囲気。
家の仕事は全部やってると言ったし、やりたくなさそうではあるけど、いつも読んでる本は、挿絵を見た感じ、領地のこととか、農業のこととか、それから、小難しそうな数字ばっかり並んでる本とか、多分、自分のためではなく、誰かのためにやってる勉強っぽい。
(暗いけど、悪い奴ではない……威張る感じも、全くない)
だからなんとなく、こんな薄暗いところで小さく丸まってるよりは、たまには、少しくらいハメを外したって、と思ったのだ。季節な夏、真っ只中。休憩時間に水浴びしてみたって、すぐ乾くだろうし、濡れすぎだったら、着替えぐらいはあるだろう。呆然と立ちすくむ男を見て、あはは! と、笑いながら、持っていたカバンから洗い立てのタオルを取り出した。そして、「ほらよ」と言って、それを渡すと、男は俺のことをじとっと睨んで、タオルで顔を拭いながら、言った。
「どういうつもりだ。お前、曲がりなりにも、使用人なのに」
「でも、気持ちよくない?暑いし。休憩ならいいだろ」
「ああ、髪までびしょ濡れだ。こんなんじゃ休憩にならないよ」
「……え?」
先ほどと同じように、ぶつくさと文句を言われる。だけど、顔を拭ったタオルで、首や腕をぬぐい始めた男を見て、俺は動きを止めた。目を瞬かせて、その男の顔を見る。
(えー……こんな顔、してたのか)
まるで舞台俳優みたいに、完璧なパーツが、完璧に配置されたような、華やかな顔に驚く。てっきり、陰鬱を絵に描いたような顔をしてるんだとばっかり思っていた。思わず近寄り、男の頬に手を伸ばした。なんかどっかで見たことあるような……と、考えて、この屋敷の奥様に似てるのか、と気がついた。
「もしかして、お前。ここの屋敷の息子なの?」
「……あのね、昼間からこんなとこで本読んでるんだから、平民じゃないことくらいわかったでしょ」
「えー?じゃあ、なんでそんな扱いなの?」
「………………ほんと、何にも考えないんだな」
白い目で見られて、あっ、と気がつく。貴族だろうなとは思ってたけど、やっぱり本当に貴族で、しかも仕えてるお屋敷の次期当主であろう人間に、敬語も使わず、不躾に話しかけた挙句、水をぶっかけた、ということに気がついた。
流石に、それはまずかったかもしれない。
「あー……ごめん?」
「それで謝ってるつもりなら、君とは永遠に分かり合えないと思う。他の人にはしちゃだめだよ」
「え。平民と分かり合えると思ってんの??」
「………………」
その男は、眉間に皺を寄せて、相変わらずじとっとした目で俺のことを見ていた。だけど、言われた言葉に驚いた。平民とわかり合おうだなんて、貴族がそんなこと思うなんて、考えたこともなかった。生きる世界が違う人たちだとばかり、思っていたから。それに、他の人にはしちゃだめだって、水ぶっかけられて、平民の心配?
「お前、変な奴だなー」
「…………ほんと、そのまま返すけどそれ」
それが、俺が仕えるこの屋敷、ハミルトン家の坊ちゃんである、ネル・ハミルトンとの出会いだった、──。
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