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2. と、暮らす

40 真夜中の胎動

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「……そういうことだったのか…」

 夜も更けていた。工場があるこの区画は、夜は人通りもなく、静まりかえっていた。
 誰もいない道の、突き当たりをうろついている、円盤のような形の奇妙なベスィを見ながら、俺は眉間に皺を寄せた。
 ネルが朝、伝えてきた『夜から出勤』という言葉の意味を、身にしみて感じていた。その日、俺にとっては初めての夜勤を迎え、そのあらかじめ計画されている夜勤というものが、昼間発見された、まだ少ししか悪霊化していないベスィをまとめて霊送するための仕事だと知った。
 昼間、ネルにひとしきり銃の扱いを教えてもらった俺は、少しばかり、自信をつけていたのだ。だが、こうして、突然実践に放り込まれ、この真っ暗なリズヴェールの夜の中で、ベスィと対峙してみれば、手が腕が、震えるばかりだった。
 隣にいるネルが言う。

「いい。ソーマ。あいつらは、動く的だと思えばいい」
「………で、でも」
「感情はない。僕たちにできるのは、送ってあげることだけだよ」

 またしても同じ嘘をネルが繰り返すのを聞いて、むうっと口をつぐむ。
 まだ悪霊化していないベスィたちは、悪事を働いたわけではないのだ。おかしな形をしている者もいる。それでも、ただの、死んだことに気がついていない霊のようで、引き金を引くことを躊躇した。
 ネルは続けた。

「ソーマ。あれを放っておけば、人にも被害が出る。それに、無垢な霊に、人を殺させることになる。止めるしかないんだ」
「……わ、わかってるよ」
「いい?あのベスィはまだ僕たちに、気づいていない。気づく前に後ろから近づく。足音を立てないで。でも、全速力」

 おそらく、ネルは、俺に昼間の練習の延長をさせようとしているのだ。
 はじめて銃を構えたはずの俺は、なぜか、動かない的で練習してみたら、百発百中だったのだ。もちろん、本物の銃で練習したわけではない。音がしないように改良されている、練習用の銃でのことだが。ものすごくびっくりして、もしかしたら才能があるんじゃないか?と浮かれて振り返れば、スンッと無表情で、それくらい当然とばかりの顔をしているネルを見て、がっかりしたわけだけど。
 確かに、悪霊化する前のベスィは、ほぼ、街を徘徊しているだけなのだ。それは、昼間のベスィより、少し動きがあるかな、程度のもので、次の段階としては、格好の的だった。いや、そんな言い方は、してはいけない。

 俺は、すうっと息を吸い込み、はーっと吐き出した。ネルが隣で同じように、はー、と息を吐き出しているのを見て、あれ?と、少しだけ思った。なんだか、いつものネルのため息に似ているような、そんな気がしたからだった。だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 俺は、自分に言い聞かせるように、ネルに伝えた。

「ベスィの魂を、あるべき場所へ霊送する」

 そして、走り出す。全速力と言われたのだから、あの、風のように駆け抜けて行ったネルの後ろ姿を思い出し、リボルバーを構えて駆け出した。道の端に寄りながら、足音を立てないように、走り抜ける。反対側を見れば、同じようにネルが走っているのが目に入る。いつもの剣は、気づかれないためか、まだ、青白く光る刀身はそこになかった。
 だが、───後、十メートルほどのところまで近づいた時、銀色の円盤のベスィがちらっとこちらを向いたのだ。まるで円盤が浮いているかのようだったのに、こちらを向いたその鏡のようなつるりとした円盤の面に、人間の男性の体が、バラバラに映っているのが見えた。
 どういう仕組みなのかとか、あれが何なのかとか、そういうことはわからなかった。でも、思わず、目を見開き、息を飲んでしまった。速度が落ちる。
 うろうろしているだけだったベスィは、自分が狙われているという危険を察知したのか、突然、俺に向かって、銀色の小さな円盤を飛ばし始めた。形だけ見れば、フリスビーか、あるいはレコードのように見えるその円盤が、刃物のように鋭利なものであることは明らかだった。ネルが叫ぶのが聞こえた。

