上 下
51 / 92
2. と、暮らす

51 視えるもの、視たくないもの

しおりを挟む


、だめだよ」

 公園の階段を駆け降り、フラムストリートに立った俺は、目の前に広がる光景に言葉を失った。さっき見えた赤黒い触手はちゃんと視えていたのに、それでも、その真ん中に立っているのは、ただの、レイナにしか見えなかったからだった。思わず、レイナ!と、名前を叫ぼうとしたら、ネルに手で視界を塞がれた。
 隣から響いたネルの声に、心の中を見透かされたようで、どきっと心臓が跳ねた。さっき馬車で言われたことを思い出す。きっとあれがレイナに見えているようなら、俺は、レイナを、このを送ることはできないだろう。
 ひたり、と、俺の目を覆う、冷たく柔らかい手の感触。
 むむむと、唇を噛みしめて、眉間に皺を寄せていると、俺のすぐ後ろに立つネルは、いつも通りの甘い声で、続けた。

「考えると、が見える。いい?僕が手を離したら、考えずに、んだよ、ソーマ」

 ネルの手に覆われた闇の中で、俺は最後にもう一度だけ、考える。
 あどけない少女の姿。一緒に笑った時間。それから、寂しそうに、家族のことを話した。短い時間ではあったけど、過ごした時間は、悪いものでも、なかったのに、と、思う。それでも、ネルが。長年この仕事をしてきているネルが、そうだと言うのなら、そういう気持ちを持って視てしまっては、きっといけないのだ、と、覚悟を決める。

(まずは、みなければ、───わからない)

 ネルに目隠しをされたまま、俺はこくんと頷いた。
 一瞬の間があって、俺の視界を隠していたネルの手が、ふわりと横に外れたかと思うと、その瞬間、───前方から突風が、ヒュオオッと吹きつけた。髪が後ろに流され、ネルと俺のトレンチコートの裾が飛ぶように勢いよくはためく。思わず顔に腕を当て、目を細めた。
 ───途端。
 フシューっと赤黒い煙が立ちこめ、腐った肉のような匂いが、這うように辺りに広がった。パリンッパリンッと音を立て、街頭が砕け散った。もうすぐ来る冬を感じさせるひんやりとした温度の中、生ぬるい風が漂い、その異様な雰囲気に、その気持ち悪さに、俺は身震いした。
 真夜中のフラムストリートに、人の気配はない。
 街頭がジジッと最後に小さな断末魔を上げ、そしてフラムストリートから、光は消えた。

 俺とネルの前方、百メートルほど前に、少女のような小さな人影。そして、その小さな肩からは、辺りの建物を覆い隠すほどの、巨大な触手のようなものがうねうねと立ち上っていた。
 透明な、だけど、赤黒く発光しているような、その無数の触手に気を取られていると、未だ、体を少しかがめ、俺の顔の横に位置しているらしい、ネルの声がした。

「そっち、じゃないよ。あの、小さな影の方を視ないと」

 そう言って、ネルの長い指が、そっとその少女のような人影を指さした。
 俺はハッと息をのむ。

 俺の記憶の中では、あどけない笑顔をしていた、長い髪の少女は、インクでも被ったかのように真っ黒に染まっていた。影になっていて黒く見えるのかと思ったら、それは違った。
 その真っ黒に染まった影から、二つの赤い目が大きく、見開かれている。そして、ジョアアとも、ギョアアアとも聞こえるような、呼気と何かの鳴き声が混ざったかのような音と共に、腐臭のひどい黒い息を吹き出したのだ。
 その口は、到底人間のそれとは思えない大きさに広がり、その口からどろっと、黒い、ヘドロのようなものが漏れるのが見えた。

「っっ」

 流石に、あの姿を見てしまった以上、が人間だなんて、レイナだなんて、到底思えなかった。
 色んな想いが溢れ、身を固くしていた俺の両肩に、ポンっとネルの両手が乗った。それは何故か、俺の体の強張りを少しだけ、解いた。俺は少し振り返り、未だ近くにあるネルの顔を覗き見た。
 ネルはいつも通り、ヘラヘラと、俺のことをバカにしたような笑みを浮かべながら、意地悪そうな顔で言った。

