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2. と、暮らす

51 視えるもの、視たくないもの

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、だめだよ」

 公園の階段を駆け降り、フラムストリートに立った俺は、目の前に広がる光景に言葉を失った。さっき見えた赤黒い触手はちゃんと視えていたのに、それでも、その真ん中に立っているのは、ただの、レイナにしか見えなかったからだった。思わず、レイナ!と、名前を叫ぼうとしたら、ネルに手で視界を塞がれた。
 隣から響いたネルの声に、心の中を見透かされたようで、どきっと心臓が跳ねた。さっき馬車で言われたことを思い出す。きっとあれがレイナに見えているようなら、俺は、レイナを、このを送ることはできないだろう。
 ひたり、と、俺の目を覆う、冷たく柔らかい手の感触。
 むむむと、唇を噛みしめて、眉間に皺を寄せていると、俺のすぐ後ろに立つネルは、いつも通りの甘い声で、続けた。

「考えると、が見える。いい?僕が手を離したら、考えずに、んだよ、ソーマ」

 ネルの手に覆われた闇の中で、俺は最後にもう一度だけ、考える。
 あどけない少女の姿。一緒に笑った時間。それから、寂しそうに、家族のことを話した。短い時間ではあったけど、過ごした時間は、悪いものでも、なかったのに、と、思う。それでも、ネルが。長年この仕事をしてきているネルが、そうだと言うのなら、そういう気持ちを持って視てしまっては、きっといけないのだ、と、覚悟を決める。

(まずは、みなければ、───わからない)

 ネルに目隠しをされたまま、俺はこくんと頷いた。
 一瞬の間があって、俺の視界を隠していたネルの手が、ふわりと横に外れたかと思うと、その瞬間、───前方から突風が、ヒュオオッと吹きつけた。髪が後ろに流され、ネルと俺のトレンチコートの裾が飛ぶように勢いよくはためく。思わず顔に腕を当て、目を細めた。
 ───途端。
 フシューっと赤黒い煙が立ちこめ、腐った肉のような匂いが、這うように辺りに広がった。パリンッパリンッと音を立て、街頭が砕け散った。もうすぐ来る冬を感じさせるひんやりとした温度の中、生ぬるい風が漂い、その異様な雰囲気に、その気持ち悪さに、俺は身震いした。
 真夜中のフラムストリートに、人の気配はない。
 街頭がジジッと最後に小さな断末魔を上げ、そしてフラムストリートから、光は消えた。

 俺とネルの前方、百メートルほど前に、少女のような小さな人影。そして、その小さな肩からは、辺りの建物を覆い隠すほどの、巨大な触手のようなものがうねうねと立ち上っていた。
 透明な、だけど、赤黒く発光しているような、その無数の触手に気を取られていると、未だ、体を少しかがめ、俺の顔の横に位置しているらしい、ネルの声がした。

「そっち、じゃないよ。あの、小さな影の方を視ないと」

 そう言って、ネルの長い指が、そっとその少女のような人影を指さした。
 俺はハッと息をのむ。

 俺の記憶の中では、あどけない笑顔をしていた、長い髪の少女は、インクでも被ったかのように真っ黒に染まっていた。影になっていて黒く見えるのかと思ったら、それは違った。
 その真っ黒に染まった影から、二つの赤い目が大きく、見開かれている。そして、ジョアアとも、ギョアアアとも聞こえるような、呼気と何かの鳴き声が混ざったかのような音と共に、腐臭のひどい黒い息を吹き出したのだ。
 その口は、到底人間のそれとは思えない大きさに広がり、その口からどろっと、黒い、ヘドロのようなものが漏れるのが見えた。

「っっ」

 流石に、あの姿を見てしまった以上、が人間だなんて、レイナだなんて、到底思えなかった。
 色んな想いが溢れ、身を固くしていた俺の両肩に、ポンっとネルの両手が乗った。それは何故か、俺の体の強張りを少しだけ、解いた。俺は少し振り返り、未だ近くにあるネルの顔を覗き見た。
 ネルはいつも通り、ヘラヘラと、俺のことをバカにしたような笑みを浮かべながら、意地悪そうな顔で言った。

「じゃあ、行くよ。終わったらちゃんと、あげるよ、───ソーマが泣いておねだりするなら」
「っ!!するわけないだろ!!死ね」

 今朝のことを思い出し、カッと怒りが込み上げた。
 俺はコートの中から、大きめのリボルバーを取り出し、構える。所々に銀の装飾が施された、年代物っぽいその銃の中には、あのを倒すための、銀でできた特殊な銃弾が入っている。
 もう、俺には、アレが、───目の前にいるあのが、俺の出会った少女でないことは、ちゃんといた。

(だってきっと…本当のレイナは、いくら相手が誘拐犯だとしても、人間を手にかけようだなんて、思わない、はずだから)

 ネルがベスィには「感情がない」って言い続ける理由が、少しだけ、わかったような気がした。きっと、そう思っていなければ、みんな、特殊警務課の人たちはきっと、やってられないんだって思った。

 ビュッと巨大な触手の一本が大きくしなり、俺たちの前に鞭のように放たれた。
 いつもとは違う鋭い眼光で、ギッとそのベスィを睨んだまま、ネルは、それを咄嗟に交わす。そこかしこに瓦礫が飛び散っていたが、ネルも、俺も、前へと足を踏み込んだ。そして、銃を構えたまま、走り出す。口から白い息が漏れた。全速力で走る中、ちらっと俺のことを振り返った、お節介な憎たらしい男は、さっきまでの戸惑う俺に念を押すように、再度、事実を、伝えた。

「あれは、───悪霊ベスィだよ」

 その言葉に、ぐっと泣きそうになるのを凝らえる。でも、俺たちにできることは、レイナの魂を送ってあげることだけだった。なんてひどい職業なんだと思う。悔しさや、恨みは、全部、吸血鬼に、──そう言ったネルの言葉が頭をよぎった。
 まるで、ネルもその言葉を思い出してるかのように、呟いた。

「あんなになるまでの呪いを…あんな小さな子に……与える存在なんて……」


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