「ソーマ!」

 だけど、俺はすごい勢いで飛んできた三枚の円盤を、低くしゃがんで避け、その体制のまま、ベスィに向かって、引き金を引いた。ズキューンズキューンと、鋭い銃声が、静寂の中、辺りに響き渡った。パリィンと音がして、ベスィの鏡面に穴が空いた。だが、ベスィはまだ動けるようで、逃げ出したのだ。「だ、大丈夫だから!」と言いながら、俺は、再び足を動かした。
 この辺りを封鎖しているとは聞いていたが、角を曲がってしまったベスィが間違って他の人間に遭遇しては困るのだ。反撃されたことで、俺の中でのわだかまりみたいなものが、少しだけ、どこかへ行ったような気がした。あんな円盤で、他の人間が傷つけられては困る。とにかく、そこに集中することにしたのだ。
 問題は、あの円盤のどこに、心臓があるのかということだったが、あの円盤に映っていた体の部位を思い浮かべ、あの中の胴体の部分にあるに違いないと、俺は思った。そして、俺の足は、さらにぐんっとスピードを増し、ネルよりも早く、角を曲がった。
 角を曲がった先には、階段があった。多分、俺たちがいる場所が、丘のような斜面だったのだろう。ベスィはその階段を文字通り、転がるように降りていた。どうしようかと一瞬、考えたけど、どうすればいいかなんて、明らかだった。「待って!ソーマ!」と後ろから、ネルの焦った声が聞こえたけど、俺は迷わず、地面を蹴って、跳び上がった。

(この先は、───封鎖していると聞いた区画の端だ。このままじゃ、封鎖している一般の警務員のところまで行ってしまう)

 ヒュオッと風を切る音がした。バタバタと、俺の紺色のトレンチコートの裾がはためく。俺は必死だった。リズヴェールの夜景が一瞬目に入り、そんなに高く跳んだのか?と、不思議に思ったが、そのまま、リボルバーで打ち続けた。弾がなくなったが、リロードするよりもと、もう一つの大きなリボルバーを構えた。
 ドンッとすごい音を立てて、円盤のベスィよりも前に、俺は、大股で着地した。二・三階分ほどはありそうな、長い階段を、跳躍で追いつけるなんて、正直思わなかった。だが驚いている暇はない。俺は、くるりと振り返ると、焦って動きを止めたベスィの鏡面のような円盤に、胴体の部分がぷかぷかと浮かぶように映っているのを確認し、リボルバーを構えた。
 闇夜の中で、きらりと銀の装飾が施された長い銃身が光った。

「何も何もしてない!僕は、本当に何もっっ」

 その悲壮漂う言葉に、うっと泣きそうな気持ちが込み上げる。オルガさんのことも、石膏のベスィのことも、思い出した。それでも、───。俺は円盤のベスィに向かって、引き金を引く。しっかりと、見て、まっすぐと。
 昼間練習した通りに、直線を描きと、弾丸は、ベスィを撃ち抜いた。

「ぎゃああああああああああ。なんで!どうして!!」

 しっかりと、ベスィの心臓を撃ち抜いたのが、俺には見えていた。その悲痛な叫びに、眉間に皺を寄せ、ぐっと奥歯を噛み締めた。ズキンッと尋常じゃない痛みが、頭に広がる。でも、───と思う。これから俺がしなくてはいけないのは、こういうことだ。それが、この街を、この国を、女帝陛下を、守ることなんだ、と、言い聞かせる。
 ふらつく足を、どうにか前へと進める。こつこつと自分の革靴の音だけが響いた。
 動かなくなったベスィに近寄り、俺はその隣にしゃがんだ。円盤の中に浮いていた、人間の男性の顔に、悔しさや、憎しみのような表情が浮かんでいるのを見て、胸に、ひどい痛みを感じた。頭痛なんかとは比べ物にならない、痛みだった。
 そっと、その円盤に手を乗せてみれば、オルガさんの時のような、淡い光が、天へと上って行った。
 自分がどういう気持ちなのか、全然わからなかった。でも、気を抜けば、泣き出してしまいそうなことは、わかった。胸と頭に、尋常じゃない痛みを感じながら、額に手をやる。
 急いで階段を降りてきたのか、息を切らしたネルの、荒い呼吸の音が聞こえた。

「………ソーマ」
「大丈夫。次、いこっか」

 今日は一体だけではないと、聞いていたのだ。マークされているベスィを一掃するための夜勤なんだと。顔を上げれば、珍しく、あからさまに心配そうな顔をしているネルと目が合う。それでも、自分がやるべきことは、決まっていた。
 俺は、そんなネルに背を向けて、次に指定されていた区画へと向かって歩き出した。
 ───自分の身体能力の高さになんて、なんの疑問を持つこともなく。

 心配そうな顔をしたネルの通蝶の光が、空へと舞って行った。

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