「じゃあ、行くよ。終わったらちゃんと、あげるよ、───ソーマが泣いておねだりするなら」
「っ!!するわけないだろ!!死ね」

 今朝のことを思い出し、カッと怒りが込み上げた。
 俺はコートの中から、大きめのリボルバーを取り出し、構える。所々に銀の装飾が施された、年代物っぽいその銃の中には、あのを倒すための、銀でできた特殊な銃弾が入っている。
 もう、俺には、アレが、───目の前にいるあのが、俺の出会った少女でないことは、ちゃんといた。

(だってきっと…本当のレイナは、いくら相手が誘拐犯だとしても、人間を手にかけようだなんて、思わない、はずだから)

 ネルがベスィには「感情がない」って言い続ける理由が、少しだけ、わかったような気がした。きっと、そう思っていなければ、みんな、特殊警務課の人たちはきっと、やってられないんだって思った。

 ビュッと巨大な触手の一本が大きくしなり、俺たちの前に鞭のように放たれた。
 いつもとは違う鋭い眼光で、ギッとそのベスィを睨んだまま、ネルは、それを咄嗟に交わす。そこかしこに瓦礫が飛び散っていたが、ネルも、俺も、前へと足を踏み込んだ。そして、銃を構えたまま、走り出す。口から白い息が漏れた。全速力で走る中、ちらっと俺のことを振り返った、お節介な憎たらしい男は、さっきまでの戸惑う俺に念を押すように、再度、事実を、伝えた。

「あれは、───悪霊ベスィだよ」

 その言葉に、ぐっと泣きそうになるのを凝らえる。でも、俺たちにできることは、レイナの魂を送ってあげることだけだった。なんてひどい職業なんだと思う。悔しさや、恨みは、全部、吸血鬼に、──そう言ったネルの言葉が頭をよぎった。
 まるで、ネルもその言葉を思い出してるかのように、呟いた。

「あんなになるまでの呪いを…あんな小さな子に……与える存在なんて……」


しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

【完結】別れ……ますよね?

325号室の住人
BL
☆全3話、完結済 僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。 ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

ブラッドフォード卿のお気に召すままに~~腹黒宰相は異世界転移のモブを溺愛する~~

ゆうきぼし/優輝星
BL
異世界転移BL。浄化のため召喚された異世界人は二人だった。腹黒宰相と呼ばれるブラッドフォード卿は、モブ扱いのイブキを手元に置く。それは自分の手駒の一つとして利用するためだった。だが、イブキの可愛さと優しさに触れ溺愛していく。しかもイブキには何やら不思議なチカラがあるようで……。 *マークはR回。(後半になります) ・毎日更新。投稿時間を朝と夜にします。どうぞ最後までよろしくお願いします。 ・ご都合主義のなーろっぱです。 ・第12回BL大賞にエントリーしました。攻めは頭の回転が速い魔力強の超人ですがちょっぴりダメンズなところあり。そんな彼の癒しとなるのが受けです。癖のありそうな脇役あり。どうぞよろしくお願いします。 腹黒宰相×獣医の卵(モフモフ癒やし手) ・イラストは青城硝子先生です。

年上の恋人は優しい上司

木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。 仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。 基本は受け視点(一人称)です。 一日一花BL企画 参加作品も含まれています。 表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!! 完結済みにいたしました。 6月13日、同人誌を発売しました。

求職令嬢は恋愛禁止な竜騎士団に、子竜守メイドとして採用されました。

待鳥園子
恋愛
グレンジャー伯爵令嬢ウェンディは父が友人に裏切られ、社交界デビューを目前にして無一文になってしまった。 父は異国へと一人出稼ぎに行ってしまい、行く宛てのない姉を心配する弟を安心させるために、以前邸で働いていた竜騎士を頼ることに。 彼が働くアレイスター竜騎士団は『恋愛禁止』という厳格な規則があり、そのため若い女性は働いていない。しかし、ウェンディは竜力を持つ貴族の血を引く女性にしかなれないという『子竜守』として特別に採用されることになり……。 子竜守として働くことになった没落貴族令嬢が、不器用だけどとても優しい団長と恋愛禁止な竜騎士団で働くために秘密の契約結婚をすることなってしまう、ほのぼの子竜育てありな可愛い恋物語。 ※完結まで毎日更新です。

処理中です...